2010/08/31

ニコラス・G・カー『ネット・バカ―インターネットがわたしたちの脳にしていること』

昔自動車学校の教習で雨の日に運転することがありました。当然目の前を頻繁にワイパーが視界を左右に横切ることになります。もしワイパーの動きが気になるとしたら、それは視点が近くに集中しすぎている証拠であり、遠くまで観るようにすれば近くのワイパーの動きなど気にならないはずだと教えられました。また、同じドライバーでも、ベテランと初心者では、視点の動きが違うことが、アイ・トラッカーによる視点分析で明らかにされています。初心者は、視点をあまり動かさないのに対して、ベテランは常に視点を動かして危険を察知しようとしています。我々人類は、常に捕食者等の脅威の下で進化していましたから、辺り全体に注意をはらうことは、生存の上で必須の能力です。長時間極度の集中を図るということは、長時間無防備な状態に置かれるということでもありますから、ある程度文明が発達し、環境をコントロールすることにより身の安全が確保できるようになって初めて行えるようになった行為ではないではないでしょうか。適度に注意が分散している方が、どちらかと言えば人間にとって自然な状態だと考えています。

なぜ注意の問題を取り上げたかといいますと、ニコラス・G・カー(著)『ネット・バカ―インターネットがわたしたちの脳にしていること(原題:The Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains)』の主題は、インターネットという知的テクノロジーが、我々の知的能力の中でも、特に「注意」の面に大きな影響を与えているという問題提起にあるからです。邦題からは『ゲーム脳の恐怖』のネット版みたいな微妙すぎる印象を受けてしまっていて、ちょっと敬遠気味でした。『浅はかになる人達』のほうが原意に近いと思いますが、インパクトに欠けますよね…。読んでみると、ヴェブレン等のテクノロジー論や、マクルーハン等のメディア論とか、神経科学での知見から、ちょっと確証バイアスがみられるとはいえ論じているので、個人的な経験だけから批判する本と比べると、同意できない点もあるとはいえ興味深く読むことが出来ました。「ネット・バカ」という批判に対しては、「専門バカ」という批判を返すことができそうな(苦笑)。

テクノロジーが人間の行動に与える影響の見方について、テクノロジーの進歩が人間の行動を支配するという「決定論者」と、人間の意識的欲望を充足させる手段にすぎないという「道具主義者」という二つの立場を著者は提示しています。そして、著者の立場は、どちらか両極端で決まることは無いとはいいながら、「決定論者」よりの立場を撮っています。

政治学者ラングドン・ウィナーは次のように言う。「近代社会の経験がわれわれになにかを教えてくれるとしたら、それはテクノロジーが人間の活動に対する単なる補助ではなく、その活動、およびその意味を再形成する、強力な力でもあるということだ。」自覚されることはほとんどないが、我々の生活のルーティーンの多くは、我々が生まれる前から使われはじめたテクノロジーに規定されているのである。

(本書 p.73-74)

そして、思考に大きな影響を与えたテクノロジーの変化として、音声文化から文字文化への変化を取り上げています。そして、文字文化へ移行したことで常に音声に注意を払う必要がなくなり、文章の深い読み、そしてそれに伴う深い思索が可能になったと著者は論じています。音声文化と文字文化は言語学でも興味深い論議がなされていますが、著者は文字文化の利点を重要視しています。そして、コンピュータ、そしてネットというテクノロジーは、常に興味をひく情報を提示しつつけることで、文字文化によって培われてきた、深く読み、深く考えるという習慣が廃れ、浅く読み、浅く考えるという習慣へと変化しつつあることに警笛を鳴らしています。まあ、人間は本来適度に注意を移動させるものですから、ネットみたいな環境にさらされると依存症と言えるくらいハマるのは自然な流れかもしれません。そして「深く考える」というのも、イデオロギーの暴走がどれだけ悲惨な事態を引き起こしてきたかを考えると、無条件では賞賛できません。とはいえ、文明の発達は深く考えることによって成し遂げられたのは確かです。問題は、注意の移動が出来ない自閉から、注意を固定できない多動のあいだのスペクトルのどこかに、適切なポイントがあるのでしょうが、ネットという新たなテクノロジーを前にして、その適切なバランスが見出されていないということなのでしょう。

ネットの普及も相まって溢れかえっている情報にどのように対処するかについて、「注意」という点に着目した分析には全く同感です。たまたま最近知能についていろいろ読んだりしていたのですが、情報洪水に対処するには、スマートドラッグなどのように記憶能力とか処理能力のエンハンスメントを図ることよりも、適切な注意の制御能力を身につける方がより重要だろうというと考えています。そのように読み返してみると、基本的には著者に同意できる点の方が多いのですが、やや同意できない部分があるとしたら、著者がテクノロジー決定論者寄りなのに対して、私はそれよりは道具主義者よりだからでしょうか。

2010/08/27

ウィリアム・バーンスタイン『華麗なる交易 ― 貿易は世界をどう変えたか』

グローバリゼーションは、交通・通信手段の発達した近現代に特有の現象であると思っている方もいるかも知れませんが、その範囲の大小に違いこそあれ、文明が始まって以来度々急激に進展している現象です。交易を重視する帝国が出現したとき、または宗教、文化などに裏打ちされた交易ネットワークが成立した時です。ただし、グローバリゼーションが常にメリットだけをもたらすものではないことは、歴史上何回も繰り返しみられます。

古くはローマ共和国がカルタゴを破り、地中海の支配権を獲得しつつある時代。塩野七生氏の『ローマ人の物語〈3〉― 勝者の混迷』で描かれている時代です。穀物貿易が盛んになることで、大規模農園を営む富裕層はさらに富を増やす一方、市民の中核をなしていた自営農層は輸入穀物と戦争の負担により無産階級へと転落するという、近現代でも見られる負の社会現象が起こっていました。その問題に対して救済措置をとろうとする勢力と、それに反対する勢力とのあいだで、暴動、弾圧という混迷を深めていく歴史が語られています。その後のカエサル登場、そして内戦と暗殺、そしてアウグスティヌスによる帝政へと移行することで秩序を回復することになります。多くの人はカエサル登場から帝政成立までの歴史に興味をひかれるかと思いますが、私が一番印象に残ったのはこの混迷を深めていく歴史が書かれた第3巻です。まさに、グローバリゼーションと反グローバリズムがせめぎあう現在の社会状況に類似を見いだせるので。そのような歴史機の教訓を学ぶと、単純にグローバライゼーションが進む状況を礼讃するのって、実はプロレタリアート独裁とかを夢見ているのか、「今回は違う」と楽観視しているのかどちらかなんでしょうね。もちろん反グローバリズムが最終的に戦争へと続いた歴史も知っていますから、反グローバリズムに与するものではありません。でも、グローバリゼーション推進派の楽観にも危惧を感じてます。結局、彼らの望むものと反対なものがもたらされるのではと。

ウィリアム・バーンスタイン(著)『華麗なる交易 ― 貿易は世界をどう変えたか』は、そのタイトルからは、グローバルな交易が以下に素晴らしいものであるかを礼讃しているように受け取っていましたが、実際読んでみると「どこが華麗?」と思うくらい、文明始まって以来の交易の歴史が明暗含めて淡々と綴られています。特にいわゆる「大航海時代」の記述を読むと、当時のヨーロッパ人の所業の数々がこれでもかと書かれていて、この本のタイトルに華麗という形容詞を用いたのは、『すばらしい新世界』のようなディストピア小説の流儀に習って付けられたのかと思はずには要られませんでした。

あと、第11章「自由貿易の勝利と悲劇」に、イギリスの穀物法を巡る話が出ているのですが、現在の日本の農業保護政策に関していろいろ考えさせられます。農家は自由貿易の被害者という主張が見られますが、そもそもその自由貿易で経済成長がなければ、国際価格に比べて極めて割高の農産物は買えませんから。農家自身の生活水準も経済発展の恩恵を被っている以上、一方的に被害者であるという主張には同意できません。参考になるのは、新大陸からの食肉の輸入に押されたデンマークがとった政策です。保護政策を取るのではなく品質に裏付けられたブランド化を推進することで国際的に競争力のある生産物を輸出するまでになっていることです。「世界を相手にした競争に際して政府が取るべき適切な対策について、デンマークの経験は忘れかけている重要な教訓を現代に伝えている。必要なのは支援と資金であって、保護ではないという教訓だ。」(本書 p.430)現代の市場経済では、偽装問題ではからずも明らかになったように、ブランド力は実際の品質差以上の価格差が消費者に受け入れられる力を持っています。現にブランド化が成功した農産物は徐々に国際的に受け入れられつつありますよね。また単なる生産物を提供するのではなく、体験を提供するという道もあります。そのような努力に対して支援を行う方向へと力を入れる道以外、結局のところジリ貧になるだけではないでしょうか。セーフティ・ネットも必要でしょう。でも、農家に対して戸別所得補償制度と農産物輸入の規制緩和はセットで進めてくれないと、消費者の家計は厳しいままなのですが。

自由貿易は国内にどうしても勝者と敗者が生まれてしまいます。第13章「崩壊」では、自由貿易では相対的に見て豊富な要素を持つものに恩恵を与え、逆に乏しい要素を持つものに害を与えるという、ストルバー=サミュエルソンの定理が紹介されています。そして、同じ国内であっても、恩恵を被る者は自由貿易を支持し、害を被る者は保護貿易を支持するということが示されています。この章では自由貿易の崩壊が最終的に戦争へと向かうことになったことが語られていますが、その引き金になったと非難されることの多い米国のスムート・ホーリー法、提案したのは共和党だったりします。今の日本だと、「共和党=自由貿易派、民主党=保護貿易派」と思っている人のほうが多数かと思いますが、第2次世界大戦までは、正反対でした。南北戦争も、奴隷制の他にも、貿易政策の対立も大きな争点でした。なにが優位にあるかは時代により移り変わり、貿易政策も結局のところ自分に有利な政策をその時々で支持するという典型的な例です。

第14章「シアトルの戦い」では、まさに現在のグローバリゼーションの問題が取り上げられています。著者は、貿易の負の側面に関するエピソードを豊富に紹介していますが、それでもあくまでも自由貿易支持派です。ただし、必ずしも楽観的ではなく、どちらかというと現在の反グローバリズムの流れには危惧をいだいている方でしょう。

