2010/01/20

ダン・ガードナー『リスクにあなたは騙される』

ヒューマンエラーは裁けるか―安全で公正な文化を築くには』で、なぜ過失に対して刑事責任を問うのか考えたとき、そこには人間が事態をコントロールする能力に対する過大な期待が見え隠れしているように思えます。リスク認識に対してズレが潜在的にあるときに問題が発生すると、期待が一転して責任追及に向かってしまうのではないでしょうか?また人々が抱く不安を煽り、実際よりもリスクを過大に思わせることで利益を得るやり方は、よく見かける光景でしょう。今回の金融危機発生以来、特にリスク、不確実性といったものに注目が集まっていますが、人々がいかにリスクを扱いかねているさまが、ダン・ガードナー『リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理 (原題: Risk: The Science and Politics of Fear)』では描かれています。

では、なぜわれわれはリスクをうまく扱えないのでしょうか?本書では我々人間が「腹(=直観的、素早さ、感情的、無意識的)」と「頭(=合理的、正確さ、理性的、意識的)」という二つの心を併用して意志決定していることに原因を求めています。

「腹」、つまりヒューリスティックによる判断は、即時に判断しなければいけないときに最大の力を発揮します。視覚情報処理の研究で示されているように、人間は感覚器から入ってくる膨大な量の情報難なく処理することができるのに対して、コンピュータで処理しようとすると古くはフレーム問題などの難問に直面してきました。ただ、素早さの代償として「認知バイアス」の問題を抱えることになってしまいました。単純な例では錯視を上げることができますが、認知心理学、行動経済学の発展過程で、さまざまな認知バイアスが存在することが分かってきました。リスクに関する認知バイアスとしては、カーネマンとトベルスキーによるプロスペクト理論が広く知られるようになってきました。

「頭」、つまり合理的思考は正確な結論を導くための最善な手段であると言えます。リスクに関してはデータを調べ、事実に基づいて対策の必要性を判断することで、認知バイアスにより不適切な判断を下すことから免れることができます。ただし、手法を正しく学習していなければ誤用によって誤った判断を下してしまいます。この問題は「第5章 数に関する話」で取り上げられています。

「腹」の弱点を誇張したいとは思わない。人工衛星とマイクロチップの現代世界でさえ、直感はまだ多くのことを正しく把握する。科学と統計に限界があることを覚えておくことも重要である。たとえば、科学と統計は不確かさを完全に取り除くことはない。統計によって、見かけ上の癌の集中発生が、偶然の産物でありうることは分かるかもしれないが、偶然の産物であることはわからない。そして、最も綿密な疫学的研究でさえ、農家の殺虫剤が癌を引き起こし知得るかどうかを完全に証明することはできない。提示できるだけである。提示は、控えめなときもあれば、つねにある程度の不確かさを伴う。あらゆる種類の科学的な調査において、確実な事実と説得力のある説明はゆっくりと積み上げられ、多大な努力を伴って始めて可能である。

リスクに関する議論は本来程度の問題であるにもかかわらず、良い悪いの極端に振れがちです。疫学的研究で警告がなされているのにもかかわらず、因果関係が証明されたわけではないとして結果として被害の拡大を招いた悲劇が一方にあります。そしてその反動で、因果関係がはっきりしていなければ原則禁止という予防原則によって、有効な対策を打つことを阻害してしまうという弊害もまた現れています。

また、「頭」は瞬時の判断を求められることにも向いていません。そのような場合は無意識に行動に移れるよう訓練する、つまり「からだで覚えろ」です。

このように二つの心のシステムは独立しているのではなく、相互補完の関係にあります。

「頭」は「腹」の決定を監視し、「腹」が間違っていると思えば、少なくとも、決定を調整あるいは却下しようとすることができる。「腹」が決め「頭」が見直す。このやり方で私たちの思考や決定の大部分が形成される。

「腹をくくる」という言葉は、このような心の働きを端的に表現してますね。

このような「腹」と「頭」の相互補完関係がうまく働いていればめでたしめでたしなのですが、現代人はこのようなそう補完関係が築き上げられた環境からは大きく異なるところまで来てしまいました。現生人類の先史祖先が現代に現れたらという映画やドラマがありましたが、では私たち現代人はそれら先史祖先とどれだけ違うのでしょうか。

私たちの脳は、今日私たちが知っているような世界の生活によって形成されたのでは断じてない。また、それに先立つ農耕世界での世界によって形成されたのですらない。もっぱら旧石器時代の産物である。そして、脳がまさに私たちを今の私たちにしているのだから。以下の結論は避けられないし、少し動揺を与えるものである。私たちは原始人なのだ。ガラスとスチール、光ファイバーの世界に住む現代人である私たちは、根本的な意味において、たき火が最新のハイテクでありバイソン皮が最新の流行である先史時代の人間とまったく違いがない。

