2010/06/20

リチャード・ワイズマン『その科学が成功を決める』

タイトルからは一見よくある自己啓発本に見えて、その実数々の論文にあたって自己啓発に関する常識を検証していったのが、リチャード・ワイズマン著『その科学が成功を決める(原題:59 Seconds: Think a Little, Change a Lot)』です。どれだけユニークであるかは、目次を見れば分かります。

目次

実験I 「自己啓発」はあなたを不幸にする!
「自己啓発」を実践している人は、何もしない人より幸福度が低いという衝撃のデータ
実験II 「面接マニュアル」は役立たずだった!
「ヘマをしたほうが好感度がアップする」という米デューク大学の大規模調査
実験III イメージトレーニングは逆効果
ペンシルヴェニア大学研究室発「プラス思考が人生を暗くする!」
実験IV 間違いだらけの想像力向上ノウハウ
オランダでの研究成果「暗示をかけるだけで人は創造的になれる」
実験V 婚活サイトに騙されるな
ノースウェスタン大学発「大勢にモテようとする女は敬遠される」
実験VI ストレス解消法のウソ
アイオワ州立大の研究では「カラオケは逆効果」
実験VII 離婚の危機に瀕しているあなたに
「夫婦間の話し合いは効果なし」ワシントン大学調査が下した冷徹な事実
実験VIII 決断力の罠
「集団で行う意思決定はリスクが高い」というMITの実験結果
実験IX 「褒める教育」の落とし穴
コロンビア大学発「ホメられて育った子どもは失敗を極度に恐れるようになる」
実験X 心理テストの虚と実
アテにならないこれだけの科学的根拠

いきなり「「自己啓発」はあなたを不幸にする!」ですからね。もちろん、単に研究成果に照らし合わせて検証しただけでなく、ではどうすべきかというアドバイスもしっかり載っています。

本書で紹介されている数々の研究成果の中で、Twitterなどのソーシャルメディアを使う上で留意しなければと思ったのが「噂話は自分に跳ね返ってくる」(本書 p.56)です。

人はたいてい、友達や同僚に関するおいしい情報を言いふらすのが好きだ。だが、この行動は言いふらした本人にとってプラスになるだろうか。オハイオ州立大学ニューアーク校の心理学者ジョン・スコウロンスキは、仲間との共同研究で悪い噂を広めるマイナス面について調べた。彼はまず参加者たちに、役者が第三者(友人や知人)についてしゃべっているビデオテープを見せた。友人にかんする話の一部には、かなり不愉快な内容もあった―「あいつは動物が嫌いでね。今日も、買い物にいく途中で子犬を見たら、蹴飛ばしてたよ」などと。参加者はテープを見たあとで話しての印象を訊かれた。すると、話し手が批判したのは自分たちの知らない人物だったにもかかわらず、参加者は一致して話し手を嫌な人間と感じた。これは、「自発的特徴変換」と呼ばれる効果で、噂話をすることのマイナスとプラスが暗示されている。あなたが第三者の噂をした場合、聞き手は無意識のうちにあなた自身をその第三者と結びつけ、話題になった特徴をあなたに「重ね合わせる」のだ。つまり、友人や仲間の長所を楽しげに話すと、あなたもいい人間に見られる。だが、いつも第三者の短所をけなしていると、聞き手は無いしのうちにその短所や能力の無さをあなた自身のものとして感じ始める。

(本書 p.56-57)

この研究結果、納得(苦笑)。もちろん論議を繰り広げる中で批判することも重要ですけどね。でも罵倒ばかりしていると、罵倒している相手と同類とみなされるということですか。このような罠を避けつつきちんと批判をしようとするは、やはり難しいですね。少なくとも感情的なレスは避けるようにしていますけどね。これまで以上に気を付けることにします。

でも、『その科学が成功を決める』というタイトル見たとき、一瞬『その数学が戦略を決める』と被ったと思ってしまったんですが、担当編集者同じなんでしょうか。タイトルのつけ方に共通するものを感じますし。

デイヴィッド・オレル『明日をどこまで計算できるか?―「予測する科学」の歴史と可能性』

天気予報はなぜ当たらないのか。『明日をどこまで計算できるか?―「予測する科学」の歴史と可能性』の研究者としてのスタートは、その問題を追求することから始まっています。研究を始めた時点ではすでにカオス系はよく知られていて、数値天気予報の問題についても、

「数値天気予報の初期には、簡易なモデル化による予報誤差が、全体の誤差成長の中心だった。しかし今では、モデルの性能ははるかに向上し、予報誤差の中心は、(初期誤差が小さい場合でも)大気中の(カオス的な)不安定性によって発生する誤差だ」。

(本書 p.177)

見られていました。そのような見解が主流を占める中で、あえてモデル誤差の問題を研究テーマとしたのが著者です。そして、予報モデルの誤差の成長には、初期条件の誤差(=カオス系の問題)よりも、パラメーターの違い(モデルの問題)に原因があるという、主流の見解に反する結果を明らかにしました。そして数理モデルによる予測問題の研究者として、現在ではシステム生物学の研究にも銃しています。

数理モデルの予測可能性の問題とはなにかなのか、巻末の用語集に著者の考え方がうまく要約されていますので、項目をピックアップしながら著者の考えを追ってみます。特に思い入れがある項目については、ピアスの『悪魔の辞典』風味になっています(苦笑)

現在も数理モデルの研究に従事しているように、著者は数理モデルの有用性は積極的に認めています。

数理モデル
一般に動的システムをなす方程式群を用いた、物理学的システム、生物学的システム、経済学的システムなどのシステムのシミュレーション。数理モデルは自然のさまざまなシステムの科学研究に有用だ。ただし、動的システムを現実のシステムと混同しないよう留意する必要がある。現実のシステムは概して遥かに複雑で、方程式では表せない。したがって、モデルは価値ある洞察をもたらすが、注意して用いることが必要で、予測を行う場合にとりわけそう言える。

(本書 p.397)

モデルが示す結果を盲目的に信じるのではなく、現実との差異も考慮して慎重に解釈しろと言う事ですね。次の「計算不可能性」で書かれているように、正確なモデル化など不可能なのだから。

計算不可能
本書では、方程式を用いて正確にモデル化することができない、物理学的システムや生物学的システムなどの実世界システムを形容して使われている用語。計算不可能なシステムのいくつかの特徴は、複雑な数学的システムの創発的な性質に対応しているのかもしれない。一例は雲の形成と消散で、これを正確に記述できる方程式は存在しない。

(本書 p.395)

正確にモデル化できないのですから、同然誤差はつきものです。この数理モデルの誤差の要因を、「初期条件に対する鋭敏性」と「パラメーター化に対する鋭敏性」の2種類に分けています。まず、「初期条件に対する鋭敏性」は次のような現象を指します。

初期条件に対する鋭敏性
変数の初期値(すなわち初期条件)をわずかに変えただけで全く違う予報が出てくる場合、その数理モデルには初期条件に対する鋭敏性があるという。

(本書 p.397)