物と物を交換しようとする本能が人間には生来備わっている。その本能は抑えようとしても決して押えきれない。人類は、世界の海と砂漠に船とラクダで最初に挑んで以来ずっと、交易できる品物を運んできた。時代が西暦に入る頃、ヨーロッパ文明とアジア文明の先端の地では、たがいの贅沢品が知られ、渇望されてきた。一九世紀末には、現代の世界貿易に特有だと思われているもの―即時的コミュニケーション、ばら積み貨物と生鮮品の遠距離貿易、大陸間をめぐる製造サイクル―の大半がすでに確立されていた。グローバリゼーションをめぐるこんにちの議論は、場合によってはほぼ一字一句違わず、かつての議論を繰り返している。交易品の行き来する場所にはかならず反感と保護主義が生まれ、それらの忠実な相棒である密輸と、ときには戦争まで付いてくる。

(本書 p.454-455)

果たして我々人類は二〇世紀の教訓を活かすことが出来るのか、それともまたあの暗黒の歴史を繰り返してしまうのか、いまはその分かれ道にあると著者と同じように考えています。できれば教訓を活かして欲しいと願っています。ただ、私は必ずしも楽観できる状況にはないと思っていますが。

2010/08/25

藤井 直敬『つながる脳』

最近、社会的知能に注目が集まりつつありますが、その分野の研究ではパイオニアによる藤井 直敬『つながる脳』からは、まさに新しい研究領域を立ち上げる意気込みが伝わってきます。本書では、ある程度オーソライズされた研究内容をきれいに纏め上げて紹介するというよりは、まさに現在進行中の研究過程における、期待、発見、アイデア、悩みをざっくりと書き上げていて、荒削りながらもどのような思いで日々の研究活動を進めているかが伝わってきます。本書の内容に関しては、納得できる部分も、それはどうなんだろうと疑問に思うこともありますが、まさにホットな分野では普通に感じることですから、この本の面白さが少しも損なわれることはありません。

本書の題名は『つながる脳』ですが、社会的な脳機能を指しています。この社会的な脳機能は次のように定義しています。

自分のやりたいことを実現するために、社会という目に見えない構造を上手に操作し、さらにその場の空気にあった正しい振る舞いを選ぶための適応的な脳の働き

(本書 p.16)

この定義に沿って研究を進めるのって、社会的な環境の変化に応じて脳の働きがどのように変化するかを解明しようということですから、環境が定常的な状態での脳機能でさえ、いまだに未解明な部分が多いことを考えるとかなり大胆な試みです。

そして研究の方針もまたユニークです。

  1. 実験の対象にするのは、最低でも二頭以上のサル
  2. サルには好きなように行動させること
  3. サルの振る舞いと環境情報のすべてを記録して、脳活動と関連付けできるようにすること
  4. サル間の社会的な関係性はサル任せにすること
  5. 脳からの記録はできるだけ広い領域から記録すること

サルに好きなように行動させたり、社会的な関係性をサル任せにするということは、敢えて実験環境の統制をしないということですから、その結果の解釈が大変であることが想像されます。なんらかの因果関係を立証したい場合は、極力立証したい関係に対して影響を与える可能性のある環境条件は排除するのが普通ですから。

非侵襲的生体計測による生体計測が全盛な中、侵襲的生体計測による研究は貴重ですね。大学時代、そばにラットの脳に電極差して脳波を測定する手法で研究していたグループがいたので、その利点と問題点についての著者の主張も理解できます。著者はまず慢性他電極記録手法という、多数の電極の束をそれぞれ任意の深さに挿入することが出来る技術を開発して研究をスタートさせましたが、そのセッティングの大変さが綴られています。確かに、私が聞いた時でも、太い血管を避けるように挿入しなければいけないので結構大変らしいですね。そして自由に動けるようにして計測していると、動き回っているうちに電極が…とか。ECoGという、脳の表面にアレイ状に並んだ電極のシートによって測定する方法を試してみたところ、その準備作業の効率の良さに感動した話が書かれていますが、その感動はわかる気がします。

社会性を研究するわけですから、電極からの記録だけではなくその行動も同時に記録して、そのデータを付きあわせて解釈する必要があります。そこで著者は、「多次元生態情報記録手法」(Multi-dimensional recording techinique: MDR)という、慢性他電極記録手法とモーションキャプチャを組み合わせた手法を開発することで、自由に行動させた実験環境でデータを解析する手法を開発しています。著者は、

MDRのような自由度の高い実験環境は、世界で僕の研究室だけだと思います。

(本書 p.96)

と、本書では書いていますが、執筆時点からやや時間の経った現在でも、自由な実験環境での研究はまだ限られているでしょうね。

そのように、今まで神経科学では取り組むのが困難であった個体間の相互作用に注目して研究を進めたパイオニアであるせいか、既存の研究手法の成果と言える「ミラーニューロン」とか「心の理論」のような、構造や状態から社会性を研究するアプローチに対してはやや懐疑的な見方をしています。でも、個人的には、システムを理解するには、構造、状態、相互作用を総合して理解していくしかないと思っているので、既存の手法の結果でもうまく使ったほうが良いのではと感じました。かなり自由な実験環境で測定していますので、ほかのアプローチの結果も参考にしないと考えられる仮説の中から絞り込むのは大変だと思うのですよね。IT分野で使われるUMLが、大きくはこの3つに分けられるからというのもあるのですが、その他の分野でのシステム記述も、この3種類の見方に分けられることが多いですから。まあ、ECoGを使った研究で心の理論という現象が解明できるのではないかとも書かれていますので、私などが述べるまでもないとは思いますが。

高次の機能を解明しようとするにつれて困難に直面することもあるでしょうが、世の中をあっと言わせるような研究成果が上がることを期待しています。

スタニスラス・ドゥアンヌ『数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み』

私たちが、数を覚えるとき、まず1、2、3という自然数の概念を覚え、次に、それが加減算出来ることを覚えます。この数の概念、生得的に人間の脳に備わったものなのでしょうか、それとも言葉のように後天的に覚えるものなのでしょうか。そして、数という概念を持つのは知能が発達した人間、少なくとも近縁である霊長類固有の機能なのでしょうか、それとも何らかの知的能力を持つと思われる動物一般に存在するものなのでしょうか。何気なく自然数という言葉を使いましたが、クロネッカーが整数について次に述べています。

  • 自然数は神が作り給うた。ほかのものはすべて人間のこしらえごとだ。- レオポルト・クロネッカー、1883年。
    "Die ganzen Zahlen hat der liebe Gott geschaffen, alles andere ist Menschenwerk." - Leopold Kronecker, 1883

数学 - Wikiquote

自然数ということばが「自然」に感じるような特別な特別な知覚機能が脳に備わっているのでしょうか。

この問題に関しては、「賢いハンス」という興味深い事例が存在します。この事例は馬に算数を覚えさせることができたというものなのです。馬は人間の言葉はしゃべれませんから、結果は特定の回数蹄を叩くことで回答させるというものです。この事例、実は馬が計算していたのではなくて、馬が観客の反応を敏感に察知して、正解の回数蹄で地面を叩いたらやめていたということが判明しました。要するに計算していたのは馬ではなくて観客だったのです。これは心理学では結構有名な事例で、心理学実験ではそのようなバイアスを排除するような実験環境を整える必要性を認識させたものの一要因であると言えます。人間と共に暮らす動物は、本当に人間のちょっとした仕草とかから感情などを読み取る能力に長けていることを実感させる事例でもあります。

では、動物は数に関する能力は持たないかというと、動物行動学の実験で数に関する生得的な能力の存在する結果が多数存在しています。そのような実験の中で特に有名なのが、京都大学霊長類研究所による、チンパンジーのアイちゃんに関する実験でしょう。そして、さらにいうと人間の算数そして数学に関する能力は、この生得的な能力を元にして発達してきたというのことが、スタニスラス・ドゥアンヌ(著)『数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み』で主張されていることです。まず、動物の数覚から始まって、生得的な機能、文化的な機能、そして神経心理学的知見、最後に数学の哲学の話題まで進んでいきます。そのなかで、次のことがらについて少しずつ解き明かされていきます。著者は、もともと数学を志しながら、数を操る能力を生み出す脳そのものに関心が移って、専攻を数学から神経心理学へと変えたという経歴の持ち主なので、数学とは何かについてのこだわりは本書の端々から伝わってきます。

数学者たちは、何世紀にもわたって苦労しながら、数の表記の一般性が増し、当てはめられる領域がマシ、論理的に単純化されて、使い勝手がよくなるように、記数法を改善してきた。そうする中で、彼らは知らず知らずのうちに、脳の構造的制約に沿うように記数法を発明してきたのだ。

(中略)

一方、多くの子どもが分数を理解するのに困難を感じるが、それは、こんな直感に反する概念に、脳が抵抗しているからである。

(本書 p.22)

第1部「遺伝的に受け継いだ数の能力」を構成する第1章「才知にあふれた動物たち」と、第2章「数える赤ちゃん」、第3章「おとなの脳に埋め込まれた物差し」では、動物と乳幼児期の子どもにおける研究に基づいて、生得的な『数覚』とは何かについて解き明かそうとしています。そして、生得的な数覚は、算数による記号演算を覚えた大人になっても大きな影響を与えていることが示されます。

動物における実験から、純粋に「数」に反応する神経細胞が存在することが分かってきました。例えば、次のような実験です。

一九六〇年代に、カルフォルニア大学アーヴァイン校の神経科学者は、リチャード・トンプソンは、ネコに一連の音や閃光を提示して、そのときに起こる神経細胞の活動を一つ一つ記録した。その結果、ある特定の数の事象の後にだけ発火する神経細胞が発見された。例えば、ある細胞は、どんな事象でも六回起これば、その後に決まって反応した。六回の閃光、六回の短い音、六回の長い音のいずれに対しても、この神経細胞は反応した。感覚様式は関係がないようで、その神経細胞は、数にだけ関心を持っているようであった。

(本書 p.65-66)

特定の感覚刺激には依存しない、純粋に刺激の回数だけに反応する神経細胞が存在することが分かってきたのです。そして、実験によって、この「数」に関する知覚に基づいて、加算や比較が出来ることも示されました。ただ、この「数覚」は、厳密に「1」、「2」、「3」といったデジタル量ではなくて、「1くらい」といった概算量らしいのです。そして、その数覚は、かずが大きくなるほどいい加減になるらしいのです。このメカニズムをアキュムレータ・モデルという、加算器に大まかな量の水を出し入れするという仕掛けで説明しています。そしてこの仕掛は、計算尺みたいなものだとみなしています。