人間の本性の問題と絡んでまだ議論がなされている分野ですが、生得的な心理的メカニズムがリスクの誤認に一役買っているというのは妥当なものであると見なして良さそうです。

さらに「腹」の判断に影響を与える要因として文化があります。例えば「第6章 群れは危険を察知する」で取り上げられている薬物に関するリスク認知の問題です。

私たちはアルコールが大好きであることを考えれば不思議ではないが、公衆衛生担当の役人は、世間がこの薬物の危険をほとんど理解していないといってよくこぼしている。その危険どは、中毒や、心臓血管の病気、胃腸障害、肝硬変、癌、胎児性アルコール症候群、飲み過ぎによる史をもたらすことであり、これは疑問の余地無く、違法薬物全てを合わせた場合よりはるかに多くの人を死亡させてきた薬物なのである。アルコールとほかの薬物に対して抱いている極端に異なる感情が結局どういう結果を招くかが、カナダ薬物濫用センターの二〇〇七年の報告書にうまくまとめられている。ほとんどの人は「違法薬物の使用に結びついた害について大げさな見解を抱いているが、社会に対するアルコールの深刻な悪影響は一貫して過小評価している」。これは「腹」の働きである。文化から影響を受けているのだ。

断っておきますが、この引用は薬物濫用を擁護するものではありません。アルコールに対する肯定的なイメージがいかにリスク認識に影響を与えるかという、文化要因の典型例として取り上げてみました。著者は、アルコールが、

英国のテレビの二〇〇三年の調査で分かったのは、アルコールが「肯定的で愉快で滑稽なイメージ」で日常生活に登場することだった。

という文化傾向からリスクが過小に認識されるようなバイアスが働き、違法薬物が

WHOのコカイン報告書には、補どんどの薬物教育が「表面的で、ぞっとするようなもので、過度に否定的なもの」と表現されている

という政策の効果により、おそらく実際よりも誇張されてリスクが認識されていると見ています。この文化からの影響は、確証バイアスによって強化され、統計的に判断されるリスクから離れたものへと、「腹」による判断を向かわせることになるでしょう。

我々は、進化の歴史のなかで二つの心の巧みな連携によっていき残ってきました。ただ現代の環境の中では、特に「腹」による判断に潜むバイアスがリスク認識に不具合を生じさせている、というのが本書の根底となっている視点です。

では、なぜ我々がリスクを認識するメカニズムを自覚する必要があるのでしょうか?それは本書の副題にあるように「「恐怖」を操る論理」によって、我々の判断がミスリードされる恐れがありえます。つまり、リスクに対する認知バイアスを巧みに利用することで、無意識のうちに偏った判断をするように誘導される危険にさらされているからです。「第7章 恐怖株式会社」で触れられているように、「腹」による判断に訴えかけた方が、「頭」に対するより効果的に判断に影響を与えうるという事実が、マーケティングではフルに活用されています。企業だけでなく、政治家、政府、NGO、そしてメディアが、この効果的な「不安」というツールをフルに使って自分たちの影響力を高めようとしてします。

メディアは「感動的な物語」が大好きですよね。ただ、「第8章 活字にするのにふさわしい恐怖」にあるように、「感動的な物語」はリスク認識をゆがめることにつながってしまいます。

話をすることは自然なことかもしれない。啓発的なことでもあるかもしれない。しかし、私たちが暮らしている世界と私たちを実際に脅かしていることを理解するためには使い物にならない道具であることが多い。科学者が言うように、逸話はデータではない。どれほど感動的であろうと、どれほど数が多かろうとデータではないのである。

「感動的な物語」が早まった一般化に結びついたとき、リスク認識にゆがみを生ずる恐れがあります。単にリスク認識がゆがんだというだけならまだ害は少ないのですが、このリスク認識のゆがみは特に民主主義政体をとる国においては、政策へと反映されることになります。政策全体に使える資源は有限ですから、そのゆがみは本来もっと重点的に取り組まなければいけない政策への過小投資へと結びつきかねません。個人的に感動しているだけなら個人の自由ですませられるんですけど。

本書を読み直すきっかけになった「ユーマンエラーは裁けるか」に関連しているのか、「第9章 犯罪と認識」です。刑事罰に対しては、抑止効果や更生といった目的が上げられることもありますが、その効果をどれだけ本当に信じています?

