2010/07/29

畝山 智香子『ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想』

「食の安全」というものが語られるとき、人工物、合成物は危険、天然物、自然物は安全というストーリーをしばしば見かけます。いままでずっと食べられてきたものなのだから安全性は歴史が証明しているという発想ですね。では、自然に存在するもの、天然のものは本当に安全なのでしょうか。まず思い出すのは、「ワラビ」、「ジャガイモ」、そして「ウメ」。山菜料理とかその食感が私好きです。肉じゃがとか定番料理ですよね。お焦げとか香ばしい匂いは食欲そそります。これらに共通するものは、実は有毒物質が含まれているということです。ワラビとかしっかりあく抜きしますが、ワラビのアクには発がん性物質が含まれていることはよく知られているかと思います。ジャガイモの芽や緑色の皮にはゆ毒なアルカロイド配糖体があるので調理の際にはしっかり取り去るように指導されたと思います。そして、ウメには青酸配糖体がありますが、加工して食べる分には失活していますから心配有りません。このように普段から食べ慣れているものでも、実は有毒植物という物は結構あります。植物は動物にむやみに食べられないよう、トゲなど物理的な防御手段の他に、有毒物質を体内で合成することで食べられないように防衛手段をとる植物もあります。植物には「優しい」というイメージが有るようですが、実際には違います。自らの価値観を投射するのは勝手ですが、「優しい」というイメージでなめてかかると思わぬ危険が待ち構えています。そのような自然を相手にして、どのようにして食べられるように加工するかという工夫の積み重ねも食文化の歴史です。

畝山 智香子(著)『ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想』は、国立医薬品食品衛生研究所の主任研究官であり、個人的な活動として「食品安全情報blog」を運営している著者が、食品の安全はどのように評価されているかを解説しています。

「食の安全」についての誤解の一つに、「安全性を評価しなければいけない=危険」という図式があるように思えます。合成食品添加物が世間で問題視されたときに、専門家の間で不安視されていたのが天然食品添加物です。合成食品添加物は安全性の評価が義務付けられていたのに対して、以前は天然食品添加物については「天然=安全」という図式によって事実上放任状態でした。そのような状況はまずいだろうということで、天然添加物についても安全性評価が進められて、アカネ色素のように使用が禁止されるものも出てきました。では、なぜ安全性の評価が行われているかというと、われわれ人類は未だに生物の仕組みについて未知の部分が大きいからです。食品に限らず、医薬品についても安全性の評価が行われるのは、あくまでも「人類の知に限界がある」という現実認識に立っているからです。私から見ると、「ゼロリスク」を唱えている人は、「人類の知、力」を過大評価し、「自然の力」を過小評価ているようにしか思えません。科学の側でも、プライドが高すぎて限界を公に認められない人とか、限界を理解していない人がいることも否定できませんが。

コラム4「科学発がんの歴史」(本書 p.79-84)読んて、改めてそのような思いに駆られました。病原体は胃がんの原因となるか、その研究の歴史を振り返るとなかなか興味深い事実が浮かんできます。図2-3で化学発癌の歴史がまとめられているのですが、その中にノーベル生理学・医学賞の中で現在では微妙な評価をされる研究の一つが載っています。「1926年 ヨハネス・フィビゲルががんの原因が寄生虫であるという発見によりノーベル賞を受賞」とありますが、これは線虫によってラットに胃がんが発生したというものですが、その後の追試によってがん化の主因はビタミンA欠乏による細胞へのダメージであり、発見された線虫には直接的な発がん性は認められないとされています。同時期に化学物質による発がんを実証した山極勝三郎がノーベル賞受賞を逃したこともあって日本ではフィビゲルへの評価がかなり辛いですが、臨床試験の始祖としてフィビゲルは一定の評価を受けているようです。それで終われば臨床試験の黎明期で検査技術がまだ未熟だったということで済まされてしまうのですが、さらに問題が複雑なのは「2005年 ピロリ菌発見者にノーベル賞受賞」です。胃からの細菌の分離・培養がうまくいかなかったこともあって、胃炎、胃潰瘍の原因といえばかつてはストレス説が定説でした。それに対して、ロビン・ウォレンとバリー・マーシャルが人の胃から初めてピロリ菌の培養に成功しました。そして、胃炎や胃潰瘍に対してピロリ菌原因説を唱えたのですが、なかなか認められず、結局自飲実験で自らのからだで病原性があることを実証しました。このような歴史から分かることは、定説でさえ覆されうるという自然の謎の深さであり、そのことを常に念頭において置かなければいけないということです。

そのような歴史的背景を知った上で以下のアドバイスを読むと、著者の言わんとしていることが分かると思います。

ひとつだけ、おまけの豆知識を加えるとしたら、現在の日本で食品添加物や残留農薬が食の安全にとって問題だと言っている専門家は信頼するに足りません。それ以上その人の書いたものを読んだり話を聞いたりする必要はありません。結局のところこれさえ食べれば(あるいは食べなければ)病気にならないとか長生きできるというような魔法の健康食品や健康法は存在しないし、一〇〇パーセント悪いだけの食品もないという平凡でつまらない事実しか残らないのです。

(本書 p.193)

例えば環境ホルモン問題でビスフェノールAのエストロゲン様活性が問題視され、事実上その使用が控えられるようになりました。しかしながら、実はよりエストロゲン様活性の高い物質が溶出するビスフェノールAなどと比べものにならないくらい大量に摂取しているのです。それは大豆イソフラボン。大豆に含まれていて骨粗しょう症予防などで健康によいとされている成分です。ということで、環境ホルモン問題を気にされている方に置かれましては、納豆、豆腐を食べたり食べさせたりすることは控えることをおすすめします(棒読)。(本書 p.171)

食品添加物の毒性をどのように評価するかについて、第1章で「タマネギがもし食品添加物だったら」とみなして安全性評価を行うとどのような結果になるか(本書 p.34)を解説しています。生タマネギを食べると激しい胃痛胸焼け症状を発症する私としては、単なるたとえ話ではないのですが(苦笑)。ちょうどタマネギをラットに長期間投与して長期毒性試験を行った結果が報告されており、その結果に基づいて現在標準的に使われている安全性基準の一つであるADI(一日摂取許容量)を計算しています。長期間タマネギを投与して病理学的検査を行ったところ、病理学的影響が見られないNOAEL(最大無作用量)は50mg/kg体重と求められました。これに対して、ラットとヒトとのあいだの種差をについて10倍、ヒトの個体差に関して10倍の安全係数を見込んであわせて100倍の安全係数を用いるという標準的な計算に基づいてNOAELからADIを求めると50/100=0.5mg/kg体重/日という基準値が求められます。体重60kgとすると1日にすべての料理を通して摂取しても良いとされる量は僅か30mg(!)になります。gではなくてmgです。ということで、添加物の安全性評価手法を用いてタマネギの安全性基準を求めると、実質的にタマネギは食材として使うことはできなくなります(苦笑)。