私たちが数を測定する場合に使用する「心の物差し」は、メモリが一定の間隔で並んでいるわけではない。その物差しは、より大きな数ほど、より狭い範囲に間隔が圧縮される傾向にある。私たちの脳は、計算尺上の対数尺度に非常によく似たやり方で、量を表象している。この尺度上では、1と2、2と4、4と8の間隔が等しい空間で割り当てられる。だから、計算の正確さと速度は、数が大きくなるにつれて、やむを得ず減少していくのである。

(本書 p.142)

この心の物差しは、算数という記号による演算を習ってからも脳の中で機能していて、数は数字の記号列ではなく生得的な心の物差しに自動的に解釈されることが実験で示されています。数字だと認識すると、単なる文字列でなくて、ある内的な量として理解されるらしいのです。このことが時々面白い心理現象を引き起こします。例えば、日本では普通摂氏で気温、体温を表しますが、米国では未だに華氏が使用されています。日本人と米国人で、例えば「今日の気温は35°」という言葉を聞いたときに、日本人はたまらなく熱いと反射的に思うでしょうが、普段華氏を使っている米国人だと、寒いと思うのではないでしょうか。そして、「体温38°」という言葉だと、日本人だと高熱で病院行ったらと思うでしょうが、米国人なら冷蔵保存された死体だともうかも(笑)。

この心の物差しという比喩表現、あながち単なる比喩ではなくて、数の認識は空間認識と関係があるらしいという研究結果もあるようです。

数が心の中で一本の直線の上に並んで、それぞれの位置ごとに、ある特定の量が対応している、というものだ。近い数どうしは、隣接する位置に置かれた表象になっている。したがって、数における距離の効果に現れるように、私たちが隣り合った数を混同しがちなのは無理もない。さらに言えば、その心の物差しは、比喩的なものではあるが、方向性をもつもの、すなわちゼロが最左端にあり、それより大きな数は右方向に伸びていると思われている。こういった理由により、反射的にアラビア数字を量に符号化する場合には、小さい数は左側、大きい数は右側といった、数の自動的な方向づけもまた伴うのである。

(本書 p.152)

この文を読んでふと疑問を感じました。もし大きい方が右になるのが自然なら、なぜアラビア数字の記数法において、上位桁になるにつれて左に進むかと。その説明のどおりなら、位取りにおいて上位桁に進むほど右に書き表すようにしたほうが自然ではないでしょうか。もちろん、数字を扱う場合上位桁ほど重要な意味を持ちますから、初めに書くほうが自然な表記法であるように思えるのですが。表で縦に数字を並べるときに、右寄しないと分かりにくくなりますが、もし小さい桁から順に書く事にすればそのような問題は生じません。ちょっと面白いのは、アラビア語が母国語の話者では、数字の方向性が逆に右から左に大きくなるように表象されている実験結果が示されています。それ故、アラビア数字の記数法は、アラビア語が右から左へと表記することと関係しているのかもと思ったのですが、ローマの記数法でも漢字の記数法でも、上位桁から順に書くようになっていて、読むときも一般的に上位桁から読んでいきますから、さすがに考えすぎですね(苦笑)。アラビア数字といっていますが、実際にはインド起源ですし。

そして、心の物差しが大人になっても存在することは、記数法において1から、3ないし4までの表記が特別であることにも現れています。

ほぼすべての社会は、最初の三つもしくは四つの数を、それらの数に対応する分だけ印をつけることによって表記し、それ以降の数については、本質的に恣意的なシンボルによって表記するという点で共通している。この現象は、通文化的に見事に一致する。

(本書 p.122)

確かに、漢数字だと「一」、「ニ」、「三」までは横棒を数の分だけ並べていますが、「四」からは違います。ローマ数字でも「I」、「II」、「III」と3までは縦棒が並びますが、4は「IV」と表していますね。これは、1から3までは概数で表現される心の物差しでも比較的性格に区別できますが、それを超えると区別することが困難になるという脳の機能の制約を反映したものであるというのが著者の説明です。例えば、「IIIII」とか「IIIIIII」とかを一瞬で区別するのは難しいということです。アラビア数字の1、2、3も、1は自明として、2と3も横棒2本と3本を続け書きしたのが字源であるという説があります。

さて、著者は基本的に生得的な能力を重視していますが、それに対して、数についても後天的に獲得されたものだとするピアジェの発達段階理論がという対立する説があります。私が発達心理学を習った頃はピアジェ理論の影響が大きかったのですが、最近はどうなんでしょう。

ピアジェ理論によると、「論理・数学的能力は、外界の規則性を観察し、それを内在化し、抽象化することによって、赤ちゃんの心の中に徐々に構成されていくもの」であるとされています。このことは、発達心理学者による実験によって裏付け等てもいます。でも、著者がその実験条件を分析すると、実験における言語コミュニケーションで起こった予期せぬバイアスの結果であると指摘しています。

三、四歳の子ども、実験者の質問を大人とは全く違ったふうに解釈している、ということである。質問の言葉遣いと子どもが置かれた文脈。これらが、数ではなく列のなかさを判断するように尋ねられていると子どもに信じこませ、あらぬ方向に導くのではないだろうか。

(本書 p.87)

つまり、数の近くについて実験しているはずが、会話の文脈を理解する能力を測っていたということです。この解釈を裏付けるような実験結果もあるようで、数の知覚に関するピアジェの説明は誤りであると結論づけています。

そして著者は、数覚は進化の過程で次に示す物理法則を理解するように脳が進化したっかであるとしています。

進化的な観点から考えて特に注目すべきことは、自然というものが、最も基本的な物理法則を土台にして算術の基礎を作り上げたということである。人間の「数覚」には、少なくとも三つの法則が利用されている。一つめは、一つしかない物体は、複数の場所を同時に占有することは出来ないということ、二つめは、二つの物体は、同じ位置を占有することはできないということ、三つめは、物体は突然消えたり、何もなかった場所に突然現れたりはできないということである。これらの三法則は、非常に幼い赤ちゃんでさえも理解している。

(本書 p.113)

このような生得的な数覚は、数の概念を理解する助けになると同時に、分数の計算のような直感的に把握できない概念の理解の妨げにもなっています。

第1部では生得的な数覚がヒトにも備わっていることが示されましたが、そこには超えられない制約もあります。そして、ヒトは数字と算術を発明することで、生得的な数覚の限界を乗り越えることが出来ました。その神経心理学的研究が第2部「概数を超えて」で解き明かされています。そして第1部で解き明かされた生得的な数覚が、数字による計算でも影響を与えていることも示されています。

第4章「数の言語」では、記数法と言語表現について解き明かしています。文字で数を表す記数法は歴史的に何度も再発明されてきました。しかしながら、我々現代人がもっぱら利用している記数法は、歴史的経緯によりアラビア数字と呼ばれているものです。アラビア数字の記数法がどれだけ優れているかを著者は次のように書いています。

四つの文明が位置と値の原理を発見したようだが、そのうち三つは、現在の私たちが使っているアラビア数字の簡潔さには、とても到達しなかった。と言うのは、この表記法は、他の三つの発明、すなわち「ゼロ」を示す記号、基数を一つにすること、そして、1から9までの数には加算原理を使わないという三要素が加わらなければ、高度に有効にならなかったからである。

(本書 p.180)

「ゼロ」を示す数字が発明されたことで、位取り記数法を利用しても紛らわしくなく計算できるようになりました。それにより、数が一目瞭然で理解できるようになりまた。ローマ数字だと、よく見ないとその数字が理解できません。「238」と「CCXXXVIII」でどちらが理解しやすいか言うまでもありません。

基数が1つというのはアラビア数字では10進法で表記が統一されているということです。ta例えばローマ数字では5と10の2種類の基数が混在しています。数が増えるにつれて5と10のところで記号が変わりますよね。この事情は、ローマ数字のような記数法はまだマシで、言語表現だとさらにややこしいことになっています。欧州語では複数の基数による表現が混在していて、フランス人の著者は愚痴りまくりです。10進法のほかに20進法の表現が現存しています。1から10までのほかに、20進法の名残とも思える11から19までの固有表現がありますし、20移行の2桁の数字にもまた固有表現があります。フランス語にいたっては、「80」が「20×4」である「quatre-vingts」という20進表現も現役です。

それに加えて数字の読みが長いことも嘆いています。

実のところ、中国語ではおよそ九個の数字まで記憶できるが、英語では平均七個しか出来ないのである。なぜ、この違いが出てくるのだろう?中国語を話す人たちの方が知能が高いのだろうか?たぶん、そうではなくて、彼らの数詞はたまたま短いのだ。

(本書 p.182)

著者によると、数字の読みの簡潔さでは広東語が最強らしいです。「正しいフランス語教育」のおかげで、フランス語の数字の言語表現が固定されたままになっていることについては、10進法に合わせた改定を行うべきだというのが著者の主張なのですが、まあ、無理でしょうねえ。チャンスが有ったとすれば、フランス革命期に何でも10進法にしようとしたときだったでしょうね。結局その時の制度変更も慣習の強さに負けて元に戻してしまいましたが。日本の場合は、和語系数詞が、似たような問題を抱えていましたが、基本的に漢語系数詞に切り替えが進んで、一部慣習的に使われているものを除いては10進法で表されていますから、そのてんでは日本語話者でよかったと言えます。

自然界に出現する数字は1から始まる数字の方が9から始まる数字よりも多いというベンフォードの法則が知られていますが、これに対して著者は興味深い解釈を示しています。

私たちが大きな数より小さな数をずっと頻繁に表現するのは、私たちの心の物差しが、大きな数になるほど不正確になるからである。量が大きいほど、その心的表象は曖昧になり、その量を正確に表現する必要性を感じる頻度も減るのである。

丸めた数は、大きさの幅の全体を意味することができるので、例外的だ。そこで「10」、「12」、「20」、「100」などの単語の頻度は、その両隣の数の単語に比べて増すのである。

(本書 p.207-208)

我々ヒトの脳が、小さい数字や丸めた数字により注意が向いているからだということです。ベンフォードの法則は、先頭の桁から徐々に一様分布に向かっていきますから、このような著者の解釈も一理あるように思えます。プラトン主義的な立場の数学者には残念なこと、少なくとも数学的対象の中心にある数は、イデア界の理想の概念ではなく、生物と文化の産物であるということです。

