2009/12/26

カール・ジンマー『大腸菌』

大腸菌 ~進化のカギを握るミクロな生命体』は、E. coli (大腸菌)という生命科学研究では極めてなじみの深い細菌をネタにして、進化生物学、細胞生物学、生態学から、バイオテクノロジー、合成生物学、そして生命倫理にまつわる話までをその研究の歴史を踏まえて最近の動向まで解説しています。分からなかったこと、新たに分かったこと、複数の仮説が争っていること、既存の定説が覆ったこと、いまだ分かっていないことなど、科学の面白さが伝わってきます。最近、サイエンスコミュニケーションに注目が集まっていますが、科学のすごさを伝えようと分かったことだけに焦点を当てるのって、ちょっと違うのではと思っているんですよね。でも、正解を求めるような教育中心で育ってきた人が多い現状では、そのような本って受けが悪いかな。科学なんて結果として自ら立てた仮説が例え違っていたとしても、可能性を縮減させることができたという成果。ただ、日本の科学界には無謬性志向の強さを感じるから、自らの権威を貶められたと反発を感じる人も出てくるか。

一時遺伝子の解読が進めば、生命の理解について一気に進むかと思われていた時期がありましたが、そこからがまだまだ長い道のりになりそうなのが現実です。

生物学者の多くは、生きていることの意味を理解しようとE.コリに向き合うことに人生を捧げた。別の生物種で一から始めるより、先達が積み上げてくれた土台の上に自分の研究の場を設けることを選んだのだ。成功が成功を呼んだ。一九九七年には、E.コリK12の全ゲノム地図が発表された。そこには四二八八個の遺伝子の位置が示されていた。E.コリについての知識が集積するにつれて、遺伝子を一つ欠損させた変異体をつくって、ふるまいがどう変わるかを観察し、欠けた遺伝子の指示内容を調べるという研究が容易になった。おかkげでいまや、E.コリの遺伝子のうち六〇〇個を除く全ての指示内容の概略が判明している。

大腸菌は長い研究の歴史があるおかげで、全遺伝子が解読されたときに、その機能の解明が飛躍的やりやすかったとはいえ、それでもいまだ機能が解明されていないものがあります。動物実験反対派の中には、コンピュータシミュレーションによるドライラボで代替することを提案する方もいますが、そこまで生命について理解が進んでいるかというと疑問です。分かったことだけを特筆して伝える傾向から、逆に動物実験の代替手段が今でも可能だという幻想を抱かせてしまったのかもしれません。

そもそも私たち人間は、他の生命を糧にしなくては生きていけません。必要最小限の犠牲にとどめるよう努力しながら動物実験を進める、これが現実的な解ではないでしょうか。動物実験への規制が欧州を中心に厳しくなるのと軌を一にして、少ないサンプルでも分析できるように、統計学でもノンパラメトリック手法を発達させてきたんですよね。

バイオテクノロジーによる遺伝子操作に対して嫌悪感を抱く人は多いかと思いますが、実は自然の方がもっと大々的に遺伝子操作が行われています。レトロウイルスのように自身を宿主細胞のDNAに組み込まれるウイルスを媒介として、他の生物に遺伝子が運ばれる水平遺伝子移動の存在が発見されています。遺伝子組み換え技術自体、この自然のメカニズムを利用したものですし。

二〇〇五年、ジョージア大学の微生物学者アン・O・サマーズらの研究チームは、水平遺伝子移動によって促進される進化に「オープンソース進化」という名前をつけた。親から子に伝えられる垂直遺伝子移動と自然淘汰は、社内のソフトウェア開発チームのようなもので、創意工夫の部分の詳細は外からは見えない。一方、水平遺伝子移動はE.コリに、大量のソフトウェアにアクセスして自身のオペレーティングシステム(OS)で試用するのを可能にする。もちろん新しい組み合わせを試してみて大失敗することもある。その場合、ソフトウェアはクラッシュし、E.コリは死ぬ。しかし、自然淘汰の研磨が組み合わせをなじませることもある。改良部分は後に別の生物のゲノムに組み入れられ、そこでさらに磨きをかけられるかもしれない。もし、E.コリがいくらかでも先導するのなら、オープンソース方式の未来は明るい。

