2014/07/01

Decentralized autonomous organizationって面白そう

いろいろありましてずいぶん久しぶりのブログ更新です。 それというのもEthereumの提唱する「decentralized autonomous organization」という考え方に対して共感するところがありまして、ちょっと追いかけてみようと思いいたったことがきっかけです。以前から実現可能性について心の片隅にあったテーマなのですが、かなり間隔が開いてしまいましたので、ブログに書くことで何ができそうかしばらく整理して行きます。
一時ISO 20022からみでISO/TC68関連に少し掠っていましたが、decentralized autonomous organizationには重いですよね。ただ、貿易決済の課題がヒントになるかもしれないなと考えています。

2012/05/19

斎藤誠『原発危機の経済学』

技術とは絶対安全なものに出来るのか?または絶対安全なものでなくてはいけないのか?その疑問に対するヒントを次の資料から得ることができます。
火というものは、人類が手にした最も古い技術の一つですが、この白書の統計を見ても分かるように未だに絶対安全なものにはなっていません。この白書に述べられているように、絶対安全なものには出来ないことを前提に、社会としてその危険性が許容可能なものに収まるように、いまだに努力が続けられています。薬とは結局のところ、「有益な作用が有害な作用を大きく上回る毒」であると見ることができます。益と害のトレードオフはどのような技術にもつきものであり、そのトレードオフをなんとか調整しながら発展してきたのが文明です。
現在の原発再開問題が迷走しているのは、原発の危険度に応じた総合的な運営体制に不備があったからこそ、福島第一原発事故という事態にいたってしまったにもかかわらず、運営体制の見直しに関する明確な取り組みがいっこうに見えてこないことが一因です。斎藤誠『原発危機の経済学』では、経済学者の視点から原子力発電全体の運営について、問題点の分析から今後の施策の提言を行なっています。
経済学者という原子力発電の素人がこのような提言を行うことについては、異論がある方もいるかも知れません。しかしながら、本来の工学とは単なる新技術の開発にとどまらず、技術がもたらす便益と、コストやリスクとのバランスに関する意思決定を行うというタスクを含んいでいます。その視点を持たない人は、「Engineer」ではなく「Engineering technologist」または「Engineering technician」です。このあたり、「工学」という日本語と「Engineering」という英語では、一般的な受け止められ方が微妙にお子となって異様に見えます。
例えば、EngineeringについてAmerican Engineers' Council for Professional Developmentがかつて次のような定義を与えています。
The creative application of scientific principles to design or develop structures, machines, apparatus, or manufacturing processes, or works utilizing them singly or in combination; or to construct or operate the same with full cognizance of their design; or to forecast their behavior under specific operating conditions; all as respects an intended function, economics of operation and safety to life and property.
Engineers' Council for Professional Development. (1947). Canons of ethics for engineers
この定義から分かるように、経済学的な視点というものは光学的な意思決定を行う上でも欠かすことの出来ない要素の一つです。もちろん、経済合理性だけで決断できるものではなく、原子力発電のような大きな危険を伴う技術に関しては、社会心理学的な視点からの合意形成など、多角的な視点が必要とされます。
本書は、経済合理性という観点から見て、はじめから結論ありきでその結論を導くための論証を行うのではなく、あくまでも得られた情報にもとづいて冷静な分析を行なっているという点で、その分析結果についての賛否はともかく、一読する価値があります。
このように書いていると、いかにも現在の経済学のパラダイムにどっぷり使っているように見えるかもしれませんが、私自身はと言えばいろいろ疑問に思うことがあります。それも、多くの人が指摘するような合理性に関する問題ではなくて、効用と貨幣価値、主体の相互依存性、取引の不可逆性に関する問題です。取り返しのつかない問題に関してどのように合理的な判断を行うのか、例えば生死に関わる問題に関して、サンクコストとして考えろというのが受け入れられないからこそ、いっこうに合意形成がなされないのでしょうから。原状回復が容易なら、リスクをコストとして評価してコストと便益のトレードオフとして考えて十分です。でも、死んだ人を生き返らせることが出来ないという、取り返しがつかない問題に関して言えば、リスクと便益のトレードオフは分けて考える必要があるでしょう。私としてはこれからの経済学に期待したいところです。

