2010/05/25

三谷 宏治『ハカる考動学』

三谷 宏治著『ハカる考動学』は、「ヒトをハカる」、「作ってハカる」、「ハカり方を創る」ことに携わって来た私にとっては、やはり気になる本。

では何でハカることが重要なのでしょうか。本書では、

世の中の森羅万象すべては、ハカることと一体だ。

物理学的に言えば、「ハカれないものはないのと厳密に同じ」。ハカれるからこそ存在となり、意味が与えられる。

(本書p.1)

と格調高く述べられています。私が思うに、最近の内部統制にまつわる騒動に顕著に現れているように、
経営するためには事業活動が統制されていなければならず、事業活動を統制するためには管理項目が測られていなければならない
という考え方が背景にあるのではないでしょうか。

ハカれることがいかに凄いか、本書では豊富な事例を用いて説明していますが、惜しむらくはハカることの落とし穴が触れられていない点。測ることも万能ではありません。

例えば確証バイアス(Confirmation bias)によってより認識がゆがんでしまう危険性。はかろうとするからには、対象に関して何らかの仮説を持っているとは思いますが、自説に有利な証拠ばかりを集めることで、実態から外れた認識がどんどん強化されるということ、論争などではよく見かけます。

ハカること自体思いの外コストがかかるものであること。特にヒトをハカる場合には、はかられる側の負担も考慮しないといけません。このあたりは内部統制で苦労されている方には実感されていることかと。本書でも触れられているフェルミ推定(p.202)も、コスト、時間と精度のトレードオフの中で適切な判断を行うのに有力な考え方ですし。

そして、「ハカれないものはないのと厳密に同じ」の負の側面。コストを考えてもすべてをハカることができない以上、ハカられないものが出てくるのは当然ですが、そうするとハカられないけど必要なものにしわ寄せすることで、ハカられるものをよくしようというインセンティブが働きます。ハカること自体がハカられる側の行動に、ポジティブにもネガティブにも働く、なかなか頭の痛いことです。

そして、特に「ハカり方を創る」ときに問題になるのが、本当に意図したことが測られたのだろうかと言うこと。実際のデータを見ていると濃霧の中を進んでいくような気分になることも。本書でも「意見」より「行動」の方が実態をより正確に把握することができますが、それから何からの因果関係を見いだそうとすると、たまたま因果関係があるように見えるだけなのか、なかなか悩ましい状況に直面します。結局現実の問題でハカるというのは、霧の中でヘッドライトで前方を照らすようなものなのかな。

実は本書で一番面白かったのは「ハッブル宇宙望遠鏡が秘める革新の可能性」(本書p.158)です。残念ながら2005年になくなったバーコール博士が、ハッブル望遠鏡の修理問題に関して議会の公聴会で証言した内容です。

「でも、HSTの発見がそれらに留まったなら、私は失望するでしょう」

「HSTの本当の目的は、想像もしていなかったことを見つけ、未だ問われていないことに答える (discover unimagined objects and answer unasked questions) ことなのです」「それこそが、最高の発見と言うべきでしょう」

ハッブル望遠鏡製作の失敗に関して追求される場で、このような証言ができるのは改めて凄いなあと感心しきりです。この証言の全文はIASのサイトから読むことができます。

Science With the Hubble Space Telescope. Hearing on Hubble Space Telescope Flaw before the Committee on Science, Space, and Technology, U.S. House of Representatives, One Hundred First Congress, Second Session, Friday, July 13, 1990, The Hon. Robert A. Roe (chairman of the committee) was presiding. (U.S. Government Printing Office, Washington, 1990) (pdf)

文頭でハカるのは統制するためということをを書きましたが、それだけに留まっていたら発展はありませんよね。

2010/05/15

内田 麻梨香『科学との正しいつきあい方』

中田麻梨香内田麻理香著『科学との正しい付き合い方』の副題は「疑うことから始めよう」なのですが、これを見て「さて、科学との正しい付き合い方はあるのだろうか?」という疑問が早速頭に浮かんでしまったのは、まあ行き過ぎでしょう(苦笑)。

本書では、副題にあるように。「疑う心」について再三強調されています。その言葉だけを見ると科学的思考法って普通の人にはできないと思われるかもしれません。でも「疑う心」とは、結局のところ事実を確認すること、つまり「裏を取る」ことです。「裏を取る」ことは科学にかぎらず何らかの判断を行うときに行われることですよね。もちろん、科学には科学なりの約束事がありますが、それはどの分野でも変わらないはずです。その約束事自体は科学哲学でも議論の続くことではありますが。

まあ、科学は疑ってばかりかというと、信じることも要求されるわけで。例えば実験法とかは、その手順を「信じて」手際よく行えることが要求されます。手順について毎回疑っていれば実験にならないわけで。結果の解釈にしても、前提となる知識について取りあえず「信じて」おかないと、結論は出せませんし。結局は「疑うこと」と「信じること」のバランス、というか、その場の状況に応じて使い分ける柔軟性が鍵となるのでしょう。