犯罪に関する感情を特徴付けているのは怒りである。他のものを傷つけた者は処罰され、秩序が回復されなくてはならないという非常に強い感覚が、進化によって脳に組み込まれていることを思い出して欲しい。犯罪者が将来も危険な存在であるかどうかは重要ではない。その男は処罰されなくてはならず、傾いた正義の天秤は平衡を取り戻さなくてはならない。それは安全の問題ではない。正義の問題である。

この引用でもあるように、刑事責任を問わなければいけないと思う一番大きな要因は、因果関係を(とにかく)定め、原因に対して責任を負うものが処罰され、それによって秩序が回復されたと感じることでは。抑止効果や更生効果は、現実の運用を見るかぎりにおいて建前に過ぎないように見えます。そして、過失であっても同じ心的メカニズムが働くことが、ヒューマンエラーに対して、道義的責任、民事責任だけでなく、刑事責任を追及することになる要因になっているのではないでしょうか。かつては超自然的な存在に原因を求めたが故に、その結果に対しては運命として受け入れるしかなかったものが、人間中心主義へと転換する過程で、事態をコントロールすべき人間に対して責任を追及する方向へと変わってきた、何とも皮肉な展開です。

さて、現代の環境において「腹」と「頭」の判断が異なったら我々は道すべきなのでしょう。著者は最後に次のように提言しています。

「頭」と「腹」は頻繁に意見が一致する。そうなったときは、自らの判断に自信が持てる。しかし、「頭」があることを言い、「腹」が別のことを言うこともあるだろう。そのときは、用心する理由がある。私たちが今日直面するリスクのほとんどは、対処に素早い、最終的な判断は必要ない。したがって、「頭」と「腹」の意見が一致しないとき、判断を遅らせるべきだ。もっと多くの情報を集めるといい。もう少し考えるといい。それでもまだ「頭」と「腹」の意見が一致しないなら、ごくりとつばを飲み込んで、「頭」にしたがって欲しい。

恐怖株式会社で述べられているように、意図的に「腹」に訴えかけることで、冷静に考えたら非合理な行動に駆り立てられてしまう恐れのある現状では、「頭」と「腹」で意見が不一致なら、「頭」にしたがって合理的な判断を下して欲しいという意見には一理あります。ただ、リスクが存在する以上、合理的な判断が裏目に出る事態も十分考えられます。また、全てを理性で判断できるほどこの世の理を我々が理解できているわけでもありません。そうしたときに、「頭」に従った判断ではより大きな後悔の感情を引き起こすことになってしまい、以後「頭」の判断に従うことに極端な不安、不信を抱くことにつながりうるわけで、予防原則などがその典型例でしょう。どうしたらよいのか、やっぱり悩ましい問題であることには変わりありません。

 

2010/01/17

新井 紀子『生き抜くための数学入門』

女子系数学書の誕生~「式で書けること」と「計算できること」は違う - hiroyukikojimaの日記」の書評を読んで興味を持ったので、新井紀子『生き抜くための数学入門』を読んでみました。「授業の前に そもそもそれってなーに?」を読んでいて、「なぜそのように考えるのか?」とか、「なぜそんなことを考えるのか?」とか脇に置いて進められる授業内容に納得できなかったので、結果的に実験系の道に進むことにしたんだよなあと。私は歴史書は結構好きですけど、どうしてかというと今の私たちには当たり前であることが当たり前でなかった時代、どのような問題意識を持っていまでは当たり前とされていることを築き上げてきたのか、そのことに関心があるからです。そのような背景を理解して始めて、私の中にわだかまっていた「なぜ」が解消されていくからです。まあ、全てにおいて「なぜ」を連発していると一歩も進まなくなってしまうので、実務上はどこかで折り合いをつけなければいけませんが(苦笑)。

著者は、「とは」とか「なぜ」を考える必要性を次のように訴えているのですけど、これって法的思考みたいだと思ったら、著者は法学から数学に転向した経歴の持ち主なんですね。

同じ気持ちで同じ方向に進もうとしている人が集まっているときには、「とは」とか「なぜ」なんて、必要ありません。そんなことをしなくても、わかりあえるし、対立はしませんから。でも、別の利害をもっていて、別々の方向に進もうとしている人が集まるのなら、そうはいきません。

そのときに最初にしなければならないのが、「とは」を整理することです。「この定義からはじめましょう」と決めるだけで、実に多くの争いを回避することができる―これは理想論ではありません。歴史的事実なのです。

「とは」は人類が獲得した最も大切な知恵なのです。

「とは」の定義で紛糾する場合もあるという現実はありますが、法律という形で明文化されているものであるにしろ、慣習という形で非明文化されているのものであるにしろ、なんらかの形で権利・義務に関する定義を明確にすることで、紛争を回避する、紛争処理を円滑に進める効果があるのは確かですね。毎回定義から争っていては、司法制度がまともに機能しないでしょうし。