第5章では、幼児期に生得的な数覚を発達させた子供が、次のステップとして数字を用いた算数を学習していく過程に焦点を当てています。数え上げによる計算から、算術規則による計算への移行は学習上の壁になりやすいポイントですが、児童心理学者の研究によると、子供には計算をする過程で迅速に計算できるアルゴリズムを直感的に見出す能力があるそうです。それを体系化したのが注目を集めたインド式計算です。そして、算術結果のパターンを記憶し、迅速的確に想起できることが暗算の上達には重要なポイントではないかという研究結果が紹介されています。

著者は、たくさんの計算をこなして算術の法則を子供が自ら見出すことが重要であると考えているので、賛否両論のある電卓の使用に関しては、賛成派の立場に立っています。生得的な数覚と、算術の間のギャップで数が嫌いになるよりは、計算が生み出す法則性への興味をひくことになるという考えです。普通の子供にとって、電卓を使用したほうが圧倒的に多くの計算を容易にこなすことができるので、見出すことの出来る法則性も多くなるでしょう。そして、数の美しさに魅入られる人々が増え、数学を毛嫌いする人々が減ることを期待しています。第9章「天才たち、神童たち」では、その特異な数学の能力で知られたラマヌジャンや、極めて優れた計算能力を持ったサヴァン症候群の患者の例を取り上げて、先天的な要因は否定出来ないものの、その能力は成長の過程で数学、計算に、自らの意志に基づいて、または結果として、極めて集中して取り組んだことによるところが大きいと分析しています。

とくに著者が問題としているのは、算術の原理を深く理解すること無く機械的な計算のみをなんとかこなすだけだと、数学者のジョン・バウロスが名付けた「数音痴」に陥る危惧をいだいているからです。数音痴の例として挙げられているのは例えば次のようなものです。

  • 土曜日の降水確率は五〇%、日曜日の降水確率も五〇%なので、週末の降水確率は一〇〇%にになる。
  • X婦人はびっくりした。新しいガンの検査を受けたところ、陽性だったのだ。主治医によると、この検査の信頼性は高く、九八%の精度でガンを発見するということだ。つまり、X婦人は九八%確かにガンだということだ。正しいか?

(本書 p.247)

このような数音痴はいまだに見られます。この数音痴に関して、著者は次のような仮説を立てています。

私の仮説は、数音痴は大脳のいろいろな場所に分布している算術手続きの活性化を抑制することの困難に起因するということだ。第7章と第8章で見ていくように、数の知識は大脳の単一の部位に特化して置かれているのではなく、大量の神経細胞のネットワークに分布している。その一つ一つがそれぞれ、簡単で自動化された独立の計算を行っているのである。わアタシたちは生まれつきの「加算回路」を持っており、そのおかげで数量を直感的に理解できる。言語の獲得とともに、それ以外の数のシンボルを操作し、言葉で数えることに特化した回路も働くようになる。掛け算表の暗記には、さらに、機械的な言語記憶に特殊化した回路も働くようになる。リストは、おそらくまだまだ続くだろう。数音痴が生まれるのは、これらの多数の回路がしばしば自動的に、互いの関連なしに反応するからなのだ。前頭皮質の命令のもとでのそれらの調停が機能するには、しばしば時間がかかる。子どもたちは、自分の算術反射に頼るしかない。彼らが数えることを習っているのか、引き算を習っているのかにかかわらず、彼らは計算のルーティーンに焦点を当てるので、それらを、自分たちが持っている量の数覚とうまく結びつけることが出来ないのだ。こうして、数音痴が始まるのである。

(本書 p.250)

このような仮説の持つ著者から見ると、ブルバキの形式主義に基づいた教育改革は、「算数の感覚を破壊してしまった」とまで言い切っています。意味抜きで形式的操作を教えたことは失策であり、少なくとも初等教育に形式主義を取り入れたことに関しては、算数が不自由、算数嫌いな子どもを生み出したと非難しています。このあたり、直観主義に近い立場を取る著者のこだわりを感じます。

そして、第3部「神経細胞と数について」では、神経科学的に数覚を解き明かそうとしています。第7章「数覚の喪失」では、脳損傷によって数に関する特定の能力を失った患者の研究から、数覚が脳でどのように処理されているのか、また特定の能力が脳のどの部位に局在しているかを解き明かそうとしています。基本的にはモジュール説に基づきながら、数覚全体に関する特定のモジュールがあるというよりは、より下位の機能をこなす複数のモジュールがネットワークで連携して処理することで数覚が生まれると見ています。例えば、下頭頂野を損傷すると、言語能力には問題がないにもかかわらず、計算能力が損なわれます。また、左後頭葉を広範囲に損傷したために、言語能力が失われ、また失算症でもある状態ながら、心の物差しは機能しているケースも有ります。このようにある程度機能局在については理解されてきたものの、少なくとも本書が書かれた時点ではその神経ネットワークは解明されていない部分がまだまだ大きいとされています。

モジュール説対ネットワーク説は、脳の機能に関する論争のかなではかなり長くつづいているものですが、結局のところは特定のモジュールがネットワークで連携して機能しているという、折衷案的な説が大体のコンセンサスでしょうか。脳の可塑性と機能局在の問題はかなり興味深いテーマです。脳に可塑性があることが示されていると同時に、特定の部位の障害が回復できずに残るという不可逆性も示されています。このあたり、単純に遺伝子で決定されているだけでなく、発生の過程とも絡んでくるのでしょうが、この辺の理解が進むと脳に関わる疾患の解明にもつながらりそうだと私などは思っているわけです。

第9章「数とは何か」では、それまでの内容を元に数学の哲学について議論しているのですが、再度ブルバキを、「フランスその他の多くの国々の生徒の心に傷跡を残した」(本書 p.418)とばっさり切り捨てています。まずは、数の直感的な理解から始めて、徐々に記号の持つ象徴的な知識の力を理解させ、最後に公理的な思考法の有効性を理解できるように、一歩一歩進んでいくやり方を勧めています。いきなり抽象的な数学体系を教え込んでも有害無益と。「Philosophy of mathematics」の「Contemporary schools of thought」を読むと、数学とは何かについていろいろな立場があるのが分かります。著者はプラトン主義、形式主義、直観主義を取り上げて、直観主義に近い立場にあることを表明しています。プラトン主義の二元論的な見方には賛同できず、形式主義は数学の起源を説明できない、と。ただ直観主義といってもブラウワーの立場は行き過ぎと見ていますが。もう少し時代をさかのぼって、ポアンカレの見方に賛同しています。著者の数学に関する考え方は本書の次の文で示されています。

数学が進化しているのは、よく立証された歴史の事実だ。数学は、堅固な知識のかたまりなどではない。その対象も、論理展開のやり方さえも、多くの世代を経て進化してきた。数学の城は、試行錯誤で建てられてきた。もっとも高い骨組みは、ときには崩れる寸前となり、それを壊しては再構築するという終わりのない繰り返しの中にある。どんな数学的構築の基礎も、集合、数、空間、時間、論理の概念といった、本質的直感に基づいている。これらはほとんど疑問視されることはなく、私たちの脳が作り出す、何者にも還元できない表象に深く根ざしている。数学は、これらの直感の形式論理化をだんだんに進めてきたと言ってよいだろう。その目的は、そうした直感をより矛盾なく、互いに整合性があり、外界に関する私たちの経験により適応したものにすることである。

(本書 p.427)

世界は本質的に数学の言葉で書かれているのではなく、世界を理解するために数学の言葉を発達させてきたというのが著者の考え方す。個人的には大多数の数学者はプラトン主義者なのではないかと思っているので、このような数学観はイデアの世界から追い出さるように思えるかもしれません。著者は、数学から神経心理学に転じて、数学、とくにその中核をなす概念の一つである数について追求してきましたが、結局のところつぎのような理解に到達しています。

脳には物理現象に人間中心の枠組みを投影するよう、バイアスがかかっているので、進化とランダムさがあるだけの時に、設計の証拠を発見したと思ってしまうのだ。ガリレオが述べたように、本当に、宇宙は「数学の言語で書かれている」のだろうか?私はそうではなくて、数学は私たちが宇宙を読み解くのに使える唯一の手持ちの言語なのだと考えている。

(本書 p.437)

私にとっては、この著者の考え方の方が納得できますね。

2010/08/20

ダグラス・C. メリル、ジェイムズ・A. マーティン『グーグル時代の情報整理術』

一般知能は劣っていないのに、特定の知的機能がうまく働かなくなることによって起こる学習障害に対しては、最近ようやく認知度が上がってきました。その中には、以前のエントリーでも触れましたが、読字障害という書かれた文字を読む能力に問題を生じるものがあります。視覚では、ある特徴を認識する機能が脳の特定領域に局在していることが分かりつつ有り、例えば相貌失認のように、画像としては見えているのに顔が識別できないという問題を抱えた方がいます。識字率が上昇してからせいぜい数百年の歴史しかありませんから、顔の認識とは違って文字の認識は後天的に学習されるものでしょう。文字の認識はどのような機構で処理されているのか、現在の最先端の研究成果は押さえていませんので、その理由について述べることは出来ません。ただ推測するとすれば、既存のパターン認識機能を組み合わせて文字を読んでいるのではないかと。そして、脳の機能間のつながり具合によっては、文字の認識に困難をきたすのではと思っています。読字障害は結構有名になってきましたが、現代社会で生活するにはなんらかのハンディキャップを負う障害は既知、未知含めていろいろあると思います。それを障害とみなすか、性格とみなすかは議論のあるところですが。

整理術を含めて自己啓発本が売れるのは、各人は標準的な人格像から当然ズレがあるので、それを何とかしたいと思うからでしょう。そして、そのような本では一般的に明確なルールが示されています。また、苦手なことを克服したやり方を公開している本もあります。世の中多数出版されている整理術の本のなかで、ダグラス・C. メリル、ジェイムズ・A. マーティン(著)『グーグル時代の情報整理術』が特徴的なのは、読字障害という知的職業につくにはハンディキャップを抱えた筆者が、それを克服する過程で見出した克服法から、整理術に関する「原則」を纏めた本であるということです。著者は、周りからの支えもあって読字障害を克服して博士号を取得し、GoogleのCIOとか、EMIのCEOを歴任しています。読字障害を抱えながらそのような職に就くのはかなりの困難が想像されますが、デジタル時代という情報技術のさらなる発達がその障害の克服するための有効な手段となっています。最新の情報技術に関しては何かと批判を浴びせられることもありますが、それによって障害を克服できて本来の能力を発揮できる人がいることも覚えておいて欲しいと思います。