カオスとかバタフライ効果とかでよく知られている現象です。でも、著者は誤差の原因をすぐ初期値鋭敏性に帰する傾向に対してとても批判的です。バタフライ効果については、次のようにまで書いていますから。

バタフライ効果
一話の蝶が羽ばたくことで生じたわずかな大気の擾乱によって、地球の反対側が嵐に襲われるとする理論である。ローレンツ系などのようなカオス系の、初期値に対する鋭敏性がきっかけで生まれた。バタフライ効果は魅力ある考え方ではあるが、小さな擾乱の局所的減衰を説明することが出来ず、サイエンス・ライターのマット・リドレーが述べたように、それはおそらく大気現象というより、「そうした系における線形の因果関係を保ちたい」という人間の願望を反映している。バタフライ効果は、気象モデル(天候そのものとは別)の、初期値に対する鋭敏性を指すこともある。この場合バタフライ効果は現実に存在するが、やや弱い。

(本書 p.401)

なかなか辛辣です。

では、もうひとつの誤差要因、「パラメーター化に対する鋭敏性」とは何でしょうか。

パラメーター化に対する鋭敏性
パラメーター化手法にわずかな変更を持ち込んだだけで(特定のパラメーターの値を変えるなど)全く違う予報が出てくる場合、その数理モデルにはパラメーター化に対する鋭敏性があるという。一般に、気候変動の予測は、初期条件の僅かな違いには敏感ではないが、パラメーター化には敏感だ。

(本書 p.402)

特に非線形モデルでは、大抵この問題が顕著に現れます。適切なパラメータを設定する手法を見出すというのが統計学や機械学習に関わる研究の有力な原動力の一つです。そして、モデルを拘置する場合には次の「有効性の検証」が重要な作業になります。

有効性の検証
ある議論に明らかな論理的欠陥がない場合、その議論の有効性は検証されたとみなされる。ここからの類推として、数理モデルの有効性が検証されたと言えるのは、モデルに明らかな間違いがない場合だ。機構学などの分野では、聞く側を混乱させる使い方がなされている。例えば、モデルから得られた結果に一連の観測データとの矛盾がないという理由で、あるモデルの「有効性が検証された」という人がいる。すると、この「有効」という言葉は次に、そのモデルが現実のシステムを正確に表しているという含みをもたせるために使われる。しかし、モデルの方程式は観測データに合うようにいつでもチューニングできるし、どのような検証がなされたとしても、モデルが将来にわたってうまく機能する保証も、もっと言えばモデルが現実のシステムの機能と少しでも似ているという保証もない。とは言え、全くもって不完全なモデルでも、洞察を得たり、検証可能な仮説を立てたりするのに役立つ。

(本書 p.405)

過剰適合させてしまえば、過去をうまく説明出来るモデルが出来上がりますが、未来の予測にはたいてい失敗します。何が良いモデルか、その判断基準を示すのがAICに始まる情報量基準の研究の歴史ですね。

以上のように行われるのが数理モデル研究の原則であるというのが筆者の考えですが、実際の研究の話においてその原則からの逸脱が見られるというのが本書を書いた動機になっています。この問題に対して、著者の分析は結構辛辣です。

より深い問題は、モデル誤差を研究すること、つまりドリフトを計算したり、シャドー軌道を探したりすることが、科学の日の当たらない部分を探るようなものだということだ。モデル誤差は、人間に何ができるかを伝え、野蛮な自然よりも人間の知性の方が優れていると吹聴する代わりに、何が出来ないかを明らかにする。知識ではなく無知を、明確さではなく謎を、光ではなく暗闇を示すのだ。予報誤差の原因としてカオスを受け入れることで、気象学者は、モデルが基本的に完璧であるという幻想を保つことができた。同じような誘惑は、科学のほかの分野にも存在する。

(本書 p.187)

カオスが予測誤差の主な要因なら、その裏返しとして、モデルの改良での改善効果は限られており、観測精度をあげるなりするしかないという結論になります。そして、基本的には現行モデルは守られる結果につながります。

詳しくは、著者のサイト(David Orrell | Writer and Mathematician)に原論文がアップされています。

数理モデルによる予測にまつわる問題がなぜ発生するのか、「第八章 振り出しに戻る―私たちはどこで道を誤ったのか」で科学哲学的な議論を踏まえて分析しています。そして、その根本的な要因として、科学者が持っている次の信念に帰着させています。

一九六七年、物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーは、科学の基礎をなすのは、客観化可能であり、理解可能だ、というふたつの信念だと述べた。

(本書 p.346)

客観化可能であるという信念は、結局のところどれだけ実験環境が統制可能であるかという問題と関連してくると思います。スーパーカミオカンデとかの大掛かりな物理実験施設は、まさに環境を統制するために必要とされるもの。厳密なパラメーターを求めるためには、モデルに含まれる要因以外を排除できるし、されねばならないという信念が、客観化可能であるという信念の裏にあると思います。でも、現実の問題は気象、生物、経済のように統制出来ない問題が多数存在します。そういった場合、主観的な選択なしにはモデル化できません。

モデルの多くのパラメーターは、過去の気候パターンを近似するために作り出して調整されたものだ。それが数学的な手続きで行われたとしても、目標と仮定がモデル製作者のものである以上、主観的であることに代わりはない。したがって、モデルによる未来の見通しは―とりわけ経済モデルの結果と組み合わされた場合には―、ある種の創作だ。それを私たちがきちんと認識することが、気候変動が重要で議論百出の問題であることを思うと、ますます重要になってくる。モデルにまつわる問題は、主観的か客観的かという話ではない―良質な物語や、情報に裏打ちされて誠実に展開される意見に、何ら悪いところはない。問題は、未来予測のためのモデルが、数学や確率の言葉で書かれていること、言い換えると客観の仮面をかぶった主観であることだ。

(本書 p.383)

別に主観が入っていることが悪いのではなく、主観の存在を認めないことが問題なのです。そして、主観と客観が入り乱れた議論をすると、不毛な水掛け論になってしまうわけで。

そして、もうひとつの「理解可能」であるという信念にも、筆者は否定的です。この問題は、「因果関係の解明が可能か」という言葉に置き換えた方がいいかもしれません。そして、複雑なシステムでは、因果関係のけいめいは不可能であるというのが筆者の見解です。これを救急救命室での医師と事務長の話に例えて説明しています。

立場が両極端な者どうしの議論にありがちなことだが、両者とも正しくもあり、間違ってもいる。技師の言い分は、地球の生命システムが危ういという点は正しく、テクノロジーを駆使して結果を予言できるという点は間違っている。理事の言い分は、技師の分析がこれまで不正確だったこと、そして未来に関して信頼できる目安ではないことについては正しく、絶対的な証明は明らかに無理なのにそれを求めていることが間違っている。医学的にか、あるいは経済的にかの違いはあるにせよ、どちらも患者を対象として見ている。

(本書 p.357)

訳文では「技師」と「理事」と成っていますが、微妙に誤訳っぽいですけどそのままで。原文手元にありませんが、原文では「technician」と「officer」かな?