そのような前提の元で、なぜ生き抜くための数学なのか、端的にまとめたのが「女子系数学書の誕生~「式で書けること」と「計算できること」は違う - hiroyukikojimaの日記」で指摘されている次の部分ではないでしょうか。

では、「数学的な構え」とは何か。これを、著者は、本一冊分で説明していくことになる。「生き抜くため」とは、まさにそういう意味なのだ。最も重要なメッセージ、著者の真摯な訴えとは、次の文だろう。

見えない抽象的なものを見る方法は、禅や詩などほかにも方法があるでしょう。けれども、見えないものを見て、それを誤解なくどの文化に属する人とも共有する、ということになると、それは論理であり数学なのだろうと思います。

見えないものについて「だから」「どうして」「どうなる」か、を考える力は、毎日の暮らしにさほど重要ではないように見えます。だから、そんな訓練を進んでしようという人は多くないでしょう。けれども、見えないもの、例えば、権利やリスクや未来について、「だから」「どうして」「どうなる」を考えることができなければ、この社会で幸せになれる確率は相当低いのです。それは、現代社会が、情報量と選択肢の多い、民主主義社会だからです。

こが、本の中で、ただ一カ所だけ、ひどく強靱で語気の強い表現の場所だけど、このメッセージに、法学部から数学へ転身した著者の強い思いが表出していると思う。「生き抜くため」とはそういうことなのだ。世界は、みんなが思っているより、ずっと抽象的で、ずっと狡猾で、ずっと暴力的、ということだ。それに対抗するのは、情緒ではなく、アートでもなく、それは論理だ、ということなのだ。

論理と感情は、どちらか一方だけに偏ってはうまく生き抜くことはできないとは思いますが、最近の政治・経済・社会情勢を見ると、著者の

日本人は、どうも「とは」と「なぜ」の力を、学校でも社会でもちゃんときたえていないらしい。

との指摘が妥当であると思わざるを得ません。

ニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』

今回の金融危機に当たって、お金の流れはよく循環器系における血液の流れに例えて、循環器系にあたる金融機関を救済する必要性を強調する主張をよく見ました。しかし、ニーアル・ファーガソン著『マネーの進化史 (原題: The Ascent of Money: A Financial History of the World)』でお金に関わる歴史を読むと、生態系における物質循環に例えた方が良さそうに思えます。そして「生態系」における金融機関の役割は何かと考えると、金融に関わる方は気分悪くされるかもしれませんが、「分解者」ではないでしょうか。

物質循環にあたって、生産者は消費者が利用可能な物質を生産するのに対して、分解者は生物遺体や老廃物を分解するだけですから、その重要性は一見分かりません。分解者は、使われなくなったものの、そのままの形態では再利用できない資源を分解し、生産活動に利用できるようにする役割を果たしています。つまり分解者がいないと物質が循環できずに生態系が崩壊してしまいます。微生物の場合、同じことをしているのに、有益ならば発酵として喜ばれ、無益、または有害ならば腐敗として嫌われる、そんなところも金融機関に似ているような(苦笑)。ハゲタカとか非難された再生ファンドとかありましたが、あの時点ではハゲタカが必要だったのではないでしょうか。

あと、今回の金融危機に際して、市場についていろいろ非難されていますが、実際のところは本書の最後にある次の文に集約されていると思います。

金融市場は人間を映す鏡であり、私たちが自分自身や自分たちを取り巻く資源の価値をどのように評価しているかをつねに示している。

人類の欠点が、美徳と同じようにあからさまに映ったしても、それは鏡のせいではない。

市場って結局取引されるものを評価する道具に過ぎないのではないのでしょうか。それも、現時点では最良の。ただ、結局道具にしか過ぎないないので、市場を使えば全てうまくいくといった道具に対する信仰みたいなものや、市場に全ての原因を帰するような非難はいかがなものかと。結局は、道具に関わる人間の問題です。強力な道具なだけに、使い方によっては有益にも有害にもなりますが、それは道具の責任ではありません。

 

2010/01/13

リチャード・ドーキンス『進化の存在証明』

最も強烈な進化論者といえるドーキンスによる『進化の存在証明 (原題: The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution)』ですが、現在の生物界の有様を説明する理論として進化論がなぜ最も妥当であるかということを、そして創造論がなぜ妥当でないかということを、一日本人の私の目から見るとくどいくらいの証拠によって解いています。米国の調査会社ギャラップによる進化論に関する調査結果が「付録-歴史否定論者」に載せられていますが、44%の回答者が創造論を支持し進化論を否定するような現状が、本書を執筆するに到った最大の動機になっています。それに対して日本は平和ですね(苦笑)。