では、健康的な食生活とは何か、ひとことで言うと「バランス」です。

それでは健康のために食生活上で注意すべきことはなんなのでしょうか。これについての世界中の保健担当機関の見解は一致しています。多種多様な食品からなるバランスの取れた食生活を送ること、です。

(本書 p.179)

本書でも紹介されているのですが、農林水産省が「食事バランスガイド」というものを作成しているので、バランスの取れた食事とは何か見てみるのも良いかもしれません。

健康食品で健康になろうとする場合、「特定のものを一定量以上毎日食べる」という事態になります。そのこと自体が「多種多様なものをバランスよく食べる」という、現在世界中で推奨されている最もリスクの少ない食生活の有様とは矛盾するものです。

(本書 p.180)

たとえ天然ものであっても、育成中、保存中、輸送中に汚染事故が起きる可能性は排除できません。その時、特定の食品を大量に摂取していた場合、摂取量が中毒症状が出る量を超えるリスクは当然高まります。言ってみれば、特定の食品だけを食べるよりも、バランスよく食べたほうが、結局安全で安上がりということです。まあ、個人にも選択の自由がありますから、理解した上でなおかつポリシーに基づいた行動を取るというのは尊重しますが。

出版社のサポートページに関連サイトの一覧が有りますので、さらに深く知りたければ各サイトにあたってみるのもいいですね。

2010/07/27

ジェイソン フリード、デイヴィッド・ハイネマイヤー ハンソン『小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則』

その仕事ぶりのごとく、万人受けしようなんて少しも考えていないことが、ジェイソン フリード、デイヴィッド・ハイネマイヤー ハンソン(著)『小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則』から伝わってきます。起業して会社を大きくしたいという目標を持つ方には正直おすすめできません。でも、会社の盛衰が就労可能年数より短くなろうとしている昨今、このような生き方、働き方もあるというのは知っておいたほうがよいかもしれません。

「小さなチーム」にしかできないこと、できないやり方に徹底的にこだわり抜いていることには共感を覚えますね。インフラ整備など「大きな会社」でしかできないこともあるのは確かなのですが、逆に「大きな会社」ではできないこともあります。なぜかというと、「着手するには小さすぎる」ことです。数兆円、数千億円の売上がある企業で、数千万レベルの話は稟議通らないか、「選択と集中」によって中止という運命を辿りがちです。どれだけ利益を上げていてもです。数十億、数百億の事業と比較されるわけですから。そして、社会の制度は大きな事業を運営するように出来ていますので、小回りもききません。このように書くとよくありがちな「大企業病」批判に見えますが、そもそも大人数の組織を全くの官僚制なしに経営することは事実上できません。人数が多くなれば多種多様な人々から構成されることになりますから、独自性の発揮と言っても限定されたものです。そして不特定多数の参加する株式市場などでは、自由に取引できるようにするために、出来る事、守らなければいけないルールが逆に厳格に決まっています。37signalsでは自らの企業文化を重視するために、敢えて企業規模の拡大そのものを目標とはしないというところには、職人精神を感じますね。

齊藤 誠『競争の作法―いかに働き、投資するか』

うまいゲームのルールを定めるというのは、結構難しいです。特に負けても納得出来るようなルールを定めることは。下手なルールで競争させられると、実はルールに問題があったにもかかわらず、競争自体が門だなのだと思われてしまうこともあります。それ故、本来ルールメーカーになるべき人がその責務を放棄して競争のない状況を創り上げてしまうことさえあります。要はバランスの問題です。社会の競争を考えたときに、社会ダーウィニズム的主張による幾多の悲劇が、また弊害を解消すべく打ち出された福祉国家論が停滞を生むという、振り子のような歴史があります。現在の閉塞感あふれる状況に対して、経済学者による様々な著書が出版されていますが、齊藤誠(著)『競争の作法―いかに働き、投資するか』は、下記の引用にあるように、資本主義を否定するのではなく、資本主義の原点に立ち返ろうというものです。

本書では、資産価格バブルの時代のように誰も幸福に出来ないものに富(豊かさ)を投じてしまうことをバーチャル(virtual、仮想的な)なものとして、幸福をしっかりと支えるために富を活かしていくことをリアル(real、現実的な)なものとして、今の日本社会を捉え直してみたい。

(本書 p.8)

第1章「豊かさと幸福の曖昧な関係」では、「戦後最長の景気回復」と言われていたものは、勤労者にとっては何だったのか、またリーマンショック後の危機は何だったのかを、『国民経済計算』と『家計調査』から読みといています。『家計調査』の動向を見ると、結局のところ「実感なき景気回復」と呼ばれたのも当然で、回復期において勤労者世帯の消費水準指数が1.7%減少したことから分かるように、勤労者にとっては逆に悪化する傾向にあったことが示されているとしていています。

第2章では、なぜ「戦後最長の景気回復」と呼ばれる現象が起きたのか、著者はこれを「目に見える円安」と「目に見えない円安」の2重の円安によるものであると分析しています。「目に見えない円安」とは、外国の物価水準に比べた日本の物価水準の相対的な低下のことを指しています。そして、二重の円安の恩恵により輸出企業は大きく業績を伸ばすことができたのですが、金融危機による二重の円安の解消により、より大きなダメージを被ることになったとしています。「目に見えない円安」の原因を著者は日銀の量的緩和政策に求めているのですが、この因果関係については激しい論争になっているので私自身はコメント控えます。

第3章は不平等は進んだのかとう議論ですが、全体としては不平等が進んだとはいえないが、ごく一部にすべてのしわ寄せが行く形で貧困化が進んだのが問題としています。特に最近問題になっている世代間の不平等の問題に対しては、中高年層は一歩引いて若年層にチャンスを与えろという立場です。正直言って、企業の盛衰が人間の一生よりも短くなりつつある現在では、企業に福祉の役割を担わせようというのは無理があると思っています。非正規労働を非難し、正社員化を推進しようとする方々って、その言葉と裏腹に企業に対する信頼がほんとうに厚いんだなと感じるわけなのですが。

では、「競争の作法」とは何か、そのヒントを中島敦の『山月記』と、坂口安吾の『堕落論』の中に求めています。本書中で引用されている部分を、青空文庫から引いておきます。

人間であった時、おれは努めて人とのまじわりを避けた。人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。実は、それがほとん羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによって益々ますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己のっていたわずかばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をもさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句をろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょう危惧きぐと、刻苦をいとう怠惰とが己のすべてだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己はようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸をかれるような悔を感じる。