では、なぜ科学との付き合い方を学ばなければ行けないのでしょうか?これは、「誤解3 「科学は、身近ではない」ってホント?」(p.56)でも指摘されているとおり、科学は身近にあふれています。そして、病気になったときに医者にかかるなど、専門家を使って生活しています。その中で、複数の選択肢の中から選択する必要に迫られます。具体的な科学知識についてすべてを詳細に知ることは無理ですし、その必要もありません。でも、選択を迫られたときに適切な判断が下せるようなスキルは身につけておいた方が、なにかと有利なことが多いでしょう。マネジメントでも、専門家と同等の知識は求められませんが、専門家を使いこなして目標を達成するだけの知識は必要とされるのと同じです。

だいたい専門家といえども、自身の専門分野以外の多くでは限定された知識しか持っていませんし、それを要求されたら閉口するでしょう。非専門家に対して判断するための材料を提供するというのは、それ自体専門的なスキルが要求されますので、サイエンスコミュニケーターへの期待としては、「科学のすごさを伝える」というロマンあふれることもありますが、私としては「適切な判断を下すためのスキルを伝える」という点に期待するところ大です。科学のすごさばかりを強調しても、薬害のように負の側面が顕在化したときに、一気に不信に転じかねません。また、「薬害は根絶できるもの」というある意味科学に対する過信によって、専門家自身が自縄自縛の立場に陥るだけなんではと、私なんかは思ってしまいます。でも、本書に出てくるような科学マニアには受けないだろうなあ。

サイエンスコミュニケーション活動の課題として、「結局、マニアにしか伝わっていない」(p.234)という課題を指摘されています。残念ながら、本書もそもそも科学に関心のある人しか手に取らないのではないかというところが悩ましいところ。まあ、「理系は「疑う心」が弱い?」(p.250)で指摘されているように、「答えが出せないことはペンディングする」(p.112)こととか、「「わからない」と潔く認める」(p.124)ことができないことがより大きな問題を引き起こしたりしますから、それはそれで有意義とは言えるでしょうけど。

「分かっていないことが分かっている」のは科学の中でも理解が進んでいる方。「分かっていないことが分かっていない」ことがまだまだいっぱいあるのが科学。そして、分かっていなかったことを気付くきっかけになるのが、「失敗から学ぶ」(p.131)ことなのでは?失敗を単に無くすべきものとしてだけでなく、さらなる知識の拡大に結びつけるやり方、それが科学的思考法であると言えると思います。

<>(訂正)著者の名前を間違えるとは(汗)。大変失礼しました。<>

2010/05/09

菊池 誠『科学と神秘のあいだ』

科学と神秘のあいだ』は、ニセ科学問題を扱ったkikulogの運営者でもある菊池誠氏による科学哲学入門書。

科学とは何か、ニセ科学とはなにかについての考え方が近いようで、結構面白く読めました。著者にとって科学とは何かが良く分かる一冊に仕上がっています。ただ、菊池氏の著作と言うことでニセ科学分析本を期待するとちょっと肩透かし食らうかも。どのような本かは、ブログに序文がアップされているので、それを見てもらった方が良いかも。

科学とは何かについて一番良く分かるのが次の一文。

なにか奇妙な現象があったとしても、とりあえずは、ごくごく普通の科学知識とか常識とかで説明できるはずだと考えておくのが科学的な態度だ。事実、たいていの場合は、本当にそれでうまくいく。どうしてもそれでうまくいかなかったら、多分そこには大発見が待ちかまえている。言い換えると、大発見なんて、装滅多にあるものじゃない。

(本書p.190)

著者は、「データの信頼性とデータの解釈とはまた別の話だ」とも書いているとおり、信頼あるデータが得られたとして、考えられ得る解釈というのは複数存在し得ます。そして、既存の知識で説明しうるなら、新規の解釈は採択されませんし、何らかの新しい解釈が必要とされたとしても、既存の知識体系の中でうまく収まる解釈が採択されます。既存の知識体系とは無関係な説を唱えたとしても、その説を支持する強力な証拠が提示された上で、関連する知識体系をうまく再解釈することができなければ、科学的には支持されることはありません。確かに頭が固いように思えるかもしれないですし、生前は支持されずに不遇の生涯をおくるという悲劇も見られますが、科学的方法論にとって避けがたい副作用と言うしかありません。

だからといって、科学って無味乾燥だと思われるのも心外です。現在の科学知識では解明できていない、不思議な現象があるというのは、そのような科学的方法論から導き出されてくる当然の結論です。分かっていないことは分かっていないとはっきり言える、それも科学者ではないでしょうか。

神秘は人の心の中にある。だから、科学で客観的なものの見方と神秘とは決して両立しないものじゃない。大事なのは神秘の領分と科学の領分に折り合いをつけること。

(本書p.205)

そのような不思議な現象にわくわくするというのも科学者なんでしょうねえ。