なんか同業者に対して結構辛辣な評価をしている筆者ですが、数理モデルの有用性について述べた次の文を引用しておきます。

数理モデルは、これからも常に必要とされるだろう。言語と同様、私たちが世界を理解し、考えを整理して相手に伝えるための一つの手段だ。数理モデルの助けがあれば、仮定的な実験を行ったり、可能なシナリオを探ったり、弱点を明らかにしたりできる。そして何よりも、数理モデルは今何が起こっているのかを理解する一女になっている。

(本書 p.374)

2010/06/19

勝間 和代、宮崎 哲弥、飯田 泰之『日本経済復活 一番かんたんな方法』

リフレ派対構造改革派の議論て不毛に見えて、あまり議論に加わるつもりはないのですが、遅ればせながら勝間 和代、宮崎 哲弥、飯田 泰之著『日本経済復活 一番かんたんな方法』を読んでちょっとだけ感想をメモ。このあたりの議論って、何を主張しているかではなく、あえて何を語っていないか推測しつつ全体像を理解しないといけないので結構面倒。

個人的にはタイトルに「かんたんな」という言葉を入れたのは逆効果だと思うんですけどねえ。人工心肺装置を使った心臓手術とか、仮橋脚を使った線路付け替え工事とか、かなり面倒なものだと思うのですが。少なくとも経済活動をそれなりに機能させながら改革をするには、中間段階をどのように勧めるかが柔道だと思いますが。少なくと革命で社会が崩壊したあとで新秩序を築くという意見の持ち主でない限り。そういった意味で、リフレ派にしろ、構造改革派にしろ、中間段階の議論があまり見えないので、どちらについても態度はペンディング気味。でも、

飯田 僕はFTA締結は絶対に推進しなければならないマストな政策だと思っています。FTAをこんなにも結んでいない国って世界では日本くらいなんです。これが日本の長期的な成長の大きな足かせになっている。

(本書 p.165)

とか見ると、現実的な策を詰めていけば、リフレ派から出発しても、構造改革派から出発しても、結局中身は似たようなものになりそうなんですが。

リフレ派といえばインフレーションターゲティング政策みたいなイメージがありますが、有効性についてはどうなんでしょ?明確なルールは裏をかきやすいので、有効性について疑問視する構造改革派の主張にも一理ありそうな気がします。

最近、経済学に関しては工学メタファーよりも、医学メタファーが人気のようですが、医療は不完全な知識と限られた手段で最善を尽くすことです。人体も疾病もよくわかっていないですから。もちろん解明しようという研究は重要ですが、解明されるまで治療を待てというのでは、そのうちに患者は死んでしまいます。もし現在の問題に対処する理論が出来上がったとしても、それは経緯を事後的に分析することで分かることなんでしょうね。そういった意味で、飯田さんは結構プラグマティックで、取り返しが付かないこと以外は試してみたらという考え方の持ち主みたい。

バブルが崩壊してから、復活するまでに30年はかかると思っていました。問題があることを認めるまでに10年、解決策を模索するのに10年、なんとか問題が解消されるのに10年という感じ。でも、もっと時間が借りそうですねえ。

2010/06/16

ジャック・モノー『偶然と必然―現代生物学の思想的な問いかけ』

パラドクスだらけの生命―DNA分子から人間社会まで』を読んで、改めて生命とは何かについての疑問が浮かんだんですが、やっぱりわかりません。そのようなときには古典でもということで、当たった一冊がジャック・モノー著『偶然と必然―現代生物学の思想的な問いかけ』。

著者にとって生命(生物)の特性は何か?

それは、合目的性・自律的形態発生・複製の不変性である。

(本書 p.13-14)

つまり、

  • 生物の構造は、ある機能を果たすために計画的に形作られたものである
  • 形態発生は生物に内在する相互作用によるものである
  • 自分自身の構造に対応する情報を複製し、そして普遍のまま伝達する力がある
というものです。ここで上げた特徴、発生学的な視点を強く感じますね。せいぜい20,000~25,000個の遺伝子しか無い受精卵から、細胞同士の相互作用によって人体となるわけですから。それも、一卵性双生児は驚くほど似た姿をしていることから、発生の過程はかなり決定論的に見えます。それ故、生物というものに必然性を見たとしても不思議ではありません。

一方生物圏に目を向けると、そこには多様な生物が存在する世界です。そして、生物多様性を生み出した進化という機構は、偶然が大きな役割を果たしています。本書のタイトルにもなっている「偶然と必然」の問題が姿を表します。このような逆説的な問題に対して、著者は進化についてかなり思い切った見解を示しています。

進化は何ら生物の特性ではない。なんとなれば、進化は、生物の唯一の特権である保存機構の不完全さそのものに根ざしているからである

(本書 p.136)

ということになります。つまり進化は、複製の不変性の不完全さからくる副産物みたいなものであり、生物の特性とは言えないと。さらに進化について、著者は次のようにも述べています。

したがって、生物圏における進化は時間的に方向性を持った必然的に不可逆な過程である。この方向は、エントロピーの増大法則、すなわち熱力学的第二法則の命ずる方向と同一である。これは、単なる類似をはるかに超えたものである。第二法則は統計学的考察に基づいているが、これは進化の不可逆性を示す考察と同一のものである。じっさい、進化の不可逆性を、生物圏における熱力学第二法則の一つの表現とみなすことはきわめて正当なことである。

(本書 p.136)

この引用文からは、「進化=進歩」という印象を受けるのですが。「進化≠進歩」という現在の標準的な進化論の見方からすると、進化を不可逆な過程であるとするのはちょっと違和感がありますね。著者はダーウィンの進化論自体は支持していますけどね。本書が書かれた1971年という時代背景もあり、特に「XI 王国と奈落」では社会主義的思想の影響が見られるのですが、引用文にあるような進化に関すること考え方も、進歩史観の影響によるものなのでしょうか。また、同じフランス人だからというわけでもないのかもしれませんが、ラマルクの影響の痕跡がまだ残っているのかな。

違和感を感じる部分があるとはいえ、「XI 王国と奈落」での議論は、面白いですね。科学において、よく本質という言葉が使われますが、本質とはなんなんでしょうか?特に本質論については不毛な論争になることが多く、では本質とは何を示すのかについて前から疑問に思っていました。

最近の私の考え方では、本質とは具体的な理論ではなく知識体系を支える骨格である、というものです。あくまでも知識体系を束ねる信念であり、信念であるからには本質そのものを事実をもって検証することは出来ないと考えています。本質は、出来上がった知識体系の充実度、頑強さでその善し悪しを測るしかありません。このあたり、ルールとプリンシプルの関係に類似しています。ルールに合致しているかは事実でもって判定出来ますが、プリンシプルに合致しているかは状況などを踏まえて決めるしかありません。そのような考え方の持ち主である私にとって、次の引用文にはうなづくものがあります。