ではなぜ進化論に対する支持が一般に広まらないかという一因として、「theory」という語の多義性の問題が「第1章 理論でしかない?」で考察されていましたが、ネイティブでない私には気付かなかった視点です。

理論でしかない?まずは「理論」が何を意味するのか考察してみようではないか?『オックスフォード英語大辞典』は、二つの意味(実際にはもっとたくさんあるが、ここで問題になるのはこの二つである)を与えている。

意味1 一団の事実や現象を説明あるいは報告するのに使われる考え方や主張の図式ないし体系。観察又は実験によって裏付けないし確立され、既知の事実を説明できるものとして提示ないしは受容された仮説。既知の、または観察されたことがらについての一般法則、原理、あるいは原因としてもちだされる発言。

意味2 説明として提案された仮説。転じて、単なる仮説、憶測、推測の意。何かについての考えあるいは考えのひとまとまり。個人的な見解ないし意見。

明らかにこの二つの意味は、互いにまったく異なっている。右で持ち出した、進化という理論に関する私の問いへの答えを簡単に言えば、科学者は1の意味で使っているが、創造論者たちは-ひょっとしたら悪意で、ひょっとしたら本気で-2の意味で使っているということである。

そういえば「conspiracy theory」という言葉があるように、「theory」という言葉の語感は日本人が考えている以上に米国人とっては意味2のニュアンスも強いのでしょうね。日本語だと意味1は定説という感じですし、意味2は憶測という感じでしょうか。翻訳にあたって、原著の副題「The Evidence for Evolution」を訳書の題名したと「訳者あとがき」で述べられています。このフレーズが「進化の存在証明」と訳されているあたり、日本語では「理論」という言葉はほぼ定説をさすものと考えて良さそうです。その語感の違いが、日本では進化論に対して懐疑的な人が稀である一因になっているのかもしれません。著者は数学の「theorem(定理)」に習って「theorum(掟理)」という造語までして、意味2を振り払おうとしています。

実際意味1の意味での理論では、理論を支持する証拠を示すとともに、その理論の対立仮説を支持するに足らないことも示す必要があります。自然科学でも、生物学あたりになると環境を統制できない、起きたであろう事を再現できないことなどにより、対立仮説を消すのは困難なことが、進化論vs創造論の論争が未だに続く事になっているのですが。消しきれずに残っている可能性を信じている人を説得するのは容易ではありません。

本書第2章以降、進化論を支持する証拠が並べられているわけですが、まず筆頭にイヌ・ウシ・キャベツなどの身近で観察できる事例を使うのが、「変異」と「選択」という手段だけでどれだけのことがなし得るのか、最も納得してもらえやすいでしょうね。私も多様な犬種を見ると、「変異」と「選択」という手段がどれだけのことをなし得るのか、驚くほかないです。

そして、進化のもう一つの有力な証拠が「第8章 あなたはそれを九ヶ月でやりとげたのです」で示されています。発生等の変異に対して極めて敏感であると考えられるメカニズムに関しては、進化の過程で、その基本的なメカニズムが驚くほど保たれていることです。進化のメカニズムに関して、起こりえないと非難される点に関しては、確かに滅多に起こりえないからこそ、変異などの原因で一旦獲得したメカニズムは、いわば徹底的に使い回されているわけで。

そして、創造論に対する反論といえるものが、第11章と第12章で示されています。

神が万能なら我々人間を含めた生物がなぜ解剖学的な不具合に悩まされるのかという点をついたのが「第11章 私たちのいたるところに記された歴史」です。

しかし、大きな動物の内部のどの部分を調べるにせよ、そこから得られる圧倒的な印象は、混乱である!そこに設計者がいたなら、動脈、静脈、帳、脂肪と筋肉の塊、腸間膜その他が迷路のように縦横に交差する修羅場のようなものを決して存続させることはなかっただろう。アメリカの生物学者コリン・ピッテンドリの言葉を引用すれば、すべては「いわば、たまたま機会が訪れたときに使うことができたものから、自然淘汰の先見によってではなく後時絵で受け入れた、その場しのぎで切れ端を寄せ集めてつくったパッチワーク」以外の何者でもないのである。

迷走神経のうち、反回神経がなぜ心臓近くまで降りてきてから咽頭まで戻っていくのか、なぜ同じ迷走神経である前咽頭神経のように直接咽頭に向かわないのか、もし設計されたものであるとしたら、設計者の面汚しという指摘はは最もなことです。これは祖先では合理的であった構造が、進化の過程で不合理な構造になってしまった一例とされています。そして、一旦不合理な構造になってしまったものを直接咽頭に向かうような変異は、発生の過程で深刻な副作用を起こす可能性が高くて、結局そのままの構造を保つ形態が進化の過程で残ったものであろうと推測されています。その他にも網膜の構造の問題とか、設計されたものだとしたら、なんでそのような不合理な例が取り上げられています。