中島敦 山月記 - 青空文庫

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾 堕落論 - 青空文庫

この文を踏まえて、著者は現在の日本の状況を次のように評しています。

「失われた10年」は、これまでのシキタリやありきたりの屁理屈に必死にしがみついて「正しく落ちる道を落ちきること」が出来なかった10年間でなかっただろうか。

「戦後最長の景気回復」は、他人(政府)の施した「上皮だけの愚にもつかない物である」経済政策に救いを求めた69ヶ月間であったのではないだろうか。

(本書 p.227)

『山月記』の文章は、私自身にとってもグサッとくるものがあります。資産とは、アウトプットを生んでこそ意味があるもの、持っているだけでは意味が無いというのは分かってはいるんですけどね。また、中島敦とは対照的な坂口安吾の『堕落論』にあるように、見栄を捨て切って最後に残る自分自身にとって核の部分は何なのか。自分自身を見つめ直す、本気でやろうとすると精神的に本当にきついです。どうしても逃げたい思いにかられてしまうということ、生きていく意味あるんだろうかと思ってしまうことがあります。それに立ち向かうのが競争の作法であるというのが著者の次のような主張です。

このようなことを吐露してしまうと経済学者失格なのかもしれないが、資本主義社会の競争原理は、社会を超えたところに立っている人間が善悪について考えた倫理によって葬り去るのではなく、社会の中にあって追い詰められた人間が編み出した美学と道徳によって守り切るべきなのではないだろうか。

(本書 p.227)

いえ、十分に経済学者らしい意見です。自立、自助は確かに理想。でも残念ながら人間は完全に自立できるほど強くないからこそ集団を作って生き残りを図ってきた歴史があります。競争と協調のパラドックを当折り合いをつけるのか。社会における競争を、「単一の物差しで勝ち負けを決めること」とするのは不適切かもしれません。進化において「勝利」とは「生き残ること」です。ある点で優れていることが必ずしも生き残りにつながらないことは古生物学における発見が示しているところ。「優れていること」が、優秀さを測る物差しの前提条件を崩してしまって、結果として絶滅に向かうのはままあること。勝利を重ねることが逆に自らの首を閉めてしまうというのは皮肉なことです。単一の評価軸に基づいて殆どの人々が突き進んだとき、その先には危機が待ち構えています。どこまでも前提条件が成り立つというのは現実的ではありません。どこに壁があるかは実際に危機的状況が起きかけて初めて分かるんですけどね。もちろん自ら壁を作ってしまうことで成長の機会をフイにしてしまうこともあるのが難しいところ。

では個人としては何をすべきなのでしょう。凡庸ではありますが、「自らの分を果たす」ということなのかな。

2010/07/24

ウィリアム・パウンドストーン『プライスレス―必ず得する行動経済学の法則』

あるもの、ことの真の「価値」をどのようにして知ることができるのか、また価値が分かったとしてもそれから妥当な評価額(価格)を求めるのことができるのか、現実の問題としてずいぶんと悩んだことがあります。情報システムのガバナンスとかリスクマネジメントをどうするのか検討をすすめると、そのへんの問題をどのように処理するのが現実的か考えなければいけなかったのですが。また、技術研究に対する投資判断をするときも、そのあたりの問題をどのように説明したら良いのか考えさせられます。金銭的に評価するとはなんだろうと考えたときに思ったことは、「すべてをお金に置き換えて考えることはできる。でも、出された評価額について妥当性とか普遍性は全く保証されない。」ということです。結局すべてを価格に置き換えて考えるのはあまり現実的ではないというところに落ち着いたわけですが。このあたりは、Robert S. Kaplanが、「activity-based costing」から「balanced scorecard」へと至った背景を知ると、何が問題なのかよく分かります。

そのようなことをつらつらと思い出しつつ、ウィリアム・パウンドストーン(著)『プライスレス―必ず得する行動経済学の法則(原題:Priceless: The Myth of Fair Value (And How to Take Advantage of It))』を読むと、その時考えていたことの基礎となる話がいろいろ出てきてなるほどなあと思うところがいろいろ。まあ 邦題にある「必ず得する」という表現いかがなものよとは思いましたが。まあ原題で括弧付きで「How to Take Advantage of It」というところを誇張して表現するとこうなるとは思いますけど。でも、主題はあくまでも「The Myth of Fair Value」です。

Fair value(公正価値)という言葉は、合理的で一般的に妥当だと考えられる価値です。国際財務報告基準IFRSでは良く出てきますし、昨今発生した金融危機では、デリバティブの公正価値について問題になりました。そして、そのような公正価値というものは本当のところありうるのかというのが本書の主題となっています。そして、副題が「The Myth of Fair Value」となっているように、公正価値という概念に対していろいろな疑問を突きつけています。

行動決定理論でもっとも答えにくい問は、人は本当は何を求めているのかである。価格選択が真の価値を映していると前提することは出来ない。問題は、この問そのものにあるらしい。そこでは、はっきりと定義されていて文脈に左右されない「真の価値」があるという、架空の正確な心の働きが前提されている。実際にはそうではないことを示す証拠が次々と重ねられている。選好逆転(広い意味での)こそが、人間の姿なのだ。

(本書p.408)

「真の価値」という概念がどれだけ根拠に乏しいかということを端的に示したのが、かの有名な「マクドナルド・コーヒー事件」です。製造物責任法を制定する動きの中で、制定に反対、または内容を制限する論拠としてよく取り上げられたことで、日本でもよく知られている事件です。そのような背景があるので、日本ではその背後に存在する事情までは伝わっていなくて、曲解されているところもあるようですね。初めは、11,000ドルの治療費ことから20,000ドルの賠償額を請求したのが発端です。賠償請求できるかはおいておいて、交渉の過程で減額されることを考えると当初の提示額は常識の範囲内と言えるでしょう。原告側の過失に過ぎないとしか思えない当事件で賠償請求となったのは、高額な治療費の支払いに窮して賠償請求に走るしかなかったという話が、最近の米国医療制度改革の議論の中で出てきて、なるほどと思いました。ここで、治療費±α程度の額で妥結できていればこのような大事件にはならなかったのですが、マクドナルド側の回答は治療費の額から程遠い800ドルというもの。そこで、結果として世間から大きな注目を集めることになる訴訟へと向かうことになりました。そして、本事件の原告側弁護士の使ったある心理学的な手法が大きな効果を発揮して、陪審員が高額な賠償金額を支払いを命ずる判断へと向かわせることになりました。