そのような著者が書いた本ですから、どんなすごい具体的かつ即効的な方法が書いているのかと期待して読むと、期待はずれになるかもしれません。

ところで、私が整理術の「ルール」ではなく「原則」という言葉を使ったのにお気付きいただけただろうか?正直に言うと、私は「ルール」を紹介するつもりはない。「ルール」は人を縛るためのものだ。私の「原則」は、新しいアイデア、選択肢、ツールを「提案」するのが目的だ。あなたにとって最適な整理術を築き上げてほしい。

(本書 p.24)

各人にとって得手不得手はそれぞれ。整理術の本は得てして著者の得手不得手に合わせた工夫を纏めたもの、それが読者の得手不得手なところとマッチするとは限りません。整理術は、不得意な事柄を、得意な事柄をうまく使うことでカバーしようとするものですから、著者の言うように万人に当てはまるルールみたいなものが提示できるわけ有りませんね。提案された原則に基づいて自分なりのやり方を見出すというのが本来のあり方です。整理術の本としてはユニークなスタンスで書かれています。即効性のある処方を求めている人には向かないと思いますが、自分にあった整理術を模索している人には参考になる本だと思います。

2010/08/12

リチャード E ニスベット『頭のでき―決めるのは遺伝か、環境か』

「努力」と「才能」に関しては、文化によって捉え方が違うんですよね。日本でよく見かける感動モノでは、能力的に不利な条件を努力で克服して成功を掴む、つまり「やれば出来る」というストーリーが多いように思えます。つまり才能よりも努力であると。これは逆に「出来ないのは頑張らないからだ」という考え方に結びつきます。とはいっても各種才能には個人差がありますから、向き不向きを考えずに結果だけから努力不足を批判されても辛いものがあります。そして、アメリカは競争に打ち勝つ努力が重視されていると言われていますが、実際には「天賦の才能の存在が重要」であり、努力とは才能を開花させるものであると考えられているとしか思えないのです。経営者等に対する高額報酬が受け入れられているのも、実は成功報酬というよりは、天賦の才に対する対価と見たほうが分かりやすいでしょう。裏をかえせば「天賦の才がなければいくら頑張っても無駄」ということです。『一万年の進化爆発―文明が進化を加速した』を読んだときに、なぜIQの遺伝決定説にそこまでこだわるのかと思いましたけど、天賦の才を重視していると考えれば、その才能を見出すことが重要となりますので、そのこだわりに関しても少し理解できます。同じ無力感でも、「才能を発揮する場が与えられない」と憤るか、「才能がないのだらか仕方ない」と諦めるのか、格差の問題についても考え方の違いとして現れてくるように思えます。

そのような背景があるからでしょうか、米国では「知能を決めるのは遺伝要因なのか環境要因なのか」という論争は、知能というものが研究対象になってから長らく続いています。純粋に科学的な論争にとどまらず、政治的な論争にまで発展することが起こります。最近有名なものでは、『Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life』を巡る論争でしょうか。最近では、知能は「遺伝要因か環境要因か」という二分法で決められるものではなく、「遺伝要因と環境要因との相互作用」で決まるという考え方に落ち着きつつあります。それでも、どちらの要因を重視するかでまだ論争は続いていますが。その中にあって、リチャード E ニスベット(著)『頭のでき―決めるのは遺伝か、環境か』では、知能に関する研究、および既存の研究の再検討を行うと環境要因の影響が過小評価れているということを主張しています。

知能研究の動向については、本書の冒頭の方で触れられています。

二〇世紀後半に知能を研究していた専門家のうち、ほとんどとまでは言わないものの多くの人は、知能や学問的才能はほとんど遺伝に支配されていると考えていた。いわば生まれつき頭のなかに配線されていて、置かれた環境がある程度普通であれば多かれ少なかれ発揮されるということだ。

(本書 p.3)

このあたりの考え方は、本書解説でも次のように触れられています。

人はともすれば、知能の高さは遺伝子によって生まれながらに定められており、個人の努力や環境ではどうすることもできないと考えがちである。とくにアメリカ文化には、生得的な能力差を信じる考え方が根強いといわれる。その一環は、初等教育の段階で「ギフテッド・チルドレン」(天賦の才を与えられた子供という意味)を識別し、その潜在能力を引き上げるための特別なカリキュラムを学ばせるシステムなどにもよく表れる。

(本書 p.295-296)

問題は、知能というものが遺伝要因が大きとすれば、逆に考えると教育や育成環境を変えたとしても知能を改善する効果は期待できないと考えられてしまうということです。しかしながら最近の、心理学、遺伝学、神経科学、教育学の研究によって、遺伝決定論的な知能観が覆されつつあります。著者は環境決定論よりの立場にたって、次のような議論を本書で展開しています。

本書の主張はシンプルである。環境が知能の可能性に影響を及ぼす力を持っている、そして、学校や文化がその環境に影響を及ぼす役割を果たす、ということだ。ごく最近の研究で集まってきた証拠から判断するに、個人、集団、社会全体の知能を実際に高められる可能性は、わずか数年前にほとんどの専門家が考えていたことよりも相当高いと考えて差し支えない。

とはいえっても、知能はほとんど遺伝によって決まるのだと誤解する一般人や専門家がいる一方で、知能や学力は何らかの方法で高められるという考えを曲解し、楽観的になりすぎる一般人や専門家も少なからずいる。本書の目的の一つは、現在得られている証拠から、どのような教育的介入が最も効果を及ぼすかを示すことにある。

(本書 p.5)

まず知能とは何でしょうか。著者は知能の定義について次のように述べています

知能には抽象的推論、問題解決能力、知識獲得能力が含まれているという点で、全門下の意見はほぼ完全に一致している。ほとんどの専門家は、さらに記憶力や思考速度も知能の一部だと考えていて、また半数程度の専門家は、知能の定義に一般的知識や創造性も含めている。

(本書 p.7)

そしてこの知能を測るのが一般的にIQという指標で表される知能テストです。知能テストは複数の下位検査から構成されています。それら下位検査で測定された知能を総合した一般知能を表すものとしてg因子と呼ばれる概念が考えられており、IQはこのg因子と相関しているとされています。そして、この一般知能は流動性知能と結晶性知能という2種類の要素からなるとされています。

まず、流動性知能ですが、次のとおりです。

流動性知能は、実行機能と呼ばれる操作を駆使することで発揮される。実行機能には、「作業(作動)記憶」、「注意制御」、「抑制制御」が含まれる。

問題を解決するために常に頭の中に保持しておかなければならず、それにはなんらかの努力を必要とするような情報は、作業記憶のなかに蓄えられているという。注意制御とは、問題の持ついくつかの側面のうち、重要なものに注意を向け続けるとともに、問題の次の段階を説かなければならないときに注意の対象を変える能力のことを指す。抑制制御とは、問題とは関係ないが魅力的である行動を抑えつける能力のことだ。

(本書 p.10-11)

次に結晶性知能とはつぎのような知能のことを指します。

この世界の性質とそれを推論するうえで役に立つ学問的手続きに関して、頭の中に蓄えている情報のことを指す。WISCの下位検査のうち結晶性知能を最も必要とするのが、知識、単語、理解、類似、算数だ。

(本書 p.12)

そして、一般知能ではなく、流動性知能と結晶性知能に分けて分析することで、社会的経済的地位の低い人々や一部のマイノリティーグループで、IQが相対的に低い理由が環境要因によるものであることと、改善方法について本書では論じされています。

第2章「遺伝子はどれほど重要なのか」では、遺伝論者の主張に真っ向から反論してます。知能の遺伝性については主に双生児法によって研究されています。遺伝と環境の違いについての研究結果について、本書で紹介されていた表を一部抜粋しておきます。

表2・1 一緒に育てられた、もしくは別々に育てられた、さまざまな関係にある二者のIQの相関(一部抜粋)
関係 育てられ方 相関
一卵性双生児同士 一緒 0.85
一卵性双生児同士 別々 0.74
二卵性双生児同士 一緒 0.59
兄弟同士 一緒 0.46
兄弟同士 別々 0.24

(本書 p.31より一部抜粋)

一卵性双生児は基本的に同じ遺伝子を持っていますから、一緒に育てられればIQの高い相関関係にも納得です。そして、一卵性双生児で別々に育てられてもやはり高い相関関係を示しています。ことことから、環境が変わってもIQに高い相関関係が見られるのならIQは遺伝要因により主に決定されると推測されます。二卵性双生児は異なる遺伝子を持っている可能性が高いと考えらますが、別々に育てられた一卵性双生児より相関関係が低いことも、遺伝要因の強さを裏付けるものとされています。著者はこのような結果を再検討することで、実は遺伝的要因が高くなるバイアスが存在することを指摘して、当初考えられているよりも遺伝的要因が小さいことを主張しています。

まず批判の第一点は、別々に育てたとされていても、その環境はランダムではなく類似性があって、相関関係が高く出てしまうというものです。まず、別々に育てられたというのは基本的に養子に出されたと考えて良いのですが、養子をとる家庭環境はそれぞれ似ているということです。

心理学者のマイク・ストゥールミラーは、一般的な家族よりも用紙をもらう家族の方が、IQを予測できるような要因における変動が小さいことを示した。

その理由は二つある。第一に、用紙をもらう家族の社会経済的地位(SES)は、養子をもらわない家族よりも高く、養子をもらう家族でSESが最下層に位置する家族はめったにいない。

第二に、家庭環境を評価するHOME(環境測定のための家庭観察)と呼ばれる方法で算出したスコアの変動も、養子をもらう家族の方がずっと小さい。

(本書 p.37)

次に、一卵性双生児の外見、性格が似ていることから周りが接する態度が似てきてしまう可能性です。

似たようなことは知能についても言える。たとえば好奇心に関して遺伝的に比較的小さな強みを持っている子供は、親や教師に学問の道を目指すよう励まされ、知的活動が報われることを知り、勉強して他の知的訓練にも取り組むようになる。こうして、遺伝的強みを持たない子供より賢くなるわけだ。たとえ遺伝的強みがごくわずかでも、環境という「増幅器」を働かせて効果を生み出すことができる。強みを発揮するにはそれが極めて重要だ。