真の知識は価値を無視するが、真の知識の基礎を形づくるには、価値判断、あるいはむしろ価値についての公理が必要である。明白なことであるが、客観性の公準を真の知識の条件として捉えるということは、倫理的選択であって、知識による判断ではないのである。なんとなれば、その公準そのものに従えば、この審判者的な選択に先立つ≪真の≫知識なるものはありえなかったはずであるからである。知識の規範を樹立するために、客観性の公準は何らかの価値を定義することになる。ところで、その価値は客観的知識そのものなのである。したがって、客観性の公準を受け入れることは、ある倫理、すなわち知識の倫理の基礎的命題を明瞭に言い表わすことなのである。

(本書 p.208)

知識の倫理においては、知識の基礎をなすものは原始的価値の倫理的選択である

(本書 p.209)

本質に関しての議論が不毛になりがちなのは、信念の問題であるにも関わらず、事実を突きつけあって判定しようとしているからではないでしょうか。所詮は決めの問題です。

アンドレアス・ワグナー『パラドクスだらけの生命―DNA分子から人間社会まで』

生命とは何か?この問いに対して数々の名著がありますが、アンドレアス・ワグナー著『パラドクスだらけの生命―DNA分子から人間社会まで< img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=kilodhatenane-22&l=as2&o=9&a=4791765346" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』の答えは、一言で言えば「どのような見方をあなたが選択するかによる」、というものです。

そのような逆説を前にしたときには、一方の側を選び、自然の会話という何らかの探求を通じてそれに執着することで力が出てくる。そのような選択には一つだけ但し書きがある。どんな選択も、あくまでもそれだけのこと―一つの選択であって最終的な真理ではないこと―で、それを忘れると、いずれ致命的なことになる。どんな選択も、会話が行われる脈絡でものみ意味がある。言い方を変えると、選択は必ず二つの見方の間での、問題にどう答える、あるいは問いを先へどう進めるかの選択だ。一方の選択肢を最終的な真実としてそこにこだわると、結局はどんな探求にとっても障害物となる。

(本書p.289)

それでは答えになっていない?いえ、だから「パラドクスだらけの生命」なのです。本書では生命に関して、「物質と意味 (第1章 創造という内なる対話)」、「自己と他者 (第2章 自己の裏側)」、「部分と全体 (第3章 全体のための部分、部分による全体)」、「リスクと安全 (第4章 リスクのある避難)」、「創造と破壊 (第5章 破壊的創造)」という5つのパラドックスを取り上げています。どちらか一方であればもう一方ではないという排反関係にあるとするからパラドックスに見えるのであって、実は両者は不可分の関係にあり、われわれが現象を分析するためにある特定の見方を選択しているに過ぎないというものです。

生命の本質に関する議論の中で、よく機械論的世界観(Mechanism)と有機体論的世界観(Organicism)とがしばしば対比されて議論されています。非生命は機械論的であり、生命は有機体論的である。生命活動をコミュニケーションという観点から見た場合、そのような二分法が成り立たないというのが、物質と意味をめぐるパラドクスです。

ミジンコが受け取る信号と動物の変身、シジミチョウの幼虫が受け取る信号と蜜の出方、ある海洋性の細菌が受け取る信号とその発光、外胚葉が受け取る信号と水晶体の形成、ウィッチウィードの苗が受け取る信号と他の植物への進入、それぞれの間には密接なつながりが存在する。それは生物体の内部で起きる無数の出来事のネットワークでつながっている。
(中略)
この出来事は、多少の変化はあるが、すべての化学的コミュニケーションにも生じる。大事なところは、これらの出来事が、それ自治、一種のコミュニケーションだということだ。

(本書p.41-42)

このように生物が分子によってコミュニケーションしていると見るからには、無生物もコミュニケーションしていると見ることを否定するのはきわめて難しいものになります。

要するに、無生物は、メッセージと応答の間の無数のつながりの一つとしてだけでなく、会話の相手としても、確かにいろいろな会話を行っているということだ。

(本書p.47)

結局のところ、コミュニケーションに意味を見出すのは、対象の本質というよりは観察するわれわれの解釈によるとこが大きいのではないでしょうか?生命と非生命をきれいに区分できるような基準を定めることができるかというと、私は著者と同じく否定的です。

なぜ利他的な行動が進化してきたのか、その解釈をめぐってはいまだに論争が繰り広げられています。進化は生存競争ですから、個体の死につながる行動は淘汰されてしまわないのはなぜなのでしょうか?これが、自己と他者にまつわるパラドックスです。利他的な行動については、例えばドーキンスが唱えた遺伝子選択説では、遺伝子を単位としてみた場合には利他的な行動は形を変えた利己的な行動であるという解釈によりパラドックスを解消しています。

このパラドックスは、自己と他者を区別するからこそ起きていると考えることも出来ます。近代以降とくに個の概念は重要視されています。ただ、自己と他者とは明確に区別することができるものなのでしょうか。例えばボルボックス科の藻類の群体(p.75)、真社会性昆虫のコロニー(p.80)、自己という概念がそれほど明確な物とは思えなくなります。例えば真社会性昆虫が示す利他的行動を奇異に思っても、多細胞生物におけるアポトーシスなどの細胞死には違和感を感じないのではないでしょうか?実際、進化の基本単位を個体ではなく遺伝子とした遺伝子選択説は、社会性昆虫に象徴されるように、自己と他者の関係が不分明であるからこそ、支持されているところがあると考えています。

そして、自己と他者に関しては、私の中で解決のつかない問題ともつながっています。

寄生生物は他の生物から資源をとり、宿主の近くで、あるいは接触して、あるいは体内で暮らすものだとされている。しかしもっと広い見方からすれば、生物はたいてい「寄生的」だ。肉食動物は獲物に寄生している。草食動物は餌となる植物に多大な害を及ぼす。土中で暮らす多くの生物―動物、菌類、細菌―さえ、死んで腐敗する生命によって生き、相手から資源を得ている。植物にも同じことが言える。その生活様式は、表面的にはいちばん無害に見えるかもしれない。しかしある植物が別の植物に対して、死活的に重要な資源である日光をさえぎり、代わりに何も与えないなら、それは寄生的とも言える。すべての生物が資源を必要とし、他の生物からそれをとり、他の生物と競い、他の生物を殺している。つまり、一方の生物にとっての利益は別の生物にとっての損を意味するのなら、すべての生物は寄生的なのだ。それでも、死をもたらす天敵でさえ、究極的には運命をともにしている。これが自己と他者との中心的な逆説だ。

(本書 p.87-88)

自然というものがこの引用文のような有様であるとしたら、結局あらゆる生き物は直接的にでも間接的にでも他者の犠牲が無ければ生きることはできないということです。だとしたら、不殺生戒、動物愛護活動、ヴェジタリアンの主張をどのように理解すればいいのでしょう。そのパラドックスを認識すると、その高い理念はごもっとも、でも現実に生きるとは…と納得出来ないものを抱えたままです。

リスクの増大に直面したときに、リスクを小さくする行動を常に取るのは、果たして期待通りに安全をもたらしてくれるのでしょうか。最近が飢餓に襲われた時にとる、興味深い行動例が取り上げられています。