陪審はまるで催眠術にかかったかのように、二九〇万ドル近くの賠償金をリーベックに与えた。補償的損害賠償が一六万ドル、さらに懲罰的損害賠償が二七〇万ドルだった。陪審が判断をくだすまで四時間かかった。伝えられるところでは、九六〇万ドルの賠償を認めるべきだとする陪審員が数名いて、他の陪審員たちがそれをなだめなくてはいけなかったのだという。

たいていのアメリカ人もそうだったが、裁判官のロバート・スコットも、陪審の出した損害賠償額は常軌を逸していると考えたらしい。懲罰的損害賠償は、ばっさり四八万ドルに減らされた。

(本書 p.13)

ここで使われた心理学的手法とは、アンカリングという認知バイアスの一種を利用したものです。アンカリングとは、ある数値を推測する問題において、この問題に全く無関係な数値を事前に提示しておくと、推測される値が本来無関係なはずの数値に引きずられる現象のことです。アンカリングについて実験を繰り返した結果、常識的考えて妥当とは思えない数字を提示してさえ効果が現れることが示されています。

  • サンフランシスコの平均気温は華氏五五八度[摂氏二九二度]よりも高いか低いか。サンフランシスコの平均気温は何度くらいか。
  • ビートルズのレコードでトップテンに入ったものはいくつあるか。一〇万二五曲を超えているか、それとも一〇万二五曲までは行かないか。次に、ビートルズのレコードでトップテンに入ったのは何曲か。

(本書 p.25)

このような常識的に考えてありえない数字にさえアンカリングが効果を発揮しました。つまり、この非常識な数字に引きずられて高めの数値を推測する結果が得られました。そして、第3章「ブーメラン効果」の冒頭での研究成果で示されているように、賠償額認定においてもアンカリングが有効であることが実際に確かめられています。この事件が起こる前は「ブーメラン効果」というものがあると広く信じられていて、法外な賠償額を要求すると原告側は欲深いように思われて、まともな賠償額を請求した場合よりも低い金額しか認めないとされていたとのことです。それが、実はアンカリング効果のほうがより大きく影響することが分かってきて、「ふっかけたほうが得」という見方に変化してきたようですね。

モーガンは、リーベックがマクドナルドを訴えた裁判での陪審員たちに、うまく怒りを感じさせる気にさせた。その主張は二段構えになっていた。まず、マクドナルドのコーヒーは同業他社多数のものよりも熱かった。さらに、マクドナルドは、リーベックのけがの程度に鈍感だった。訴訟が懲罰的賠償の話になった段階で、モーガンはマクドナルドの全世界でのコーヒー売上高の一日分か二日分の罰金を課してはどうかと陪審員に提案した。なにも、陪審員が正確に計算できると期待していたわけではない。モーガンは、マクドナルドのコーヒーの売上高は、一日あたり約一三五万ドルになることを伝えた。

(本書p.35)

まず、第一段階で懲罰的損害賠償を認めるべきだということを陪審員に認めさせています。そして、第二段階で懲罰的賠償額を決める段階で問題になるのは、懲罰としていくら課すのが妥当なのか、具体的な金額を決める公式など存在しないということです。そこで重視されるのが原告側弁護人の示唆です。この段階で巧みにアンカリング効果が使われたことが高額な賠償請求額がでた最大の要因となりました。なぜ、全世界のコーヒー売上高の一日か二日分なのでしょうか。この数字の妥当性をいくら考えても、納得出来る答えは出ないでしょう。でも、アンカリングとしては十分な影響力を発揮しました。結局のところ、「内面の価値を価格に変換するとき、人は文脈に大きく影響される」ということです。そして、文脈に依存される現象について、機械的なルールの適用では処理しきれ無いのは良く知られている通り。そして、意識決定の問題として取り扱わているものの多くは、文脈に依存しています。

アダム・スミスの著作として、『国富論』はよく知られていますが、『道徳感情論』の方は『国富論』ほど知られているとは言えないでしょう。そして、「共感」を説く『道徳感情論』と、「利己心」を説く『国富論』のあいだの矛盾、いわゆる「アダム・スミス問題」が議論されています。私としては、矛盾しているとか、転向したとは考えていません。人間の中に「共感」という感情が基盤としてあるからこそ、「利己心」に基づいて行動したとしても「矩を踰えず」に、社会としての公正さが実現できるということではないかと理解しています。本書に出てくる最後通牒ゲームの研究成果こそが、『道徳感情論』で説かれた内容を裏付けているように思えます。経済合理性からは、最小限の金額しか相手に与えないことが合理的であるのに、なぜある程度公平な金額を提示するのか。まさに「胸中の公平な観察者」の働きでh無いでしょうか。

第12章「合理性崇拝」を読みつつ、経済に関する議論では、何を意味して「合理性」、「合理的」という言葉を使っているのだろうかという普段から感じている疑問を思い返していました。「集団としてみたときに個々のエージェントがあたかも合理的に行動しているように見える」という経済合理性の問題と、「取引をする上で個々人がどのように行動するのが合理的か」という問題は、本来全く別の問題なのですが、混同して議論するために不毛な言い合いに発展してしまう光景がしばしば繰り広げられます。専門家は、素人から議論を持ちかけられた場合、あくまでも自分の専門内だけの問題として捉えて議論しようとする傾向が見受けられます。本来別の枠組みで議論したほうが良いことをきっちり切り分けて、外れているところについては他の専門家に任すことにすればいいと思うのですがね。自らの専門内だけで解決策を議論していて、実現に向かうと大いにはまるか、ハマることになるだろうなという事例がいくつか。前提をおいた上で明確な理論を構築することが学問だとすれば、その前提が成り立つかというのが問題になるのが実践の場です。制度改革で残念な結果に終わるのは、保管する制度の改革が手付かずだったという場合がままあります。専門家サイドに厳しい話が続きましたが、専門家がその問題は専門外と正直に表明しても、議論を持ちかけた方は話をはぐらかされたように感じて不信を抱くこともまた見受けられます。専門分化した現代の知識体系の中では、どのような専門性を持った人に聞くのか見極められるというのも重要なポイントです。

本書の締めの文章、なかなか洒落た事例が取り上げられています。

行動決定理論の研究者たちは、何年もかけて、より巧妙な選好逆転を創りだす方式を完成させた。シーの事例を紹介して締めくくりにしよう。二つの同じくらい高級なチョコレートのどちらかを選べる。ひとつは小さくてハート形をしている。もうひとつは大きくて、ゴキブリの形をしている。どちらを選ぶだろう。

この二者択一を学生や友人にやらせると、大半の人はゴキブリ形のチョコレートを選ぶことがわかった。ところが、どちらのチョコレートの方がうれしいですかと尋ねると、ほとんどの人は小さいほうだと答えたという。選んだのはハートの方なのだ。