しかし遺伝性の計算の仕方を考えると、こうした遺伝子=環境交互作用(遺伝学者なら遺伝子=環境相関と呼びたがるだろう)もすべて遺伝性の中に含まれてしまう。間違いではないが、環境の果たす役割が低く見積もられることになる。

(本書 p.35-36)

そして、子宮内で同じ環境を経験しています。最後に双子の研究は、遺伝性が高いような社会階級の人々に偏っているという問題です。

心理学者のエリック・タークハイマーらは最近、社会階級によって遺伝性が劇的に違うことを示した。それによりば、親が上層中流階級に属する子供ではIQの遺伝性が〇.七〇であるのに対して、親が下層階級に属する子供では約〇.一〇だという。

(中略)

タークハイマーの研究結果も、極めて高い遺伝性の値は過大評価であることを示す、極めて重要なもう一つの証拠となる。遺伝性はもっぱら双子の研究にもとづいていて、しかも、中流階級や上層中流階級の人のほうが接触しやすく研究にも協力してもらえるからと、研究対象が中流階級に大きく偏っていて。そのため、成人における遺伝性の推定値は高い方に偏っていて、家族間の環境の影響はそれに応じて低い方に偏っている。

(本書 p.39-41)

これらを差し引くと、遺伝的要因は遺伝決定論者の推定よりもずいぶん低い値になると論じています。このあたりに心理実験、社会調査の難しさの一端が現れています。まず、実験環境の統制に限界があるんですよね。隠れた因果関係が存在して、見かけ上の相関関係が高く出たり低く出たり。データに潜んでいるバイアスに気づかないで統計手法を適用すると、本書で指摘されているように結果の信憑性に問題が生じます。まあ、調査を実施する困難さの問題から、バイアスが存在することを理解した上で実施するのは、予算などが限られている場合が多い以上仕方ない側面もありますが。でも、その時には存在しうるバイアスについて認識した上で、補正するなり、明示するなりするべきでしょう。

そして遺伝性に関して次のように強調しています。

IQの遺伝性の程度が、可変性の程度に制限を課すことはない。遺伝学者なら誰でもこの原則を受け入れているが、遺伝論者はこの原則を認めながらも、まるで遺伝性が可変性に実際制限を与えているかのように筆を進めている。

(本書 p.47)

本書p.33では、もし遺伝論者の言うとおりなら、なんで子供の教育に大金をかけているのかと、皮肉を込めて批判しています。

第3章「学校は人を賢くする」では、IQの向上に教育内容が大きく影響していることを主張しています。たとえば、学校教育の長さはIQの高さと関連しているというものです。子供を学校に通わせないでIQの違いを見るという実験は出来ませんが、調査を行うには格好の条件が整った夏休みという存在があります。とくに米国では学校の1年は9月始まりですから、とくに空白の期間になります。

子供は夏の間学校に通わず、その結果、IQや学力が下がったり、その伸びが著しく小さくなったりする。夏に特に大きく落ち込むのは、算数、高学年の子供、そして社会経済的地位が低い子供だ。SESの低い子供と高い子供との学力の差の多くは、SESの低い子供のほうが夏の落ち込みが大きいことによる。

(本書 p.51)

あと面白いのが「フリン効果」です。それは世代間のIQの伸びに関する調査結果です。

主要なIQテストのスコアは、一九四七年から二〇〇二年までの五五年間にわたって、一年ごとにほぼ三分の一ポイントずつ上昇している。アメリカでは一世代(三〇年間)で合計九ポイントに達する。

(本書 p.56)

せいぜい一,二世代の出来事ですから、選択圧によって知能が向上するような遺伝子型が広まったとは考えられません。テストを受ける技術が向上したと考えられなくはないですが、結局、生活環境、教育環境の改善が大きな効果を発揮したと解釈するのが妥当です。そして、ちょっと面白いのは、流動性知能の伸びが結晶性知能の伸びよりも大きのですが、その理由として:

動作性、流動性知能型の力全般が伸びているが、それは、教科書、テレビ、ゲームブック、コンピュータ(コンピュータゲームを含めて)など、視覚的な刺激へと文化が移行してきたことによる。

(本書 p.61)

とされていて、日本での『ゲーム脳の恐怖』等とは全く異なる見解が出されていることです。実際「視覚的訓練による効果」(本書 p.61)として、研究結果が紹介されています。真面目に書かれている内容なのですが、ちょっと受けました(笑)。

第5章「貧富の差は知能に大きな影響を及ぼす」では、社会経済的地位(SES)がIQに及ぼす影響を分析しています。社会経済的地位によって認知的文化、つまり心の中にある文化がことなり、それが子供の学習意欲に違いを生み出し、IQのスコアに影響を与えているということを、いくつかの研究結果かから導いています。たとえば、カンザス大学の心理学者ベッティー・ハートとドッド・リズレーによる子供に対する言語行動の違いに関する研究です。

専門職の親は子供に対して一時間あたり約二〇〇〇語を話すが、労働者階級の親は約一三〇〇語だった。子供は三歳になるまでに、専門職の家庭では約3000万語、労働者階級の家庭では約二〇〇〇語を耳にする。これによる語彙の差は大きい。三歳には、専門職の子供は労働者階級の子どもより約五〇パーセント多くの単語を使いこなすようになっている。

子供にどんな感情で接するか、知的興味や学力の発達に役に立つような形で接するかどうかも、親によって違う。専門職の親は一回叱るごとに六回励ます。労働者階級の親は、一回叱るごとに二回しか励まさない。親にどれだけ励まされるかは、知的探究心や地震と関係しており、その点で専門職の親の子供は断然優位に立っている。

(本書 p.109)

このように、社会経済的地位の高い家庭では幼児期から分析的知能の発達を促す方針により、学校のための準備が出来ていることが、その後の教育効果に影響を与えているとしています。このような家庭環境の問題は、夏休みなど長期休暇の過ごし方の違いに顕著に現れていて、SESが上位に属する子供は学力をあげるのに対して、SESが下位に属する子供は大きく下げるという研究もあります。要するに夏ごとにつまずくことが積もり積もってIQや学力の違いとして現れてくると考えられるとしています。

第6章では、『Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life』で大論争になった、黒人と白人のIQの問題について、何が問題だったのかを論じています。基本的には第5章で論じられたSESの違いが原因であるとしています。つまり、「黒人は平均して社会経済的地位(SES)が低く、そしてSESのの低い人はIQテストのスコアも低い」(本書 p.121)ということです。ただ、これだけではSESとIQの相関関係しかいえないので、遺伝論者の提示する証拠を再検討することで、SESが低いことがIQが低い結果となると考えたほうが妥当であると示そうとしています。

アメリカの黒人社会では、混血が進んでいることから、もし遺伝要因でIQが異なるなら、ヨーロッパ人、アフリカ人それぞれに由来する遺伝子の割合でIQが変わってくるはずです。

アメリカの黒人集団が持つ遺伝子の約二〇パーセントはヨーロッパ人由来で、一人ひとりの遺伝子は一〇〇パーセントアフリカ人からほとんどヨーロッパ人まで幅がある。もし、ヨーロッパ人の知能遺伝子の方が優れているとしたら、ヨーロッパ人の遺伝子を多く持つ黒人のIQは、アフリカ人の遺伝子を多く持つ黒人より高くなければならない。

この仮説を検証する一つの方法としては、ヨーロッパ人の血統を示す身体的特徴とIQの高さが関連しているかどうかを調べればいい。肌色の薄さやコーカサス人的な特徴―いずれもヨーロッパ人の血統の存在を示す―は社会的に有利であるため、IQと中程度に高く関連していると予想できそうなものだが、実際には極めて弱くしか関連していない(相関は〇.一〇から〇.一五)。

(本書 p.123)

そして、遺伝論者が引き合いに出す研究として、養子となった子供のIQが、白人の子供のほうが黒人の子供よりも高いという研究結果があります。ただ、この研究には研究者自身が認めている問題点があって、黒人の子供はより高い年齢になって養子となる傾向がありますが、一般的に養子になるのが遅いほどIQが低くなる傾向があります。その分、バイアスがかかっているおそれがあることです。実際、最近の養子研究では、IQの違いは見いだせなかったという結果も発表されています(本書 p.124)。

そして、人種によるIQの違いを生み出しているのはどの要因なのか最近の研究で特定できるようになっています。心理学者のジョーゼフ・フェイガンとシンシア・ホランドがが、コミュニティカレッジの学生を対象に、単語や概念の知識、そしてそれらの学習や推論の能力を調べました。知識量は白人の方が大きかったものの、学習能力には違いが見られないという結果が出ました。

白人は、黒人よりよく知っていると思われる単語や概念の知識を必要とする質問に関しては、ことわざの理解力、類似性の認識力、類推力が高かった。しかし、黒人も白人と同じようによく知っているような単語や概念を使ってこの種の推論力を調べたところ、違いは見られなかった。それぞれの人種では、事前の知識量から学習力や推論力を予測できたが、人種では、事前の知識量に違いはあっても、学習力や推論力に違いはなかった。

人種間で学習力や推論力に違いがないとしたら、知識の違いが遺伝に基づいているとは考えにくい。知識の違いは完全に環境の影響によるものだというほうが、ずっともっともらしい。(とはいえ、知識の違いが知能の違いのうちに入らないと言うつもりはまったくない。知能はかなりの程度、知っている単語や概念に左右される。)

(本書 p.124)

そして、知識の量が知能に影響を与えているのだとしたら、第5章での社会経済的地位の違いが知識量に影響を与えるという結果が響いてきます。いまだアフリカ系アメリカ人の経済状況は安定していません。中流階級が増える反面、貧困層の経済状況は悪化しています。つまりSESの分布の違いが、IQの分布の違いに結びついていると考えられているということです。

この章では、人種と文化資本、そして社会をめぐる興味深い話も展開されています。実はアフリカ系に対する差別が激しくなったのは19世紀後半からで、その前まではアフリカ系よりアイルランド系のほうが激しく差別されていたという話です。結局奴隷制度廃止後の政策の問題で、黒人集団に貧困と差別の問題が広がり、それがアフリカ系アメリカ人に対するステレオタイプな見方になったと。また、アフリカ系と一括りには出来ないことは少し触れましたが、西インド諸島系は信頼できて勤勉だというステレオタイプもまたあるとのことです。西インド諸島の奴隷制度はアメリカよりも過酷でしたが、白人の少なさからより広い社会的役割を黒人が担うことになり、そのことが専門職や管理職になるのに有利な文化資本を築きあげたのではと分析してます。