2012/03/11

あれから1年

東日本大震災から1年。そういえば最近ブログ更新していなかったということで、簡単ながらエントリーを投稿します。
私自身の居住自治体は放射性物質汚染対処特措法の汚染状況重点調査地域に含まれていますし、親族等が津波の被災地域にいる関係で色々生々しい話も聞きました。そして思ったこと、考えたことを書き連ねていきます。
日本人はリスク回避志向と言われています。しかしながら日本に居住するという時点で巨大なリスクを抱えていることを改めてつきつけられました。日本人はリスク回避志向なのではなく、すでに十分なリスクを抱えています。その様な環境のもとでは、不確実性の持つ正の側面に目を向けてチャンスと捉えるよりは、不確実性の持つ負の側面に目を向けて生き残りを図るという傾向が生まれるのは当然のことです。
ここで問題になるのはリスクというのは無くすことは出来ないということ。どんなに管理、制御しようとしても姿形を変えることができただけ。例えば、いま復興の遅れが指摘されていますが、結局災害に対する十全な備えと、迅速な生活再建という、トレード・オフの関係にある目標の間で、どのようにすればいいかのか合意形成が難航していることにあります。何らかの評価尺度に基づいて決めるということは、同時に評価尺度に盛り込まれなかった事項は考慮しなくても構わないという決定を下したということを意味します。そして、現在復興に関して決定を遅らせているのは、何を考慮すべきか、その重み付けをどうするかの合意形成が困難を極めているから。平時の都市計画でも合意形成に難航を極めていましたから、復興計画が現状のような自体になることを予想された専門家の方も多かったのではないでしょうか。
不確実性のある状況下でどのように意思決定を行うのか、リスク管理に携わっていた時からの問題だったのですが、改めて私自身の課題としてみたいと思っています。

2011/10/28

野矢茂樹 『語りえぬものを語る』

自明であることは普段明示的に意識されることはありません。不毛な論争の原因の一つは、自明な前提のすべてを必ずしも共有していないことがあります。哲学は、自らが自明と考えることを敢えて意識することで、自らの考えの前提を再考するのには役に立ちます。その様な意味で、野矢茂樹(著)『語りえぬものを語る』は、いろいろ考えさせられる謎を提供してもらいました。最近科学技術論で悩ましい議論が続いているので、科学哲学関連の所が特に興味を惹かれました。
本書の中で自由意志論に関連して、決定論を批判しているのですが、そこで科学に関して興味深い批判がなされています。
決定論であれ、非決定論であれ、もし自然科学によって人間の行動のすべてが語られうるならば、そこに自由の居場所はない。私が見据えているゴール、それはむしろこう述べることができるだろう。――自然科学は、世界を語り尽くすことはできない。
(本書p.450)
科学哲学的に反実在論の立場から見てもこの主張には同意します。だから科学の目的は真理の探求ではなく現象の妥当な説明であるのですが。何を持って真理であるといえるのか、それが不明である以上、語り尽くすことはできないのは当然です。でも、だからこそ科学には終焉はなく、大変喜ばしいことであると考えているのです。残念ながら真理に到達し得ないことはむしろ喜ばしいことだと考える変わり者はあまりいなさそうですが。
古典論理に基づいて議論をすすめと、正誤が不明な前提が存在すると、その議論は常に正しいと主張することができて、その「正しい」という主張自体が無意味です。そして、世界について語る場合、その前提をすべて明示的に示すことは現実には出来ません。私が反実在論を支持しているのはそれ故です。一見妥当に思える前提条件を置けば、どのような仮説も「正しい」と主張することができますから。信念の問題を古典論理で扱うのはちょっと厳しいのではないでしょうか。
結局のところ、科学において重要なのは「正しいか否か」ではなく、なぜ「妥当な説明である」と主張して良いのか、その基準こそが問題です。そこに科学哲学の役割があります。それ故、疑似科学問題においても、その正誤を議論することは不毛です。単に正しいと主張するならば、実際のところ何も言っていません。
では哲学はどうなのかというと、やはり終焉は訪れそうにないのですが。それはそれで喜ばしいことであると思うのですが、そう受け取る方はあまり多くないでしょうね。本書を読んでいても、真理に対するこだわりはなみなみならぬものを感じますから。