(本書p.408-409)

「選んだのはハートの方」という言葉に二重の意味が込められているのがわかったでしょうか。感情と経済の微妙な関係がこの文章で表現されています。両者を無理に一つの評価軸で判断する必要など無いのではないでしょうか。GDPに「幸福」を加味すべきだという議論が起こったとき、それは勘弁して欲しいと思いました。なぜかというと、それは結局のところ何をどれくらい幸福に感じるべきかということを無理やり決めさせられることになるからです。せめて「ハート」の問題くらいは個人の手に残しておいて欲しいものです。

2010/07/22

タイラー・コーエン『インセンティブ―自分と世界をうまく動かす』

人間を動かしているのは欲望であるということは、古から知られている理であり、政治、宗教、経済など人に関わるあらゆる分野で、この欲望をどのように制御するかが課題とされてきました。人である限りはどのように清廉である人であっても、この欲望というものからは逃れることはできません。清廉な人であっても、マズローの欲求段階説における自己実現の欲求を消し去ることはできるでしょうか。まあ、欲望(want)と欲求(need)は違うという議論もあるかと思いますが、高次の話になるとその違いは微妙になると思います。まあ、宗教における戒律の問題を議論するときには欲望と欲求の違いは重要なポイントになるのかなとは思っていますが。どちらにしろ、この欲というものは宗教において中心的な問題となっていて、戒律を見ると多くは欲に関する項目です。一介の凡夫に過ぎない私には、この問題は難しすぎて謎がいっぱいです。仏教における悟りの境地に至れば心の平安を得られるというのはなんとなく分かっては来たのですが、そうやすやすとその境地にまで達することも確かです。私はというと凡夫として生きてそして死んでいくしかなさそうです。まあ、そのような凡人でも少しでもましな行動を取れるような指針は求められるわけで、この分野ではロングセラーが多数ありますね。

さて、経済学といいますと、欲を煽って煩悩をさらに深めることになる学問という印象を持たれているのではないでしょうか。まあ、確かにそのような側面もあることは否定しませんが、ごく普通の人が持つ欲と欲をうまく折りあわせるにはどうしたら良いのかというのが(少なくともミクロ)経済学です。そして、経済学において人を動かす力は具体的にはインセンティブです。タイラー・コーエン(著)『インセンティブ―自分と世界をうまく動かす』では、経済学におけるインセンティブに関する知見を応用して、各自が本来持っている「内なるエコノミスト」の働きを自覚し、どのようにすれば自分が、そして多くの人がより良い生活が送れるようになるか、著者の生活に基づいた事例によって解説しています。まあ、著者は「Marginal Revolution」という著名経済学ブログも運営している経済学教授ですから、若干「日常」というものが普通の人と異なっているのはご愛嬌です(笑)。

インセンティブの話をする前に、経済学における「お金・価格」、「効用・価値」とのあいだの微妙な関係を押さえていたほうが良いかもしれません。経済学でインセンティブの議論をするのだから、お金で報酬・罰金を与えることを指しているものと思われるかもしれませんが、本書で述べているのは、それが全てでではないということです。もちろん社会主義経済の失敗を分析すると、金銭的なインセンティブが有効であることも多いのですが。

本書第2章「世界をうまく動かす方法―基本編」では、子供に皿洗いをさせたい時に、「義務としてやらせることにするのか」、「小遣いを与えることでやらせることにするのか」、どちらが有効かという事例(本書p.21)が出てきます。この場合、義務としてやらせれば案外真面目にこなしてやらされた本人も義務を果たしたという満足感を得ることができますが、お小遣いを与えることにすればつまらない仕事ということになってしまい、サボりがちになってしまうというものです。この場合は金銭的なインセンティブはむしろ逆効果になっています。

またニューヨークの国連外交官が外交官特権により駐車違反をしがちだった問題(本書p.25)を例にあげて、人によって同じインセンティブでも人によって反応が異なることを示しています。そして、本書第4章「芸術を真に楽しむために「足りないもの」は何か?」で取り上げられている話題に関しては、正直万人が納得する普遍的な価格付けが出来るのが、甚だ疑問だというしかありません。

「お金」と「効用」の問題に戻ると、お金、つまり価格が提示されない場合でも、妥当な価格が決まっていないような場合でも、取引とみなせるものが現実社会では数多く見受けられるということです。そのような場合を含めて取引を分析するために、経済学者は欲求(need)を抽象化した効用概念を使って議論を進めています。この辺の事情をさして、「経済学ではお金が出てこない」と言っているのでしょう。そして、「効用」で議論しているのか、「お金」で議論しているのか、そのへんのすれ違いはよく見られる光景です。最近見られたのは次の議論でしょう。

効用概念を使うのは、本当のところ「お金とは何か」がまだ未解明だという事情のあるとは思いますけどね。

あと、インセンティブというと、相手に対して何らかの報酬を支払うというイメージが有りますが、逆に自分が余計なコストを掛けることで相手をひきつけるシグナリングという手法もあります。本書p.114に出ているように、自分には価値がないもので、相手には価値があるというものを贈ることなどですね。著者にとってはどうも単なる炭素の結晶に過ぎないダイヤモンドを妻に贈ると喜ばれるという話ですね。間違っても著者の趣味である『宇宙空母ギャラクティカ』のDVDボックスを送ってはいけないということです(苦笑)。本当に実行して罵倒を浴びせられたのかとても気になるところです。

そして、第9章「クリスマスプレゼントは世界を救うのだろうか?」で著者が言わんとしていることは、慈善活動で欲求を直接満たすことは逆効果にもなりうる。それよりも、自らが欲求を満たすことが出来る能力をみにつけせるようにすべきだということです。例えば、今も奴隷制度が残る地域において、奴隷を買い上げることは奴隷狩りをより活発にするに過ぎないとか。さらには慈善団体自体の経費で大方消えてしまって、肝心の援助に回る分は限られているとかかなり辛辣な批判を行っています。それよりもマイクロファイナンスで自立出来る能力を持たせるほうが有効だというのが、著者の主張です。もちろん、甚大な災害において、緊急援助の必要性を否定するものではないでしょうけど。

日本語の「市場」という言葉からは、「株式市場」のような具体的な市場を連想するかもしれません。でも、本来の市場の概念は、いわば自由に取引が出来る環境という、もっと幅広い概念を含んだものです。現実の制度として何らかの弊害が発生することは避けられません。でも、多くの場合において、他のやりたかよりもうまくいく仕掛けなのです。