細胞は、餌となる分子をエネルギーや体を作る材料に変えるために、酵素を必要とし、飢餓ではこの酵素は使えない。しかしコロニーの周囲に豊富にある分子は、細胞の酵素がそれを認識して、使える分子に変える場合のみ、餌となる。そこの分子が細胞の問題を解決する。ところが細胞にそれが餌とは「見えない」となると、この分子は存在しないも同然となる。ある酵素の表面は、こうした分子の表面を認識するために、適切な変化の仕方をする必要がある。

細胞のDNAを無作為に変えることによって、細胞はそのタンパク質を変化させ、そのタンパク質で賭けをする。変化の大半は酵素を無効にする。しかしごくわずかでも、分子の世界での幸運な大発見につながるものがあるかもしれない。新たな餌を消化できる酵素の創出だ。このように変化した細胞は、他の細胞が飢え死にするのに対して、成長し、分裂する能力を勝ち取ったことになる。これがあらためて、何億個もの細胞のコロニーを創出する。

(本書p.145-146)

このように、環境リスクの増大に対して、さらにリスクを増大させることで危機を突破しようとする姿が見えられます。変異の多くは有害であり、死につながることになるでしょう。でも、変異が無ければ、変化した環境の中で死滅するだけです。多くのチャレンジの中から新たな環境に適した変異が幸運にも生じたら、そこから新たな繁栄へと導かれます。行動経済学では、損失を回避するためにリスク追及的になるという、不合理に思える行動が知られています。でも、そのような行動は不合理であると簡単に片付けられるのでしょうか?環境の変動に対して生き残りを図る戦略として有効だからこそ、そのような行動をとるように進化する生物が生き残ってきたのでしょう。

過去が語るのは、生命の圧倒的大多数、生物種の九十九.九パーセントは死滅したという話だ(過去の成功は、将来の成功の指標とはならず、むしろ将来の失敗を暗示するように見える)。この死滅した種も、その祖先から、何らかの成功、つまり、うまく行く生活様式を生み出す変化をして生まれたものだった。しかし理由は―気候、敵、隕石など ―どうあれ、このうまく行く生活様式はその後失敗した。うまく行く生活様式が失敗して滅亡するのは、リスクと安全、成功と失敗が、正反対に位置するにもかかわらず、分かちがたく近いことを浮かび上がらせる。

(本書 p.164-165)

環境の変動という現実の前には、成功こそが失敗の原因になりうるというのは、まさにパラドクスです。成功は成功し続けることを保証しない、厳しい掟です。

ではヒトはなぜ特定の見方、あるひとつの本質といったものにこだわるのでしょうか。それに関してちょっと面白い推論があります。

逆説に心の目を向け続けることが、どうしてこんなに頭が痛くなるほど難しいのだろう。人類の祖先―はるか細菌にまでさかのぼる―に答えがあるかもしれない。成功した生命の歴史とは、細胞に荒削りに体現されたものであれ、人間の思考でもっと高度になったものであれ、何か一つの世界観に加担した生命の歴史なのだ。

(本書p.295)

生き残るということに成功してきたら、そしてこれからも成功し続けるであろうからこそ、自由な発想というものにある程度箍をはめてきたのでしょう。それは生き残りのための知恵であり、有用なものであるとも言えます。では、あえて逆説に目を向ける意義はなんなのでしょう。

逆説の自覚は、人間に大きな力と責任を返す。自らの世界を生み出す会話に能動的に参加することの力と責任だ。科学の会話から生じ、ますます成功になる見方はすべて、人間の心が生み出す意味に左右される。この会話のどの論点も、次に問う問題に関する選択を許容する。というより、それを必要とする。選択するたびに、どの見方をとるかにより、会話が全然違うところへと導かれる。

(本書p.299)

人間が本当に自由になるのは、絶対の確実さや絶対の真理が消散するところだ。人間の選択の重みとともに、究極の自由、自分の世界をそれとの会話から生み出す自由が生じる。逆説の中で生きることは、究極の贅沢だ。
(中略)
人間の選択が、ほとんど魔法のような可能性の領域への扉を開くこともある。

(本書p.300)

思いもしなかったことが発見されることが科学の醍醐味であり、確実さや真理という確固たる地盤なしに歩まなければいけないという難しさでもあります。

2010/06/15

吉田 伸夫『思考の飛躍―アインシュタインの頭脳』

アインシュタインの構築した革命的な理論についても、その業績をたどった伝記についてもすでに多数出版されています。その中で吉田伸夫著『思考の飛躍―アインシュタインの頭脳』では、

アインシュタインがどのような発想に基づいて理論を構築したか、そのやり方が他の物理学者の方法論といかなる点で異なるか

(本書 p.7)

を、現在に残る論文、書簡などを読み込むことによって、その発想の道筋の解明を試みています。本書のポイントを、著者のサイト(科学と技術の諸相)から引用します:

  • 演繹的な思考ではなくジャンプによって新しい原理に到達するアインシュタインの発想法を軸に、特殊相対論・一般相対論・ブラウン運動・量子論という彼の業績全般にわたって解説します。
  • アインシュタインの特殊相対論は、先行するローレンツやポアンカレの理論とどこが違うのか? 等価原理という素朴なアイデアからテンソル解析を利用した一般相対論へと移行する際に何が起きたのか? 量子論の基礎を築きながら量子力学に対して批判を繰り返したのはなぜか? アインシュタインの論文を読み込み、発想の筋道を辿ることによって、こうした謎を解明していきます。
  • これまでの科学史で過小評価されてきたグロスマンに光を当てます。また、量子力学に関するボーアとの論争については、現代物理学の知識に基づいて、議論の正否を正しく判定します。

科学と技術の諸相

革命的な理論を構築するに至った発想法とはどのようなものでしょうか。

アインシュタインによれば、「EからAに至る論理的な道筋は存在しない」という。いったん仮説Aに到達すれば、そこから厳密に演繹的な作業によって、さまざまな命題Sが導き出される。命題Sと経験Eは關係づけることが可能であり、論理的に厳密とは言えないかもしれないが、何らかの形で仮設Aの妥当性を検証できる。

こうした思考パターンは、何もアインシュタインが発明したわけではない。パターン自体は、19世紀以来、科学的研究の基本的な方法論として知られているものである。アインシュタインの独自性は、経験Eから仮説Aへのジャンプが、既成概念にとらわれない自在さを持っていた点にある。

(本書 p.3-4)

この飛躍ですが、基本的なアイディアから一直線に新たな仮説の構築できたわけでなく、一連の論文を追っていくと、理論として完成させるまでに紆余曲折があることが分かります。「第2章 四次元幾何学の饗宴」で描かれた一般相対論完成までのストーリーが特に印象的ですね。等価原理という基本的なアイデアを閃いてから、一般相対論へいたるまで、一旦諦めたり、重力による屈折という命題が導き出せたことで再度前進したり、再度混迷したところを親友の数学者であるグロスマンの助力により完成にこぎつけたり。普通科学の授業では荘やって紆余曲折の挙句にようやく完成した理論を習うわけですが、普通はそのような過程は教えられないので、科学ではすべての理論が常に白黒つけられる状態にあると思ってしまっても仕方ないかもしれません。科学に対する誤解の一端は、そのようなところからも来ているのかなと思っています。