でも、解剖学的な問題に関してはまだ言い逃れることができるかもしれません。むしろ神学的に一番悩まし反論が、神が慈悲深いなら、なぜ生物界で人間から見て無情に見える生存競争が繰り広げられているのかという、「第12章 軍拡競争と「進化的神義論」」という問いかもしれません。

苦痛と悪という問題に悩ます神学者たちは、想定されている神の慈悲深さと折り合いをつけようとする試みに対して、「神義論(theodicy)」(文字通りには「神の正義」)という名前を発明さえするところまで行っている。一方、進化生物学者たちはここに何の問題も感じない。なぜなら、悪と苦痛は、遺伝子の生き残りに関する計算においては、どんな形にせよ、まったく考慮に値しないからである。にもかかわらず、私たちは痛みの問題を実際に考慮する必要があるのだ。進化論的な観点からすれば、痛みはどこから来るのだろう?

痛みは、生命にまつわる他のあらゆることについてと同じく、ダーウィン主義的な工夫の一つであり、苦しんでいる当事者の生き残りの可能性を改善するという役割を果たしている。脳には、「もし痛みの感覚を体験すれば、今していることが何であれ、それをただちに止め、二度とするな」といった経験則が生得的に組み込まれている。

痛みを意識する人間からすれば、もう少しマイルドな方法で警告するように進化して欲しかったところですが(苦笑)。宗教の教義と自然の現実が矛盾することは、解剖学的な問題よりは神学的により悩ましい反論でしょう。それにしても、宗教における戒を極めて厳密に守ることとすると、得てして生物として生きていくことが極めて困難になってしまうことに関して、どのように考えたら良いのか、私には前から難問だったんですよね。

 

2010/01/12

伊藤 元重『経済危機は世界に何をもたらしたか』

伊藤元重著『経済危機は世界に何をもたらしたか』を読んで一番興味を持ったのは、欧州通貨統合に絡んで最適通貨圏の理論を、日本国内に例えて説明したくだり。例えではなく、まさに地方分権の問題としてストレートに読むと興味深い話になります。

欧州通貨統合の話を、日本国内の問題に例えて、東京と千葉、東京と北海道の場合について共通通貨を使う是非について説明しています。

まず東京と千葉の例えですが、まさにユーロ導入目的と同じことが指摘されます。

東京や千葉のような近い地域で異なった通貨が使われていると、不便で仕方がない。だから東京と千葉は同じ通貨圏の中に入るべきだ。

次は東京と北海道の例えですが、これが当時英国がECU離脱に追い込まれた理由でしたね。

産業競争力や景気という観点から見れば、北海道にとって本州と違う通貨を持つ方が好ましい面もある。ひょっとしたら北海道と本州は違う通貨を使う方が好ましいと言うことが言えるかもしれない。そうなら、両者は同じ最適通貨圏の中にはないことになる。

この例えを地方分権の議論に当てはめてみるとどうなるでしょう。いわば共通通貨として円を使うのなら、道州制を導入により地域間競争によって活性化といっても、今度はユーロ圏の各国が直面している問題に各道州が悩まされることになるのかな。

で、産業構造が違う地方が最適通貨圏であるための条件が、次のように説明されています。

最適通貨圏の議論によれば、地域的な距離だけでなく、地域間で財政移転の調整がどこまでできるのか、人々の移動がどこまで可能であるかなどによって、最適通貨圏の範囲が決まってくるという。北海道と本州の間には財政調整や労働移動の調整が可能であるので、明らかに最適通貨圏に入っているのだ。

円という共通通貨を使う以上、通貨変動が地域の産業競争力に与える影響が異なる場合、財政移転でばらまくか、過疎化を容認するか、どちらかを選択するしかないのかな。

歴史を紐解けば日本には地方貨幣とか藩札という先例もあります。思い切ってその伝統を復活させるというのはどうでしょう?でも、そうすると銀行に先祖返りしてもらって両替商になってもらわないといけなそうですね(苦笑)。あらゆる問題を解決できる銀の弾丸はやはりなさそうです。

あと、グローバル経済の課題として、人口過密、貧困、地球環境問題が取り上げられています。環境問題に関しては、グローバルな経済成長による資源価格の高止まりが、温室効果ガス削減等に対する強力なインセンティブになると思うのですが。排出権取引を前提とした削減目標の設定とか、私には筋が悪いように見えるのですが。