文明の未来の基礎になるのは、謙虚さ、自己反省、高尚な価値観への信頼、日常における叡智である。できるだけ多くを手に入れることでもないし、できるだけ早く手に入れることでもない。文化が市場に頼ることが多いように、市場もまた文化的な基礎を必要としている。「内なるエコノミスト」は、実用的なアドバイスの源泉であると同時に、より大きな構図の中で、社会秩序を支えるのに役立つものでもある。一見すると、この本は日常生活について述べてきたと思えるかもしれないが、根底では自由な社会を維持し、拡大することについて述べているのである。

(本書p.303)

よく言われるように「市場自体は公共財」です。市場がどれだけうまく動くか、著者も述べているように公正な文化的基礎が存在することがあくまでも前提になっています。その必要については、不幸な改革の実例が示すところです。

2010/07/19

「リスクと不確実性」再考

『ブラック・スワン』ブームで注目を集めたリスクと不確実性の問題について少し考えてみました。少し前から、リスクを問題とした時と、不確実性を問題にした時で、実は問題の枠組みが違っているのではないかという疑問をいだいています。リスクというのは基本的にはある集団で起こりうる傾向性の問題であり、不確実性はある個にとって将来起こりうる可能性の問題なのではないでしょうか。この問題、反対売買などで容易に取り消し可能な事象に関する問題ならば、その違いははっきりしません。それに対して、「死」といった取り返しの付かない事象が発生する場合に、その問題の枠組みの違いが表面化するのではないかと考えています。つまり、可逆的な事象なら同じ枠組みで考えてもいいけど、不可逆な事象ならリスクと不確実性について別な枠組みで問題を考えなければいけないのではないかということです。

こんなことを考えたのは「自己決定権、親権の及ぶ範囲、医療専門職による説明義務を考える - NATROMの日記」を読んで、リスクコミュニケーションの難しさを改めて認識したからなのですが。リスクに関する議論が医療機関サイドと患者サイドで咬み合わないのは、リスクコミュニケーションでよく言及されているようにその意味することが違うからなんですよね。例えば、「この手術は99.9%の成功率です。0.1%の確率で重篤な障害を残すことがあって最悪死に至ります。」という話があったとします。そして問題が発生してしまった場合、医療機関にとっては数多くいる患者の中において、不運にもまれに起こる問題が発生してしまった方という見方になるでしょう。あくまでも確率の問題です。でも、患者にとっては99.9%で起こることと、0.1%で発生すること、どちらが身に降りかかるかは大違いです。なぜ大きな違いになるかというと「取り返しが付かない」からです。つまり医療機関はリスクとして考えるのに対して、患者は不確実性として捉えます。同じ数字を違った問題として考えているのに気づかない場合、リスクコミュニケーションの障害が起きるのではないでしょうか。

このあたり、まだ生煮えなので見当違いかもしれませんが。でも、個体についての問題なのか、群集についての問題なのか、区別つけられていない議論を見かけるので気になっているんですよね。生態学/生物学とか、統計学とかではこの区別を明白にして議論しないとツッコミが入るのですが。そういえば、『ブラックスワン』、『まぐれ』と基本的に同じだなあとおもって通読になっていたような。今さらですけど読んでみようかしらん。

2010/07/17

金井 良太『個性のわかる脳科学』

脳の構造から個性が分かるというとどうしても骨相学を連想してしまいますが、VBM(Voxel based morphometry)という手法によって構造と個性の関係が徐々に明らかになってきているようですね。脳の一般的なメカニズムではなく、個性、社会性という面に関して現在の脳科学はどこまで迫れているか、金井良太(著)『個性のわかる脳科学』で解説されています。

現在の脳科学はfMRIに代表される機能面から見た研究の進歩に注目が集まりがちですが、VBMのような構造面の研究も結構進展しているんですね。確かにイメージング技術が進展して、昔なら死後に解剖するしか構造の違いを分析できなかったのが、現在では非侵襲的な手法が普及していますから当然といえば当然ですけど。相貌失認といった明白な機能欠如と脳の構造との関連が分かってきただけでなく、外国語学習能力の個人差とか、社交性、衝動性、不安度などの正確に関わる要因に関しても脳の構造との関連性の研究にも進展があるようです。現在は質問紙によって行われている性格特性検査も、脳の機能、構造分析により的確な判別ができるようになる可能性を示唆していますが、受ける側に回ったと考えると何となく抵抗感もあるのですが。ただし、人間が個人の性格や能力を一心で見抜く能力(thin sclicing)は優れたものがあって、現時点でVBMによる構造解析が熟達者の直感を上回るまでには至っていないようなので、就職にあたって脳分析を要求される時代はまだまだ先のようです。

脳を刺激して反応を見るという実験、昔は脳外科手術を受ける患者さんに協力してもらって、開頭手術後に電気刺激を与えて反応を見るしかなかったのですが、現在ではTMS(Transcranial magnetic stimulation)tDCS(Transcranial direct current stimulation)という手法によって、非侵襲的に脳のある部位の活動を抑制したり活性化したりすることができるようになっています。これによって、特定の遺伝子を欠損させたノックアウトマウスや、特定の遺伝子を導入したトランスジェニックマウス等大変手間のかかる技術を用いなくても、機能欠損や機能亢進の状態を作り出すことができるようになったのが、研究をすすめる上で大きな進歩につながっているようです。人間に対しても実験を行うことが出来ますし。実際、TMSによってサヴァン症候群と同様な能力を再現することに成功したそうです。ただ、TMSは大掛かりな装置が必要で簡易に利用することが出来ないのに対して、tDCSという微弱電流を流す方法では、自作できるくらい簡単に制作できるようです。tDCSでは、抑制と活性化の両方の実験ができるのもメリットです。この技術を発展させれば人間の知性を拡張できる夢の世界が来るのでしょうか。問題は脳について未解明な部分がまだまだ多いということです。持続的に活性化、抑制することで予想もしなかった副作用が生じる恐れもあります。この点について、著者も次のように警告しています。

もっとも人間が生活する環境は、生物として人間が進化する速度よりも速く急激に変わっているため、必ずしも今備わっているバランスが誰にとっても適切とは言えないかもしれない。でも、われわれは多くの場合、一般的に好ましいと思われる能力の裏に何らかの別の能力が隠れているということを知っておかなければならない。

(本書 p.56-57)

「睡眠=休息」と考えると、眠らなくて済むのならより活動できる時間が増えるのにと思ってしまいますが、睡眠は休息を取るだけでなく学習などにも重要な役割を果たしているという研究結果が第6章「睡眠の効用」で解説されています。学習後に睡眠をとることで記憶が定着するという研究結果にはよく言及されますが、睡眠不足が記憶に与える影響について面白い研究成果が紹介されています。UCBのM. P. Walkerらの研究で、睡眠不足で記憶力が低下したとき、一律に記憶力が低下するのではなく、ネガティブな感情に関する記憶は睡眠不足でもあまり低下しないという結果が得られたということです。つまり、睡眠不足が続くと嫌な記憶ばかりが残ってしまい、精神的に疲れてしまうということです。