2011/10/13

マイケル・モーズリー、ジョン・リンチ『科学は歴史をどう変えてきたか: その力・証拠・情熱』

一般向けの科学史の書籍では、どうしても大発見に焦点を当てて、その発見を分かりやすく伝えるというスタイルになりがちです。その様な傾向の中にあって、マイケル・モーズリー、ジョン・リンチ(著)『科学は歴史をどう変えてきたか: その力・証拠・情熱』は、邦題から受ける印象とは異なり、「何が科学の歴史を変える原動力になってきたのか」という観点から科学史を描き出しています。

科学の歴史を語ろうとすると、偉大な科学者による大発見や大変革、あるいは彼らが天賦の才を発揮したときの話が中心になりがちだ。しかし、実際にはそこに至るまでの物語やその後の物語、そして歴史的な背景があるのだ。科学は何も無いところからは生まれない。科学は象牙の塔に閉じこもってはいないのだ。科学はその成果を実践する社会の一部であり、そしてその社会とは、政治、人格、権力、情熱、利益などが錯綜する場である。だからこの物語をひもとくと、政治情勢や宗教的風土の重圧を、共に生きる人々と同じように受けながら研究活動を行なっていた科学者たちに出会うことになる。その様な背景を知ることによって初めて、その時その場で何故のその偉業が達成されたのかを知ることが出来るのである。

(本書p.9)

本書では科学史という縦の流れだけでなく、それぞれの時代の社会の中での科学という、横の広がりからも科学の歴史を捉えています。それにより、なぜその様な大発見がその場、その時になされたのか、逆に何が発見を阻害していたのかが理解できるようになっています。私は、ある出来事に至る縦の事象の連なりだけでなく、社会などの横の広がりを同時に見ることなしには、歴史は理解出来ないと考えています。日本に「Science」が「科学」として入ってきたのは、そのような重圧の最も大きかった時期を過ぎ、その立場がある程度確立されてからですから、その成立史を知ることは科学への理解を深めるためにも役に立つはずです。

目次

はじめに
淡いブルーの点
科学の今/その場、その時/カネ/性格/幸運/反常識
1 宇宙
そこには何があるのか
皇帝の王宮/怒りっぽいデンマーク人/天体のハーモニー/確信/円の中の円/貧しい数学者/ポーランドの修道士/宇宙の神秘/頭脳の邂逅/95の論文/ケプラーの法則/オランダ人の眼鏡/完璧な視界/科学の父/大航海時代/賭け/重力/不変の法則/カネを追え/ビッグバン/不確実性
2 物質
世界は何でできているのか
原子/笑う哲学者/錬金術/17世紀/化学革命/プリーストリーの空気/晩餐会/気球戦争、ガス戦争/分解/革命/ロマンティックな科学者/合成の時代/世界大戦/頭の中にあるもの/謎めいた放射線/原子/大聖堂の中のハエ/大量消費社会/未来
3 生命
私たちはどうやってここまで来たか
有用植物/分類/地質屋スミス/骨格の復元/絶滅/何歳?/熱い岩/悠久の時の流れ/進化の痕跡/長い首/生存競争/自然淘汰/ダーウィンを超えて/世界を変える/大陸のジグソーパズル/冷戦がもたらしたもの/生と死/偶然の生き残り
4 エネルギー
無限のエネルギーを手に入れられるのか
水の社会/オランダの風/永久運動/満月の人たち/電気、電気、電気/蒸気/特許の威力/蒸気の時代/ヴィクトリア時代と効率性/電気を発する魚/情報の流れ/実験と実践/個人的エネルギー/電流戦争/放射能の不思議/理論の猛追
5 人体
生命の神秘とは
解剖学者/死体解剖/機械としての人体/実験重視/生命とは/化学の誕生/ホルモンの時代/細胞/微小生物/医師による死/細胞の内部/DNAの時代/DNAとは/生命の神秘
6 脳
私たちとは
古代エジプト人の考え/脳が研究対象に/死体と生体の観察/暗黒の時代へ/新たな希望/明らかにされる脳/啓発された心/感情の再登場/何が潜むのか/部分、部位/網の目/新世紀の開拓者/これから

本書を読んで思ったこと。やっぱり社会的な要請と何らかのつながりがないと科学研究の資金獲得は難しいですね。科学者はすべからく実用に直結した研究をすべきというわけではなくて、その研究分野の成果物を利用している産業が盛んであれば、自ずととその分野での科学研究へも資金が流れていくということです。資金が無限にあるわけではない以上、科学の分野間での資金獲得競争もあるわけでして、そうなると裾野の広い分野のほうが支持者が多くなるのは当然のことですから。