2010/01/09

松井 彰彦『市場(スーク)の中の女の子』

kurakenya氏のブログで紹介されていた松井彰彦著『市場(スーク)の中の女の子 』がなかなか面白そうだったので、興味を思って読んでみました。松井氏の著作としては『ミクロ経済学 戦略的アプローチ 』とか『慣習と規範の経済学―ゲーム理論からのメッセージ 』がありますが、このような面白い本を出していたとは知りませんでした。

経済現象を取引という側面から理解していくのが新古典派経済学などの市場の経済学だとすれば、経済現象の中に潜むルールに焦点を当てて理解していくのが新制度派経済学などの文化の経済学であると言えるでしょう。もちろん両者は対立する理論ではなくて、松井氏が

市場と文化は対立するものでも、分離できるものでもなく、お互いに響きあっているものだ。
と述べているとおり、それぞれの見方で見えたことを相補いつつ、経済現象の全体像を理解していくものでしょう。このあたり、
  • 社会学における機能主義と構造主義
  • 会計学おけるフロー会計とストック会計
  • UMLにおける振る舞い図と構造図
などと同じような議論がなされているように思えます。どちらか一方の見方による理解だけで、現象を説明しきることは、現実には実現不可能でしょう。背反関係にあるわけでも、主従関係にあるわけでもなく、あくまでも相補的な関係であると思います。

「第5章 塔」での「忘却」と「記憶」の対決の部分を、「忘却」を新古典派経済学の象徴として、「記憶」を新制度派経済学の象徴として読み直してみると、思わずにやりとしてしまいました。「忘却」するとした方が理論的に扱いやすいから、新古典派経済学の方が先に発展したんでしょうね。

2010/01/05

シドニー・デッカー『ヒューマンエラーは裁けるか』

日本には閉塞感がただよっている、閉塞感を打開するためには新たなことに挑戦することを促進する社会環境が必要だ、挑戦への意欲を萎縮させる最大の要因は失敗を認めない無謬主義が原因だ、最近このような言説をよく見るようになってきました。また、この世の中の現象は全て解明されているわけではなく、限られた人間の能力では当然限界があります。典型例は医療行為ですが、そこで起きたことに対して、どこまで医療関係者に責任を負わせることができるのでしょうか。このような現実を前にすると、無謬主義から可謬主義への転換しなければいけないというスローガンはいいのですが、結果として発生した失敗に対して、どこまで責任を問うことができるのでしょうか。

もちろん、リスクが高い業務に携わる人に対して、適度な慎重さを求めるために、責任をはっきりさせる仕掛けは必要でしょう。また不利益を被った人がいるわけですから、何らかの補償が必要でしょう。ただ過度の責任追及が行われるようでは、敢えて不確実性の高い仕事に携わる人を萎縮させるだけで、結局何もしないのが一番ということになってしまいます。また、問題を隠蔽する動機づけが強く出て、問題そのものが解決されることなく放置されるという弊害もあります。そのバランスをうまくとって、関係者各人が公正であると感じられる制度を構築することは極めて難しい問題です。シドニー・デッカー著『ヒューマンエラーは裁けるか―安全で公正な文化を築くには』は、医療、航空事故を主な例にして、安全で公正な制度を提言しています。

目次

  • 推薦の言葉――安全文化構築への画期的提言(柳田邦男)
  • まえがき
  • プロローグ 看護師のエラーが犯罪となるとき
  • 第1章 なぜ公正な文化が必要なのか?
  • 第2章 失敗をとがめるべきか許すべきか?
  • 第3章 報告の重要性と報告のリスク
  • 第4章 情報開示の重要性と情報開示のリスク
  • 第5章 すべての失敗は同等か?
  • 第6章 後知恵による責任追及
  • 第7章 悪いことをしていないならおそれる必要はない?
  • 第8章 検察官がいなければ犯罪は存在しない
  • 第9章 裁判は安全を害するか?
  • 第10章 公正さを追求する裁判の関係者たち
  • 第11章 公正な文化に対する三つの問い
  • 第12章 「個人かシステムか」から「システムの中の個人」へ
  • 第13章 公正な文化を構築するためのアプローチ
  • エピローグ
  • 監訳者による解説とあとがき(芳賀 繁)

では、なぜ安全で公正な文化を築く必要があるのでしょうか。司法システムのどこに問題があるのでしょうか。そのプロローグでは看護師の犯した医療事故を取り上げて、司法システムが安全で公正な文化を築くのを阻害する例を取り上げています。