あと、同じくM. P. Walkerらは、睡眠はインスピレーションが働く源にもなるというということも実証しています。この実験では、A>B>C>D>E>Fという隠れた順序関係がある構造について、A>Bという個別のペア構造だけを学習してもらい1、B>Dのような1次の隔たりやB>Eのような2次隔たりを推論できるかという実験です。2次の隔たりを推論する実験では、睡眠を取らない場合正答率は低かったのに対して、睡眠をとると高い正答率を示したそうです。睡眠とは何かにについてまだまだ未解明の部分が多いですが、その役割に関しては思っていた以上に奥が深そうです。

脳科学で個性を調べようとしたとき、最大のネックになるのは「そもそも個性とは何か」という問題でしょう。どれほど精密に脳の機能、構造を調べることができるようになったとしても、対応させるべき個性の定義が明確でなければ、得られたデータの活用には限界があります。知能検査において「知能とは何か」が問題とされているのと同じです。個性とは何かを議論しだすと何時まで経っても結論に至ることができそうにないので、本書で紹介された技術がさらに進歩したとしても、その適用限界を理解しつつ活用することになるんでしょうね。

2010/07/16

赤根 敦『DNA鑑定は万能か―その可能性と限界に迫る』

足利事件において、DNA鑑定は不幸にも冤罪を生んだ一因となってしまいました。その一方、再審においてその冤罪を晴らしたのもまたDNA鑑定です。裁判員制度のもとでは、だれもが裁判員としてDNA鑑定結果について判断を迫られることが考えられます。ただ、足利事件のような冤罪事件があったことから、その信頼性について不安をいだいている方もいるでしょう。赤根敦(著)『DNA鑑定は万能か―その可能性と限界に迫る』は、法医学者として長くDNA鑑定の研究を続けてきた著者による、最新のDNA鑑定技術について解説されています。

DNA鑑定は微量のサンプルでも分析可能ですが、ひとえに簡易にDNAを増幅できるPCR法が開発されたおかげです。微量分析の場合、サンブル量が少なすぎて分析不能という結果になりがちなのが悩みの種なのですが、PCR法のおかげで微量のDNAサンブルを入手できれば、分析可能な量にまで増幅することができるようになりました。これで、DNA鑑定が実用化されたのも、PCR法の発明があってこそだと思います。

足利事件で当初使われていてたDNA鑑定手法では、同じ型を持つ可能性が1000人に対して1.2人とされていますが、最新のDNA鑑定手法では格段の進歩を遂げていて、現在の日本で使われている鑑定法のうち、「アイデンティファイラー」キットでは約5兆9000億人に1人、「パワープレックス16」キットでは約16兆人に1人だそうです。これだけの識別能力があれば、適切にサンプルが採取されていれば、一卵性双生児だったとかでない限り判別可能でしょう。

でも足利事件の鑑定に関する記述で気になる点があります。

菅谷さんの体液と下着に付着していた体液のMCT118(D1S80)のDNA型は、123ラダーマーカーを用いいて判定され、16,26型で一致した。血液型も一致し、別人と偶然一致する確率は1000人中1.2人程度だった。

(本書 p.178)

ここで引っかかった文言は、「別人と偶然一致する確率」というところです。問題とすべきは、DNAサンプルがある型と偶然一致する確率ではなくて、現場で採取されたDNAサンプルが容疑者のDNAサンプルと偶然一致する確率ではないでしょうか?この問題、誕生日問題と同じ構造をしています。

誕生日のパラドックス(たんじょうびのパラドックス)とは「何人集まればその中に同じ誕生日の人がいる確率が50%を超えるか?」という問題から生じるパラドックスである。普通に考えれば365日の半分、だいたい180人前後と考えるが、答えは23人である。直感的な答えよりもずっと少なくはないだろうか。 誕生日のパラドックスは論理的な矛盾に基づいているという意味でのパラドックスではなく、結果が一般的な直感と反しているという意味でのパラドックスである。

誕生日のパラドックス - Wikipedia

n人の中で同じ誕生日の人が少なくとも2人いる場合の確率は、

という式で求められるので、n=23の時にp=0.507となって、同じ誕生日の人が入る確率が50%を超えることになります。

誕生日問題として、「n人の部屋にあなたが入ったときに、"あなた"と同じ誕生日の人がいる確率はいくつか」というのを考えたとき、これは他の人全員が"あなた"と誕生日が異なる確率を1から引けばいいので、

となります。ここで先程のDNA鑑定結果が一致する確率を、現場で採取されたDNAサンプルが容疑者のDNAサンプルと偶然一致する確率として定義しなおすと、実はこの問題と同じ形をしていて、容疑者となりうる人数をnとすると、

となります。ここで容疑者となりうる人数というのが難しいのですが、容疑者として直接浮かんだ人数ではなく、犯行可能な人数ですからより大きな数を想定することになります。実際計算してみると、n=100でp=0.113、n=1000でp=0.699にもなります。この定式化では、犯行可能な人数を1000人としたばあい、偶然一致する確率は70%にもなります。つまり、偶然に一致する確率が1000人に1.2人というのが、あるDNA型に合致する確率であるとすると、現場に残されたDNAと容疑者のDNAの型が偶然合致する確率というのは、考えられているよりもずっと大きいのではないでしょうか?もちろん、最新の鑑定法で16兆人に1人くらいになると、この問題は考慮に入れなくても良い程度の確率になりますが。足利事件はDNA鑑定法の黎明期における不幸な出来事だと思います。

もちろん、DNA鑑定法が格段に進歩したとは言え、本書第6章「DNA鑑定は万能か―その限界と問題点」で触れられているように、限界もあります。

まず、技術的な問題点としては次の点を指摘しています。

  • DNAの分解による誤判定の可能性
  • 加熱によるDNAの分解
  • 体内の成分による試料の汚染
  • 体外の成分による試料の汚染
  • 汚染物質や分解したDNAの除去法
  • 外来DNAによる汚染
  • 混合斑痕の検査結果の解釈
  • スタターピークの影響

技術的な限界に対して著者は、

結局、通常用いている検査法でDNA鑑定ができない場合は、無理に手を尽くしてなんらかの結果を得るよりは、「鑑定不可能」と早々に結論を出したほうが無難と言えるでしょう。

(本書 p.190)

と書いていますが、かつて微量分析を行っていたものとしても全くもって同意するしか有りません。その結果で人の人生が左右されてしまうのであれば、なおのこと無理は禁物だと思います。