オープンに利用できる既存のコードを利用して、自らを改良するのはまさにオープンソースと言えるかも。生存能力に関しては、我々人間のはるか上をいっています。複雑なメカニズムをもった生き物を高等であるという見方がありますが、そのような高等な存在ほど、生存を多くの前提条件に依存していて、複雑であるから変異も難しい。生命って単一の基準で上下関係がつけられるものなんでしょうか。

生命の本質、ヒトの本質について、私たち人間の、たぶん生得的な生物観に絡んだ次の記述が印象的でした:

直感生物学は、それが真実だから進化したわけではない。便利だったからだ。私たちの祖先は直感生物学のおかけで、集めた情報から適切な判断をすることができた。そして適切な判断が生存率と繁殖率を高めた。しかし直感生物学は、生命の深遠な真実を知るという意味では信頼できる指針ではない。例えば種としてのE.コリの本質は何だろう?それは、無害で、糖を食べ、べん毛を創り微生物だということになる。しかし、我tしたちがE.コリと呼ぶ種の中には、腸内で病原体と戦ってくれる頼もしい味方もいれば、特殊な武器で私たちの体を攻撃する困りものもいる。私たちにとって有益でありながら、殺し屋にもなるという二面性をもったものもいる。そしてこれのE.コリ株の多くは、私たちがこだわる種の境界線をまったく守らないウイルスにとりつかれて進化してきた。結局、E.コリという種を統合できる不変の本質というようなものは存在しない。

直感生物学はE.コリを理解するのに役に立たないだけでなく、私たち自身を理解するのにも役に立たない。あらゆる生物種と同様、ヒトも進化の産物だ。もしそうでないとするなら、バイオテクノロジーをめぐる物議そのものが最初から存在しなかっただろう。もしヒトだけが真に特別な生き物だとしたら、ヒトの遺伝子をこんなに簡単にE.コリに入れたり、ヒトの脳細胞をマウスの頭で育てたりできるはずがない。ヒトであることの本質は、E.コリの本質と同じく、私たちが心の中で勝手につくっているイメージにすぎない。

このような主張がなされるものも、宗教、生命倫理に絡んで論争が繰り広げられていることに強く影響されているのでしょう。宗教的、形而上学的に生命の本質を述べることはできるでしょう。でも科学として生命の本質を決めてかかると、逆に先入観から生命現象が見えなくなる恐れの方が強いのではないでしょうか?因果、本質を追求してしまう心理学的性質を人間が持っているとしたら、それこそが科学的発見の大きな障害になると思ってなりません。

2009/12/20

湯之上 隆『日本「半導体」敗戦』

日本「半導体」敗戦」を読了。結局日本の半導体企業ではマーケティングが機能していなかったという点につきるのかな。マーケティングが機能していれば、どのような事業展開になるかを端的に示すのが次の記述:

2年前、インテル社のインテグレーション技術者へのヒアリングを行った。その結果、彼らは、半導体デバイスの原価から逆算して、工程フローを構築していた。彼らは、まず、精算するハンドうちデバイスが組み込まれる製品 product (例えばパソコン)の価格 sales price および原価 cost price を想定する。次に、この原価から半導体デバイスの価格および原価を決める。そして、この原価を実現する歩留まり yield を決める。例えば、価格2万円、原価1万円、歩留まり90%といった具合である。そして、原価1万円、歩留まり90%に”なるように”、プロセス・フローを構築する。その差異、最優先するのはコストである。極力短いフローを組み、極力各工程をシンプルにしてスループットを上げる。また、目標とする歩留まりや納期を達成できるようにフローを工夫する。