司法システムは、人々に説明責任を課すが、人々が自分の説明をもつことは許さない。マーラは、司法の手続きや手順の人質となり、話す内容や時間を制限されていることを批判した。裁判におけるすべての段階で、彼女はこの制限と戦い、打ち破ろうとしていた。彼女は、自分の説明を聞いて欲しいと懇願した。彼女は「真実」を明らかにしたいだけだった。しかし、その都度、断念せざるを得なかった。彼女の説明は今なお彼女の内側に秘められたまま、彼女指針を傷つけ、苦しめている。

司法システムは、それ自身が選択した証拠を用いて説明を形作る。そして、その説明によって独自の物語が作られる。不幸な結果を説明するためのストーリーを提供する司法システムを、社会が近年ますます頼りにしようとしていることは興味深い。人々にとって魅力的な説明には何かがあるに違いない。その魅力的な何かは、事件の際に実際にその場にいた人(例えばマーラ)が話すことよりも、ずっと面白いのだろう。

責任を問うという場合、法的責任として刑事責任と民事責任があります。また法的責任ではないものの、結果として不利益を与えた事による道義的責任という考え方があります。そして、当事者に責任を問うことができないと判断される行為があります。さて、問題はこれらの間に単純明確な境界を引くことが出来ないということです。この問題は刑事責任を問う場合つねに争点となるところです。司法関係者は当該領域の専門家ではありませんから、助言を受けたとしても適切な判決を下すことができるか、注目を集めた裁判の後で判決の是非について論争になることがありますね。

また法的責任が問われる場合は、責任があるというストーリーが証拠とともに説明され、それに対して責任がないというストーリーが証拠とともに、あるいは証拠を出さない形で説明される。もし今後の安全性向上のために真実を話そうとしても、認められないか、信じられない。結果として、被害者、加害者とも納得できない形での決着となってしまう。結局有責性の有無に争点が集中することが、問題の解決には阻害要因になってしまいます。

これに対して、問題解決と説明責任を重視する公正な文化からは、どのようなメリットがえられるのでしょうか。

組織の中で働いている人たちにとって、特に不当に責任を追求されていると感じるのは、(1)後知恵バイアスと予見可能性が絡んだ場合、(2)裁量と責任のバランスに問題がある場合です。

司法の場では、すでに起きたことに対して証拠を元にストーリーが組み立てられますから、問題に対して予見可能であったとされる傾向が見られます。でも、それは後から事態を詳細に調査できるからであって、その場で限られた時間で限られた情報で適切な判断をつねに下せるかというと、実際には困難な場合もあります。このような予見可能性を過大評価する傾向が後知恵バイアスですが、このような後知恵で過大な責任を問われることほど、被告となってしまった人にとって公正さを欠くと感じることはないでしょう。結果として、仕事の質を向上させるよりも、責任回避をすることに労力が割かれることになり、誰にとっても幸せにならない事態へと到ります。米国の医療費高騰の元凶として上げられている防衛的医療とか、適切な経営をしているという証拠を作るための内部統制とか。

また、限られた裁量しか認められていないにもかかわらず、問題が発生したときの説明責任が特定の個人に求められる場合も、公正ではないと感じられるケースでしょう。このような場合は、組織を運営するシステムに問題があって、個人に責任を求めるよりも、システムを改善すべきとしています。ただ、システムの責任とするのは、個人の責任逃れのように見えるという問題が提起されてしまいますが。

公正な文化とは、責任追及よりも問題解決を優先させますが、全てが無条件に免責される訳ではありません。それでは被害者にとって不公正感を抱く原因になるでしょう。説明責任をしっかり果たし、適切な補償を行えば、被害者も訴訟へと向かうことはどちらかと言えば稀であることは本書でも触れられています。説明責任も果たさず責任回避をしているとしか捉えられないとき、真実を明らかにする最後の希望として司法の場へと向かうことになります。

ただ、公平な文化が難しいのは、説明責任は果たされなければいけないが、全てのことが免責されるわけではないということです。どこかで法的責任を負う負わないの判断が求められます。その判断を、誰がどのように行うのか、そこは公平性を実現するにあたって最大の難問です。当該領域の専門家が一番起きた問題を良く理解できるでしょうが、問題はその判断への信頼を確保できるかです。有責性の判断が適正であると、司法、被害者から信頼されなければ、結局のところ司法による解決に向かうことになって、公平な文化が実現されることはないでしょう。

本書の邦題は「ヒューマンエラーは裁けるか」というものですが、そのことが意味するのは過誤は裁かれるものであると言うことです。そこで疑問。なぜ過誤に対して民事責任だけでなく刑事責任を問うのか、また刑事責任の追及によって安全性の向上が図れると考えるのか、いったいなぜなんでしょうか。一見当たり前に思えることが気になって、『リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理』を再読。