第8章「アジア人の方が賢いか」では、IQから推測されるよりも知的成果をあがげているのはなぜかをという点を分析していますが、それは一言でいうと「努力」です。「出来ないのは頑張らないからだ」という文化資本のポジティブな側面ですね。そして、アジア社会と西欧社会の違いにも原因を求めています。家族のために努力するという傾向は、アジア社会のほうが強く、それが学習に対する動機づけになっているという見方です。

そして、現代の科学がなぜ中国で生まれなかったのか(本書 p.208)、それを社会的慣習や思考習慣に原因を求めています。根源は、古代ギリシア人の思考方式にさかのぼります。属性や分類の規則を編み出し、形式論理を考え出したことです。この伝統が科学を発展させる原動力になったという考え方です。

西欧人の方が規則、分類、論理を重視し、東洋人の方が関係性や弁証法的推論を重視すると考えられる。

(本書 p.209)

このことを著者は共同研究者とともに実証しています。でも、そうすると古代ギリシアの電動をまず受け継いだイスラム世界が、なぜ近代に科学の面で停滞してしまったのかという謎につながりますが。

ただ、そのような西欧人と東欧人に関するそのような見方が広まったことで、「東洋人は技術者で、西欧人は科学者か」(本書 p.211)というステレオタイプが広まったように思います。

とはいえ、科学に関して悲観するばかりではありません。著者は次のようにも述べています。

東洋人に特徴的な思考習慣で、科学における成功にとって克服できない障害となるようなものは一つもない。科学に取り組めば、ワタが西欧人の長所として指摘した思考パターンが強まる。東洋人も科学文化に染まるにつれ、自然と科学的な考え方の習慣を身につけていくだろう。そして東洋人も、科学研究において強みとなるような独自の考え方を作り出せるだろう。量子論をもたらした数々の矛盾は、西欧人にとっては悪夢だったが、東洋人の性分にはあっていた。ニールス・ボーアは、量子仮説を考え出せたのは東洋哲学の深い知識があったおかげだと言っている。

(本書 p.214)

科学に関しては現状を見るとあまり楽観はできませんが(苦笑)、独自の考え方を創りだすというところには共感を覚えますね。真似しきれないのなら、別な切り口で見ることに磨きをかける、それを目指すべきでしょう。

第9章「ユダヤ人の教育の秘密」では、アシュケナージ系ユダヤ人の知的活動で飛び抜けた成果をあげている原因として遺伝要因によるものとする諸説を取り上げ、それぞれに付いて遺伝論的説明に反論しています。そのなかで『一万年の進化爆発―文明が進化を加速した』における職業が選択圧となった高いIQをもたらす遺伝子型が集団内で増えたという説に対して疑問を呈しています。

コクランの理論の特徴として、ユダヤ人は歴史の早いうちに読み書きができたという事実に、大きな意味を持たせてはいないという点が挙げられる。読み書き能力が重要な意味を持ったのは、それによってユダヤ人が特定の職業に就き、やがて集団の能力が高くなってからのことだった。実際、コクランの理論で重要なのは、職業における強みが遺伝の魔法をもたらしたことによって、ユダヤ人の知的成果が現れたと考えている点だ。確かに、アシュケナージの知的成果は何世紀も経て徐々に加速していき、一九世紀中頃にピークに達している。

コクランの理論でもう一つ重要な点として、セファルディ系ユダヤ人が成果を上げていないのは、高い知能を必要とする職業という遺伝的フィルターを通過していないからだという。事実、現在のセファルディは、異常に高いIQを持ってはいないように思われる。

しかし、イスラム世界に住むセファルディは、極めて高いレベルの成果を上げている。一一五〇年から一三〇〇年までの科学者のうち、一五パーセントがユダヤ人で、この割合は世界における人口比より、さらにイスラム世界における人口比よりはるかに高く、そして彼ら科学者の大部分はセファルディだった。コクランらは、このセファルディの発展については文化的に説明しているにとどまっていて、ユダヤ人の知能に関する彼らの遺伝的理論と相容れない。

アシュケナージ系ユダヤ人の知能に関する遺伝的理論としては、著者は一理あることを認めつつも、整合性の取れない事実が存在するとして、理論として納得出来るレベルではないと判断しています。コクランらはセファルディ系には職業上の選択圧はかからなかったとしていますが、実際には同じような選択圧がかかっており、IQの違いについて説明できないという疑問を指摘しています。ただし、反論としてはちょっと弱い感じもします。本書の著者も指摘しているように、特異遺伝子型を持つ人のIQと持たない人のIQで比較研究をすれば因果関係がもう少しはっきりする筈なのですが。なぜ比較的容易に行える検証を行う前に理論を発表したのか、著者は解せないとしています。この仮説については著者らは関心をいだいてはいますが、その理論の妥当性については保留という感じです。

著者からの最後のメッセージは結局、「自分の知能は自分でコントロールできると信じること」です。これは、実は天賦の才によって決められているという考え方が実は強いアメリカ社会へのメッセージでしょう。文化的背景からの呪縛から解放されること、そしてそれに向けて社会が支援を行うべきだという主張です。大多数の人にとっては、そのような信念を持ったほうが良い結果に結びつくでしょう。

遺伝決定論の束縛から解放することにより、本来持っていた能力が発揮できるようになるのは喜ばしいことです。だた、環境決定論の立場からものごとを判断すると、先天的、器質的な要因による学習障害が見落とされることが懸念されます。一般知能全体が低いわけではないのに、特定の高次機能に問題を抱えているために、学習障害として現れてしまうことが最近認識されるようになってきました。たとえば読字障害です。この障害は、一般知能には問題が無いのに、文字が読めない、または意味を読み取れないという障害です。読字障害をもつとされている人の中には特異な能力を持っている人もいます。例えば、アインシュタインは読字障害を持っていたのではないかと言われていますが、素晴らしい業績を残しています。そして、文字を各能力に障害を持つ書字障害もあります。この問題については、海部美知氏による印象的なエントリーがありますのでそちらを御覧ください。

つまり本人にとって良い環境とは本人の遺伝要因から決まる資質に依存しており、万人むけの理想の環境があるわけではありません。あくまでも遺伝要因と環境要因との相互作用によって知能が発達するということです。

2010/08/10

グレゴリー・コクラン、ヘンリー・ハーペンディング『一万年の進化爆発―文明が進化を加速した』

イヌは10,000-20,000年前にオオカミから分化する形で家畜化されたというのが現在の定説(「Origin of the domestic dog - Wikipedia」)です。それからの品種改良によってどれだけの変容を遂げたか、「List of dog breeds - Wikipedia」を一覧すると驚くばかりです。成犬でも体高がせいぜい20cmのチワワと、1m程にもなるグレートデンの外見を比較してみると、イヌが家畜化されてからの時間でここまで変容を遂げたとは信じられないくらいです。このように高い選択圧が存在する場合、一般的に思われている以上の速さで進化することが見られます。

では、現生人類の進化の進み具合はどうなのでしょうか。グレゴリー・コクラン、ヘンリー・ハーペンディングは、その著書『一万年の進化爆発―文明が進化を加速した』では、農業の発達による文明の進展が強い選択圧となって、文化レベルだけでなく遺伝子レベルでも急速な進化が起こり、それは現在でも進んでいると主張しています。

現在は、文明の発達に関して遺伝子レベルでの進化の影響は考えられないという説が主流です。

実際、「ヒトの一世代の時間が長いこと、そして農業がヒト属の進化史の一%未満を表わすに過ぎないという事実を考えれば、私たちヒトが、農業(あるいは産業)を主軸とした生活様式に対して、複雑な適応を進化させたとは考えにくい」と、現代的な進化心理学のふたりの創始者、ジョン・トゥービーとレダ・コスミデスは述べている。

(本書 p.17)

実際、狩猟採集生活の時代から進化していないことが、現代になって顕著に見られるようになった肉体的、精神的な疾病の原因であるという説が唱えられています。このような進化はあまり見られないという定説に対して、著者らは分子遺伝学の立場から真っ向から反論しています。

すべてのヒトには、かなり最近の共通の先祖(約一〇万年前)がいて、アフリカ以外の場所のヒトの共通の祖先はもっと新しい(約五万年前)。だから集団間の観察可能な違いは急速に進化したに違いない。そういうことが起こりうるのは、そうした違いの基礎となる対立遺伝子(遺伝子の変異体)が、強い選択的優位性を持っていた場合だけだ。また、地域的に見られる対立遺伝子で、集団の違いの基礎となるものは、適応度にも重要な影響を与えたに違いない。そういうことが集団遺伝学によって示唆され、いまではゲノム情報(遺伝情報の全体)によって確認されている。

(本書 p.27)

問題は、強い選択圧をもたらすような環境の変化が起きたかどうかです。現生人類の歴史を振り返って、そのような強い選択圧をもたらしたもの、その最大の要因が農業であるというのが著者らの主張です。

あらゆる重要な革新が新しい選択圧を生み、それがさらに進化的変化を引き起こした。そしてそうした中でももっとも目覚しい働きをした革新は、農業の発展だったのである。

(本書 p.34)

そして、農業の発展による生活様式の変化と人口爆発が強い選択圧となって人類の進化を促したと分析しています。

農耕をはじめたことにより、ヒトには、食事、病気、社会、長期計画によって新たに得られる利益など、さまざまな新しい生活様式が課されたが、長い間狩猟採集生活をしてきた彼らがそれらにうまく適応していたとはいえない。同時に、農耕の開始によって人口が爆発的に増え、適応型変異を大いに増加させた。つまり、農耕は多くの新しい問題を生じさせたが、それ以上にもっと多くの新しい解決策を生み出したのだ。

(本書 p.37)

まず、食事の変化が強い選択圧を生み出しました。農耕が始まる前、狩猟採集生活の時代は人類はひもじい思いをしていたというのはどうも誤解のようです。実際、考古学的には体格が良かったらしいとされています。たしかに、狩猟採集で生活できるところにしか住んでいませんでしたし、特定の作物に依存していませんでしたから。そして、農耕生活による食事の内容が問題をもたらしました。