ただ、この思考法を理解するに当たり、次の点に注意しなければいけないと思います。

  • 飛躍への契機になるのは、測定手段の発達などにより新たに得られた経験E'が、既存の仮説Aから演繹された命題群Sでは説明がつかなくなったこと。
  • 思考の飛躍はあくまでも経験的事実を土台にしていること。
  • 既存の仮説Aと命題群Sよりも、新たな仮説A'から導き出される命題群S'の方が、経験E'をよりよく説明出来ること。
既存の仮説で説明出来ているのなら、命題群Sの充実を測るだけで十分。飛躍を試みると、逆に新たに得られた命題群の説明力が落ちる場合がほとんどです。このような考え方は、過去のしがらみに捉えられてしまうといわれるかもしれませんが、科学はあくまでも知識の体系であり、人間の知性には限界がある以上、やむを得ない代償であると考えます。アインシュタインほどの知性の持ち主であっても、この代償に苦しむ様が最後に描かれています。

しかし、統一場の理論は違う。「はじめに」に掲載した図で言えば、ジャンプの足場となる直接的経験Eが無いのである。アインシュタインにあったのは、量子力学以外の方法で究極の理論を追求したいという思いであり、そのためには重力と電磁気という二つの作用を統一する場の理論を作らなければならないという信念だった。現実の世界を見るよりも、そうあって欲しい世界に目を向けてしまったのだ。

世界を統一的に記述する物理法則を求めるあまり、アインシュタインは、単独で美しい幾何学の秩序に惹かれ、幾何学の基づく完璧な理論を作ろうという思いに憑かれて研究を続けた。それはもはや、具体的なイメージに基づいて物理の本質を大づかみにしてきた以前とは、別人のようである。もしかしたら、幾何学的な方法論を適用することで素朴な等価原理のアイデアを壮大な理論体系に仕上げるに至った一般相対論の成功体験が、その目を曇らせたのかもしれない。

(本書 p.204-205)

量子力学に対するアインシュタインの批判に対して、否定的な見解をとる筆者なので、ちょっと辛口の表現になっている感もあります。飛躍が成功するのはあくまでもしっかりした足場に立ってこそ。でも、飛躍を求めて迷走しているのはまだ科学の範囲内での出来事であると言えます。その観点からすると批判されるところはあったとしてもアインシュタインはあくまでも科学者であり続けました。

しかしながら、もししっかりした足場もなしに飛躍に成功したと宣言するのならばもはや科学とは言えません。この辺が科学か否かを分ける微妙な一線であると私は考えています。

レナード・ムロディナウ『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』

大学の統計の授業で「統計はartである」と教えられたことを未だに覚えています。どんな手法でデータを収集、分析しても、最終的に意味のある結果を出すためには解釈という作業が欠かせないから。そして、解釈という作業は、手法の機械的な適用では済ますことが出来ないから。その言葉を思い出しつつ、レナード・ムロディナウ著『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』を読み返していました。不確実性がある状況において、解釈という作業がいかに難しか、そしてわれわれの認識がいかに惑わされやすものであるのかを、身近な(と言っても米国のですけど)例に基づいて説いています。

何らかの現象を測り、そして測られたものを解釈するのは、何らかの因果関係を見出したいからでしょう。そして、なぜ因果関係を知りたいかといえば、われわれが行動を起こすときには、それがデータに基づくものであろうと、ジンクスによるものであろうと、生得的なものであろうと、例えば認知心理学のメンタルモデルのように、なんらかの因果関係に基づいて行動を起こすと考えられているからです。そして、困ったことに、自らが因果関係を推定する能力をわれわれは過大評価しがちらしいということです。そして、因果関係が曖昧な状況には耐えられないらしいということです。

なぜ因果関係が曖昧な状況に耐えられないかというと、われわれは状況をコントロールしたがるという傾向があるから。因果関係がはっきりしなければ、状況を変えるためにどのような行動を起こせばよいのか分かりません。

人間は何かをコントロールしているという必要があるという問題が、ランダム・パターンの議論となぜ関係するのか?それは、もし事象がランダムなら、われわれはその事象をコントロールしてい<ない>ことになるし、もしわれわれが事象をコントロールしていれば、その事象がランダムでは<ない>ことになるからだ。

したがって、われわれが何かをコントロールしていると感じる必要性と、ランダムネスを認識するわれわれの能力とのあいだには、基本的な不調和がある。その不調和こそ、われわれがランダムな事象をそうでないと誤解する主たる理由の一つだ。

(本書 p.275)

ランダムな事象をそうでないと誤解するといかに深刻な事態になりうるのかが、「第6章 「あなたが死ぬ確率は一〇〇〇分の九九九!」」において、確率を検討するのに誤った論理を展開してしまった例(p. 177-179)です。本件については、Wikipediaに本件についての項目が立てられています。二人の乳児を続けて乳幼児突然死症候群(SIDS)で亡くした母親が殺人の容疑で逮捕された例で、検察側証人の小児科医が二人の乳児が同症候群で死亡する確率は七三〇〇万分の一と評価したことを受けて有罪判決となりました。要するに、二人とも同じ症候群で病死する確率は極めて低いのだから、死因は殺人に違いないという推定です。しかし、ここに深刻な誤謬が存在していたのです。本来評価すべきは、二人の乳児が同症候群で病死する確率ではなく、二人の乳児が同じ症候群で病死する確率と、殺人によって死亡する確率との比較だったのです。両者の確率を比較した研究もあり、それでは二人ともSIDSで死亡する確率のほうが、二人とも殺人で死亡したとする確率より9倍高いと推定されています。本件では、検察側が不都合な証拠を隠匿してた事実もあり、最終的に無罪となりました。不確実性のある事象を早くするのに確率は強力な道具です。でも、問題の組み立て方、結果の解釈の仕方を誤ればどのような悲劇を招くことになるのかをこの事件が示しています。

「第1章 ランダムネスという不思議な世界―ベストセラーは「たまたま」生まれる?」には、後のベストセラー作品が出版社にはねられ続けた話が出ています。さて、ベストセラーをはねた編集者は作品を評価する能力がなかったのでしょうか?それとも、作品の質には関係の無い要因でベストセラーになるのでしょうか。

それは市場に対する決定論的な考え方、つまり、成功を支配しているのは主として個人または製品に固有の特質であるという見方だ。しかし別な物の見方、つまり、非決定論的な見方がある。この見方では、質は高いが知られていない本、歌手、俳優がごまんと存在し、そこから何かを、あるいは誰かを傑出させるものは、主に、ランダムで小さな要素の同時発生―つまり、僥倖―ということになる。その見方でいくと、伝統的な経営陣は単に無駄骨を折っていることになる。

(本書 p.303)

この問題に対して実際にインターネットでの楽曲販売で実証的実験を行った例が「第10章 ドランカーズ・ウォーク」で紹介されています。元ネタのペーパーはこれです:

Experimental Study of Inequality and Unpredictability in an Artificial Cultural Market -- Salganik et al. 311 (5762): 854 -- Science