要するに、顧客が自らの製品に要求する性能と支払うことができる価格を想定して、自らの製品の価格と利益を出せるための原価を決めていくというのがマーケティングの役割の一つ。単なる販売促進だけでも、顧客の要望を聞くだけでもありません。

これは理想のあり方なんですが、なかなか理想通りには行かないというのは、私も痛感していたところ。原価積み上げベースの価格設定(=売れない)か、顧客要求を優先させた無理な価格設定(=下手をすると原価割れ)か。利益が出ない典型パターンへ。

性能重視、コスト軽視が問題視されていますが、どちらかというと顧客、競争相手の動向を想定した上でトレードオフを考えていくということが出来ていないことが問題だと思う。コスト重視でVEやり過ぎで製品に問題発生、回収騒ぎとかもありますから。性能にしろ、コストにしろ、単一ファクター重視のやり方は、ある意味明快です。それに対してトレードオフには事前に把握することの出来る唯一の正解はありません。トレードオフを考える上での前提条件は全て明確に把握できるわけではなく、自らの責任で決めなければいけない部分があります。そこに現実にトレードオフを考える上での困難があります。前提を合意できるのか、決めた責任の問題など。現代日本に漂う閉塞感の原因と、根っこは同じですかね。

2009/09/02

竹内 薫『理系バカと文系バカ』

竹内 薫(著)『理系バカと文系バカ』を読んで感じたこと。文系理系の距離よりも、理論屋と実験屋の距離の方が遠いかもしれないということです(苦笑)。

理論屋はどちらかというと演繹的な思考を得意として、実験屋はどちらかというと帰納的な思考が得意な人がなるというイメージがあります。それを再度確認させられたのは本書の次の分です。

「物理学」を敬遠するのは文系人間だけではない。理系人間のなかにも「物理学」に拒絶反応を示す人たちがいる。それは「生物学」の人たちだ。「生物学」に進んだ人は生き物が好きな人はもちろんだが、「物理学」と「数学」が嫌いで「生物」を選んだ人が意外と多い。そのため「物理学」や「数学」を毛嫌いしている人も多い。

生物系の人で、「物理学」や「数学」を「嫌い」なタイプって、いくつかあると思いますが、そのひとつは本書の中に書かれているタイプです。

以前、生物学者の池田清彦さんのこんなエピソードを聞いたことがある。池田さんも、xが入ってきた時点で数学が分からなくなったそうだ。原因は「x=1というのは何か」というものだ。池田さんは、「イコールというのは同じことだろう。<1=1>は分かる。1が1と同じになりイコールは分かるんだけど、xと1は違うのに、なぜ<x=1>なんだろう?」。ここで分からなくなったそうだ。実は数学は、根源的にものを考える人ほど、分からなくなる。

で、「数学」や「物理学」の授業はというと、「このように考えるものだ」とどちらかというと演繹的に進められていって、その「なぜ」が解消されないまま進んでしまう。それで、「数学」や「物理学」に嫌気がさした人が、観察される現象の「なぜ」をひたすら追求する学問である生物学に流れてきているのでしょう。まあ、とはいっても、「物理学」や「数学」の知識がないと実験データを読めませんから、生物学でも物理学や数学の知識はある程度必要とされるんですけどね。

あと、生物学の場合、実験環境の統制には限界がありますから、統一理論とか綺麗な数理モデルを作ろうとする指向はどちらかといえば弱いですし。綺麗な数理モデルが役に立つ分野は限られていて、ひたすら実験・観察結果から事実を積み上げていくという分野の方が圧倒的に多いですね。そのため、「嫌い」というよりも自分の分野ではあまり使えないと思ってスルー気味のタイプの人も多いかと思います。

そしてこの本を読み終わって感じたこと。著者の竹内さんってどちらかといえば理論屋さんだなあと(苦笑)。