そして、分析には必ずデータの解釈という作業が伴います。ここにも思わぬ落とし穴があります。そのひとつとして、鑑定人の期待によるミスリードの可能性です。鑑定人が捜査官の期待に応えようとしすぎるあまり、微妙な結果でも安易に「可能性が高い」という表現を鑑定書に使ってしまう場合です。また、結果だけを示す鑑定書では、その鑑定の確信度が読み取られませんから、裁判官や裁判員の心証が偏ってしまう可能性も指摘しています。

さらには、刑事裁判の場において、警察官、検察官、裁判官、裁判員、弁護士が、専門的な内容の鑑定書を的確に解釈して判断できるのかという懸念を指摘しています。結局DNA鑑定とどう付き合えばよいのでしょうか。結局のところ著者による次の言葉に尽きると思います。

どんなに科学技術が進んでも、最後に判断するのは人間です。その点を理解したうえで鑑定結果に接しないと、思わぬ冤罪がふたたび発生してしまうことを避けることは出来ないでしょう。

(本書 p.204)

2010/07/14

鈴木 亘『だまされないための年金・医療・介護入門―社会保障改革の正しい見方・考え方』

「強い社会保障」って本当のところうまく行くのという疑問をユーモラスに突いた「「強い社会保障」で村おこし - SYNODOS JOURNAL - 朝日新聞社(WEBRONZA)」が注目集めていましたね。お金が滞っているのなら、滞らせているところからお金が流れるようにすればいいのではという着眼点はそれはそれでありだとは思いましたけどね。でも、提案内容があまりにも漠然としていて、いざ実現しようとしたときに狙ったとおりになるのか疑問を拭いきれ無いというのが、私も含めた大方の反応のようで。この記事を読んで、未読だった鈴木亘(著)『だまされないための年金・医療・介護入門―社会保障改革の正しい見方・考え方』を読んでみました。

年金・医療保険・介護保険に関わる制度を、あくまでも社会保険としての現行の枠組みを最大限尊重しつつ、制度の持続可能性、世代間の公平性を確保しようとするのなら、本書で提案されたような賦課方式から積立方式への移行を軸とした改革を実行しなければいけないでしょう。

  1. 我が国の社会保障s財政の仕組みは、現在の高齢者を、現在の現役世代が支えるという「賦課方式」であり、わが国のように少子高齢化が急速かつ大規模に進む中では、現役の負担がたえきれないほど高くなり、世代間不公平も深刻化します。
  2. しかも、わが国が直面している少子高齢化は、現在はまだほんの序の口にすぎません。今後、数十年にわたり、現在とは比較にならないほどの高負担に耐えてゆかなければならなくなります。
  3. この少子高齢化の進行を少子化対策で解消することはほぼ不可能です。また、超少子高齢化社会の到来はほぼ確実な未来像です。したがって、私たちは、少子高齢化の進行を前提に、「少子高齢化とともに生きる」道を探らなければなりません。
  4. これに対して、現在までに行われてきた改革は、いずれも、その場しのぎの対症療法であり、問題を先送りしているに過ぎません。しかも、この対症療法は、医師不足や介護人材不足、介護における「措置への先祖帰り」など、すでに副作用が深刻で、今後打てる政策手段も手詰まりの状況に陥っています。
  5. さらに、現在行われている改革や改革論議は、いずれも財政問題への本質的対処を避けるものばかりで、改革の実効性がない無意味な改革か、問題を先送りするばかりのものです。

(本書 p.228-229)

上記の問題を解決し、特に世代間の公平性を確保するために現在の賦課方式から積立方式への移行を提唱しています。そして、積立方式への以降に関する次のような疑問に対して反論しています。

  • 「二重の負担があるから積立方式に移行できない」 一旦国が年金債務を負担することとして、将来世代にわたって徐々に負債を解消していく方式を提案しています。国が年金債務を負担すると言っても、新規に国債を発行するのではなく、既存の年金の積立金をその財源にあてるとしています。
  • 「積立方式は個人勘定なので、保険機能を持たない」
    積立方式と言っても、自分の老後の生活費を自分で積み立てておく「個人勘定」ではなく、自分の世代の老後の生活費を、自分の世代が若い頃に積み立てておく「世代勘定」を提唱しています。世代勘定の中でリスクが相殺されますから、保険機能果たすことができるとしています。
  • 「積立方式はインフレに弱い」
    インフレになると、積立金の価値が目減りしてしまうおそれに対しては、インフレになれば長期金利文字上昇することから運用をしっかりすれば資産価値の目減りを防ぐことができると主張しています。

こうして見ると問題のないように見える積立方式の移行ですが、私にはどうしても引っかかるところがあります。それは、「巨額の年金基金を、長期的に現在想定している予定運用益利回りで運用できるのか」という点です。確定給付型の制度を維持する場合、長期債務を短期運用でやりくりする事になりますから、昨今起きたような金融危機で基金に大きなダメージを受けた場合、予定された運用益利回りに基づく給付が不可能になる可能性があります。そもそも、今回の金融危機も、運用難に陥った基金が高利回り商品を求めた結果だという指摘もあります。結局、長期的には、物価連動国債の利率+α程度の運用益利回りしか、確定給付型の基金には求めることが出来ないのではないかと考えています。それか、本書では触れていませんが、確定給付型から確定拠出型への全面的な移行ですね。これならば、基金が維持できないという危険性は無くなりますが、当然市場動向によって給付額は変動してしまいますが。

では、私個人として望ましいイメージはなにかというと、「欧州における高齢者雇用の現状と政策」にあるようなデンマーク型に近いスタイルですね。基礎部分は生活保護、年金、失業保険を統合しして、ベーシック・インカムに。生活保護、年金の基礎部分、失業保険は個人の最低限の生活を支えるという目的は同じなのだから、バラバラの制度でいろいろ不公平感でるよりは、思い切って統合してしまっては。財源は消費税を主体とした税方式。消費税の逆進性が問題になりますが、定率で課税して定額で戻せば、逆進性の問題は解消できるでしょう。現在の2階部分以上は確定拠出型の積立方式へ移行。個人の一生より、企業の盛衰の方がややもすると短い経済状況では、確定給付型の企業年金とか共済年金とか維持できるのか疑問なんですよね。

あと、医療保険は積立方式よりも広域化が必要ではないでしょうか。市町村単位では保健として機能しているのか疑問です。ふるさと納税とか彌縫策とっても限界があるとおもうんですよね。後期高齢者医療制度も、広域連合導入が実は一番のポイントだと思っていますし。市町村合併を推進したのも、小規模自治体では現在市町村単位で運用されている医療保険、介護保険が運用できないというのも大きいでしょうし。