この実験では、楽曲の質と人気度の関係が分析しています。まず参加者は全部で9群に分けられました。この内の1群は、他人の情報は一切わからずに、各曲の評価だけをやってもらいました。この群での評価が各曲の質を表すものとしています。そして、残り8群では各局のダウンロード数が分かるようになっています。ただし、分かるのは同じ群の数だけです。結果は、8群それぞれの人気順はばらばらで、質が人気に与えている影響も限定的というものでした。

この結論を受け入れると、売れるものを見出す事に関しては期待できないということになります。しかし、カスケード現象の影響が大きいということは、売れるようなしくみをつくる能力(=広義のマーケティング)こそが経営陣に期待することであるとも言えます。個人的には、『金枝篇』でいうところの「殺される王」役を果たすために存在しているようにも見えますが(苦笑)。少なくとも第1章の映画会社のトップ交代劇の逸話を読むと。

このように、偶然の経緯が結果を左右する現象について、著者はノーマル・アクシデント理論で説明しています。

ペローはその理論の中で、現代的なシステムは過ちを起こしやすい人間の意思決定を含む何千という部分で構成されており、それらはちょうどラプラスの原子のように、個別に追ったり予想したりすることが不可能な形で相互に関係しあっている、とした。それでも、ちょうどドランカーズ・ウォークを演じている原子が最終的にはどこかにたどり着くように、自己も最終的には起きるという確かな事実がある。「ノーマル・アクシデント理論」と呼ばれるペローの学説は、それがどのようにして起きるかを―つまり、明確な原因も、権限を移譲された法人や行政が追求するような明々白々たる過ちや無能なダメ人間も存在しないで、事故がどのように起きるかを―説明している。

ノーマル・アクシデント理論は、なぜものごとが不可逆的にときおり悪い結果になるかを説明する理論だが、しかしそれは逆に、なぜものごとが不可逆的に良い結果になるかを説明する理論にもなり得る。というのは、ある複雑な仕事で何度失敗しても、もしつづけていれば、しばしば、最終的には成功するかなりのチャンスがあるからだ。

(本書 p.301-302)

少なくとも成功に至るための資質と、続けられる環境があることが前提だとは思いますが、普通にやっていても大失敗は起こるのだから、裏返しに考えれば普通にやっていても続けていれば大成功に至ることもあると。だから、

すべての分野の成功者が、ほとんど例外なくある特定の人間集団―決して諦めない人間集団―の一員であるのはそのためだ。

(本書 p.18-19)

、ということですか。私にはかなり耳が痛いです。

まあこれだけだと、いかにもポジティブ思考の米国人というステレオタイプで見てしまうでしょう。でも、本書は次の言葉で締められています。それは著者の両親が強制収容所を生き抜いた経験談からくる、ポジティブな思考のさらに奥底にある思想です。

だがしかし、もっと重要なことがある。母の体験は私に、それは私に、手にしている幸運を識別し、評価し、また自分が成功に関わっているランダムな出来事を認識すべきであることを教えてくれた。それはまた私に、われわれに深い悲しみをもたらすかもしれない偶然の出来事を受け入れるようにも教えてくれた。

(本書 p.323)

努力は大事だ。でも人間の力では如何ともし難いところに至ってしまうこともある。キリスト教の素養が十分なれば、ここで聖書から適切な言葉を引用するところなんでしょうけど、残念ながら気の利いた一節を引用することはできません。この世は無常であることを受け入れる、これがこの言葉の私なりの理解です。

2010/06/11

クレイ・シャーキー『みんな集まれ!―ネットワークが世界を動かす』

クレイ・シャーキー著『みんな集まれ!―ネットワークが世界を動かす』では、インターネットによって、集団行動の組織化コストが大きく低下したことが、人々の行動にどのような影響を与えたのか、そのポジティブな面を中心に描かれています。組織化するコスト、参加する敷居が大きく低下すれば、もはや量的な変化にとどまらず、質的な変容を伴うものになります。「第6章 集団で既存の制度に挑戦する」の、カトリック信者による教会改革運動VOTFがいかに組織されたのかとか、「第7章 速く、もっと速く」ではベラルーシで政府に対する抗議活動がどのように展開されたかという話が取り上げられています。

上記の例で取り上げられているように、SNSやTwitterなどのソーシャルメディアは、集団行動を組織化するコスト、個人が特定目的の集団に参加するコストを大きく下げました。問題はそのメリットが、あらゆる集団が享受できるものであることです。例えば、「第8章 社会のディレンマを解決する」では、ティーンの女の子向けの雑誌の公式掲示板で、拒食症コミュニティへの対応に苦慮した上で閉鎖を決断した例が取り上げられています。

日常の範囲を超えた集団を組織しようとすると大変に労力がかかることでした。とくに、それが社会の認知を必ずしも得られていない場合です。

我々が集団を作るためのテクノロジーを手にする以前は、同じ興味をもつ人々を発見するのは難しかった。そして、そのためにできること―近所にチラシを撒いたり地元の新聞に広告を出したり―は非常な手間とコストがかかった。こうした難しさ故に、社会からの認知は集団形成をずっと簡単にし、逆に社会から認知が得られない場合は非常に困難になった。

(本書 p,206)

それ故、集団を組織し、活動を拡大する場合には、社会の認知を得るための活動に少なからぬコストを支払わなければいけませんでした。このことは、サイレント・マジョリティの問題を社会が抱えるとともに、集団極性化現象によって極端に走りがちな傾向を抑止することにもなったと思います。そして、集団を組織化するコストの劇的な低下は、その歯止めが外れたことも意味します。

現代社会における驚くべき可視化の可能性と検索の能力は、同じ思考を持つ人々が、社会からの承認の有る無しに関係なく互いに発見しあい、集まって協力し合うことを可能にした。拒食症支持派の女の子の集まりは、ソーシャルツールの副作用ではなく、直接の作用なのである。

(本書 p,207)

インターネット上での集団極性化現象として、サイバーカスケード現象が知られていますが、集団極性化現象自体は別にネット固有の現象ではありません。カルトとか過激派の問題は昔から。ただし、ソーシャルメディアの普及によって、自分の志向に合わせた情報の取捨選択、集団への帰属が容易にできるようになりましたから、人間の持つ確証バイアスが助長され、集団極性化現象が起きやすい環境にあります。例えば、Twitterでは、自分と同じ意見の持ち主をフォローし、異なる意見の持ち主をブロックすることで、自分にとって心地よいTLを作ることができます。でも、そのようなTLに浸っている状態で、異なる意見の持ち主に対する寛容さが醸成されるとはとても思えないんですけど。そして、社会的な認知を求める活動を行うこと無く急速に組織された集団は、異なる意見にも耳を傾けつつ、よりよい目標を模索するといった、間怠っこしいことに耐えられるかとても疑問です。

何を社会的に認められないとするのかは、それはそれで難しい問題ですが、極論に支配された集団によるいわば(プチ)カルト問題に、かつて無いほど頻繁に直面することになるではないでしょうか。ネットによる直接民主制を実現しようとすれば、この厄介な問題をどうにかしなければいけません。知性や知識でかいけつできる問題ではないですし。結局、リベラリズムにおける寛容の問題が問われていることになるのでしょう。だからこそいま「正義」に関心が集まっているのではないでしょうか。

ソーシャルメディアは、流言飛語の温床になるという懸念が示されていましたが、本来の意味でのPublic relationsの能力が優れていれば現状より悪化するとは思ってません。むしろ迅速な対応によって初期消火がし易いくらいです。まあ、対応にしくじったときに、今までがせいぜい火に重油を注ぐ位で済んだものが、火にガソリンを注ぐ位にひどくなるでしょうけど。雑多な情報が大量に流れてくれば、結局のところ信頼できる筋の情報を信じるしかありません。デマが信じられるよりは、肝心のメッセージまでもスルーされる方がよほど有り得そう。

技術に関しては、ポジティブな面ばかり強調した論調にはそのネガティブな面が気になり、ネガティブな面ばかり見て否定的な論調にはポジティブな面を擁護したくなる性の持ち主なので、まあちょっとネガティブな面を書きすぎたかも。でもまあ、いままでのイノベーションの歴史が示しているように、需要と拒絶の動きが錯綜しながら、まあ副作用の存在に頭を痛めるものの、普通の道具になるのではないかというのが、在り来りではありますが、ソーシャルメディアに対する個人的な予想です。

2010/06/08

木田 元『闇屋になりそこねた哲学者』

木田 元著『闇屋になりそこねた哲学者』は、著者の、哲学者としてちょっと独自な立ち位置が、どのような経歴に由来するのかがなんとなく伝わってくる一冊です。

哲学書に限らず、古典に真っ先に突撃すると、書かれた時代では当たり前すぎても、その当時の常識に関して前提知識の無い人間にはわからないところが至る所で現れて挫折しがちです。その当時の関連する動きは何か、問題意識は何かを、入門書、解説書で仕入れないと何をいいたいのかさっぱり分らないというハメに。

一九二〇年代は生物学をはじめとする生命科学の大きな転換期でした。ハイデガーは、おそらくシェーラーに示唆されて、その動きに関心をもち、自分でも物質と生命と人間をつなく理論を構想したりしています。ですから、シェラーをとおしてユクスキュルの環境世界理論に興味を持ってもおかしくはないのです。事実、講義録ではユクスキュルに言及しています。ですから、ハイデガーを理解するのに、アロン・ギュルヴィッチを介してシェーラーを勉強したメルロ=ポンティの考えがヒントになるというのは筋の通った話なのです。

ハイデガーの講義録を読むと、具体的な材料に即してじつに平易に書かれています。ただ、ハイデガーも性格の悪い男ですから、本にするときは本当のネタは隠してしまいます。講義録では、「世界内存在」の概念はユクスキュルの環境世界理論とつなげて、じつによくわかるように解き明かしているのに、『存在と時間』では、ユクスキュルのユの字も出しません。その先駆者のフォン・ベーアという生物学者の名はちらっと出しているのですが。それを、講義録ではユクスキュルの名前をちゃんと出して、その環境世界理論に言及しているので、かなり小意地の悪いところはあります。

(本書 p.147)

この文章読んで、講義で言及しているのなら、なおさら本には書いて然るべきで、ちょっと言い過ぎの感もあるものの、「小意地の悪い」と評されても仕方ないですね。同時代の他分野の潮流に影響を与え合っていることはよく見られる現象なので、専門特化しすぎると逆に理解できなくなるという一例でしょうか。

科学と哲学でテキストを読むというということの意味の違いを痛感したのが次の文章。

本というのは大体意味がわかればよいというものではなくて、前置詞や小さな副詞にいたるまで、なぜ、それがそこにあるのかということを明確に読み取らなければならないものです。ぼくたちのような読み方は、昔の訓詁学みたいで古臭いと思われるかもしれませんが、ぼくはこれしかないと思っています。

大学院の教育についてはいろいろ議論はありますが、哲学のばあい、本がきちんと読めなくては話になりません。ハイデガーの書いたものを読むということは、その思考を追体験するということです。大体わかればよいということではなく、ハイデガーの思考のあとを精密にたどることができなくては意味がありません。たとえば、ある文章と次の文章が「そして」でつながるのか、「しかし」でつながるのか。欧米の言葉ではそうした接続詞が表に出てこない場合が往々にしてありますが、それを読み込むことが本を読むということです。接続詞一つで意味ががらりと違ってきますから。

(本書 p.196)

すみません、私も訓詁学みたいだと思っていたひとりです。テキストを信じるなと教えられた影響で、人文・社会分野でのテキストの扱いについて、まるで宗教における聖典を崇めているようだとだけしか見てませんでした。でも、上の文章からは、哲学者にとって本を読むとは、自然言語で書かれた仕様書をもとに自分の頭の中に分析装置を組み立てていく作業であるのかなと。とすれば、繰り返し読み込む意義も理解できます。まあ、そこまで要求されるのは本職だからでしょうが。一般人である私なんかは、読み込んだ人の解釈をなんとか理解しようとするので精一杯ですが(苦笑)。

ケン・オーレッタ『グーグル秘録』

Google本はすでに多数出版されていますが、ケン・オーレッタ著『グーグル秘録』は、関係者へのインタビューを含めた丹念な調査報道的手法でもって、Googleの歴史を描き出した本です。

Googleにとって第一の転機だったのは、「第4章 グーグル・ロケット、発射準備」で描かれている、シュミットをはじめとする新経営幹部とのチームワーク構築の成功と、なによりもAdSenseという中核となる収益源を実現できたことでしょう。ここでの成功がなければ、最終的には検索技術部門として買収されることになっていたかもしれません。

Googleは、「世界中の情報を整理し、誰でも簡単にアクセスできるようにするプラットフォーム企業」としての事業に集中することで成功を収めてきました。Google目線では、YouTubeもGoogle Booksもあくまでもプラットフォーム事業として、HTML文書から、動画、本という横展開を図ったに過ぎないんでしょう。そして自分たちが提供する効率的なプラットフォームを利用すれば、メディア企業もより効率的な事業運営ができるはずなのに、反発を招いているのは理解し難いと本気で考えていそうです。

そしてGoogleは、成長の結果としての『イノベーションのジレンマ』を回避できるのでしょうか?これまで急成長を遂げてきた公開企業の宿命として、今後とも成長が継続することを期待されてしまいます。企業としての成長を続けるために事業の拡大を図り、その結果として「世界中の情報を整理し、誰でも簡単にアクセスできるようにするプラットフォーム企業」という基本線からのズレが大きくなるようなことがあれば、その時はどの成長企業も直面する危機が到来することになるでしょう。次の危機を乗り越えることが出来るのか、まだ分かりません。

そして、このようなサクセスストーリーを読むと、その行動ルールを真似たくなるものですけど、あまりお薦めできません。Googleが成功を収めた時と環境も異なれば、手持ちのリソースも異なります。その前提条件の検討なくしては、単純にルールを真似ても上手くいかないでしょうね。別に既存のやり方にあくまでも固執しろというのではありません。もし見習うことがあるとすれば、ルールではなくプリンシプルでしょう。