初期農耕民が、タンパク質とビタミンが不足している高炭水化物食のせいで、重大な健康被害を抱えていたと考えるのは妥当だ。幼児死亡率は上昇し、おそらく、貧しい食生活もその原因のひとつであっただろう。骨格に遺伝子と環境の間のミスマッチの証拠を見ることができる。農業を取りりれた人の体は縮んだのである。平均身長はおよそ一二.五センチ低くなった。

(本書 p.98-99)

そしてこの食事内容の変化が強い選択圧となって、人類は変化を遂げたといくつか例を上げて説いています。たとえば、ビタミンD欠乏が肌の色が薄くなる変異を広めたと考えています。ビタミンDは皮膚において紫外線を浴びることにより前駆体から合成することも出来ます。人類の生存域の中でも高緯度帯では紫外線量が少なくなるため、皮膚の色が薄いことはビタミンD合成量に有利に働くと考えられます。それによって、ビタミンD含有量に乏しい穀物主体の食事によっても、欠乏症に悩まされる可能性を低めることができたことから、肌の色が薄くなる変異が広まったというのが著者らの説明です。実際、それらの変異は農耕開始後に広まったことを証拠としてあげています。

また、乳糖を消化できるようになった変異も挙げることが出来ます。哺乳類では乳糖を分解できるラクターゼは幼年期を過ぎると一般的に合成が止まります。母乳に依存しなくなってまで合成を続けるのは無駄ですから。でも、牛の家畜化が始まり牛乳が利用可能になると、牛乳を消化できるようになるのは貴重な栄養源の確保につながります。そして、ラクターゼが幼年期を過ぎても合成される変異は、約八〇〇〇年前に起こり、ヨーロッパ人、東アフリカの牧畜民のあいだに広まりました。この乳糖耐性は、北欧では九五パーセント以上に達しています。

そして面白いのは、この乳糖耐性変異はインド・ヨーロッパ語族の拡大に大きな影響を与えた可能性が指摘されていることです(本書 p.213)。インド・ヨーロッパ語族の起源については、奇説も含めて諸説入り乱れた時期もありましたが、現在はアナトリア地方を起源とするアナトリア仮説と、黒海とカスピ海に挟まれた地域を起源とするクルガン仮説が有力とされています。そして、著者らは遺伝学的に見てクルガン仮説を支持しています。その拡大の原動力になったのは先に上げた乳糖耐性変異です。このことによって酪農を営むことが可能になったため、栄養状態が大きく改善されるとともに、穀物生産よりも酪農が主体となることで移動が自由になり、農耕民より優位にたったことが迅速な拡散に結びついたと説いています。そして、遺伝子プールへの影響が少ないことから見て、先住民を追放するのではなく支配するスタイルで拡大し、支配者の言語としてインド・ヨーロッパ語族が広まっていったと推測しています。

私たちの議論が適切であるなら、時間がたつにつれて、農耕民は様々な意味で農産物主体の食事にうまく適応できるようになり、生理学的ストレスをあらわす骨格の兆候のいくつかが徐々に減少していったのではないか。そのような遺伝的適応が起こったことは明らかだが、健康を改善する文化的変化も起こったに違いない。たとえば、新しい作物や新しい調理法によって、平均的農民の食事中の栄養の質が向上したのだろう。もちろん、新しい方法(脱穀精米するなど)や新しい作物(サトウキビなど)は、実際に悪影響もおよぼした。適応型の変化は、時間がかかるうえに、計画性がないが、また、確実で安定もしている。文化の変化は適応型の変化ほど確実でない。

このように見ると、遺伝子がすべてを決めると主張しているように思われる懸念は著者たちも認識していて、あくまでも「歴史的分析の際にも、社会的、文化的、政治的な変化と同様に、遺伝的変化も考慮されるべきだ」と主張しているに過ぎないとしています。

そして、農業の発展によって単位面積あたりの収穫量が増えたことで、人口は増大し、より密集して、定住することになりました。問題はそれによって衛生状態が悪化し、感染症がまん延するようになったということです。あと、麻疹のように農耕が始まる前の低い人口密度の状態では広まらなかったであろう感染症も現れたということです。そして、この感染症も強い選択圧となり、防御の仕組みの進化が現在でも見られます。有名なのはマラリアに対して抵抗性を持つ遺伝子変異です。そして、これらの遺伝子変異が広まっているのは、マラリアの蔓延地域です。

最近行われた全ゲノム解析で自然選択の痕跡を調べたところ、病気の防護に関連する変化が他にもたくさん有ることが示唆されている。ここでもやはり、こうした適応の範囲は地域によって異なっている。

(本書 p.114)

このような事例こそが、ヒト集団間の生物学的差異は表面的なものに過ぎないのではなく、遺伝的な違いが存在する証拠であると論じています。この差異がいかに大きな影響を及ぼしたかは、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の植民地化の歴史を振り返れば分かるでしょう。

現在ヒトの感染症の多くが家畜に由来すると考えられていますが、アメリカ大陸の場合家畜化の進展が限られた結果、ヨーロッパ人の侵入まではあまり感染症に悩まされること無く過ごすことができました。その結果、アメリカ先住民のあいだでは免疫機能があまり発達しなかったと考えられています。その証拠として、HLA(ヒト組織適合性抗原)対立遺伝子群の分布が特異であることを挙げています(本書 p.196)。HLA遺伝子群はヒト白血球抗体をコードする遺伝子群であり、多様な病原体からの強い選択圧をうけつづけてきたことから、ヒトの遺伝子群の中でも特に多様性が見られる領域です。

しかし、アメリカ先住民には、その多様性が見られなかった。多くの部族は、五〇%以上の頻度で単一のHLA対立遺伝子をもつ。部族ごとに、支配的な対立遺伝子は異なる。まるでHLA対立遺伝子の頻度は新世界ではランダムに浮動してきたかのようで、そのようなことは旧世界では、中新世以来起こっていない。

(本書 p.197-198)

このようなことは感染症への驚異にさらされていた環境では考えづらく、むしろ自己免疫疾患のリスクを下げるために、免疫機能が弱められる方向に選択圧が働いていたのではないかとも推測しています。その結果として、旧世界から各種の感染症がもたらされたとき、人口が数世紀で九〇パーセント以上も減少するという甚大な影響を被ったと推定しています。このあたりの議論は、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』でも語らていることでもあります。

そして、第2章の「ネアンデルタール人と現生人類との混血説」並んで本書の中で論議を呼びそうなのが、農耕による文明の発達により、性格、知能も進化しつつあるという説です(本書 p.124)。性格や知能に影響を与える要因として遺伝要因と環境要因があり、さすがに両極端の遺伝子決定論者と空白の石版論者はいなくなりましたが、どちらの影響が強いかについて激しい論争が繰り広げられています。この話題は人種差別問題とも絡んでかなりセンシティヴなテーマなのですが、双生児研究などで遺伝要因の存在は確認されています。そして、著者らは分子生物学的観点から、かなり遺伝要因を重視する見方を唱えています。

たとえば、ジストロフィンは筋繊維と脳で構造的に重要な役割を果たすタンパク質ですが、この変異が知能に影響を与えた可能性を示唆しています。

自然選択を調べる研究で見つかったジストロフィン関連のスイープ型対立遺伝子(病気を引き起こさないもの)は、おもしろい可能性を浮上させた。最近、筋肉と脳の機能の間で直接的なトレードオフがあったらしいのだ。紀元前10万年ころのヒトは現代の人々よりも強い筋肉をもっていた。だから、ジストロフィン複合体の変化により、より高い知能を得るために強靭な筋肉が犠牲にされたという可能性も大いに有り得るのである。

(本書 p.125)

そして、言語の複雑化が内耳の進化に影響を与えている可能性です。

内耳に影響を与える遺伝子の新しい型に関するものだ。私たちは、最近の言語の複雑化がその原因になっているのではないかと考えている。変化は最近起こりはじめたばかりなので、多分私たちの耳は(おそらく脳、喉、舌も)、そうした変化に適応している最中だと思われる。また、内耳に関わるスイープ遺伝子のいくつかは特定の地域に見られ、最近のものである。もしかするとこれは、ある集団が、特定の言語や語族の特性に適応しつつあることを示しているのかもしれない。人間は、どのような言語でも学ぶことができるように思われるが、言語の学習能力、言語コミュニケーションのスキル、盗聴能力などは、人によって、あるいは対象となる言語によって異なるという可能性もなきにしもあらずだ。

(本書 p.125-126)

ここまで遺伝要因を重視するのはいくらなんでもというのが正直な感想ですが。

さらにヒトの社会性への進化の影響です。農耕が始まることで、国家という存在が生まれました。そして、国家には支配階級が出来上がります。そうすると、利用可能な資源の大きな支配階級は生殖に有利になりました。たとえば、アイルランドでは人口の八パーセントで共通性のあるY染色体が見つかっています。Y染色体は男性からのみ受け継がれますから、生殖に関する影響を測る指標の一つと考えられます。そして、そのような環境において選択圧が働くことになります。

支配階級のメンバーとなってそこにいつづける可能性を大きくする形質は、自然選択で有利に働くだろう。これは支配階級だけではなく、置換水準以上の出生率をもつ階級には起こりうることだ。重要な遺伝子流入がある限り、その階級で有利な性質は、生殖率の高いグループだけでなく、集団全体で、人口を増加させる傾向があるだろう。

(本書 p.134-135)

そして、被支配者階級には別の選択圧がかかるだろうということです。つまり、被支配者階級で攻撃性が高い人は排除される傾向にあっただろうとしています。そして、そのことが法と秩序が社会にもたらされることになったということです。

一部の人間が他の人々を飼い馴らしていたということだが、階級間で十分な量の遺伝子流動がある状態ならば、集団全体として、人々は従順になっていったはずである。

(本書 p.140)

人の行動に影響を与えるとされる遺伝子として、DRD4遺伝子が知られています。この遺伝子の7R対立遺伝子は、ADHDなど衝動的な行動と関連しているとされています。そして、この遺伝子は東アジアではあまり見られないとのこと。たとえば、古来大帝国が発達した中国では、7R対立遺伝子に由来する遺伝子は一般的に見られるものの、7R対立遺伝子そのものはまれだそうです。このことは従順さにかける性質を持った人々が排除された結果ではないかと著者らは推測しています。

知能の問題に関しては、第七章で一章を割いてなぜアシュケナージ系ユダヤ人の知能が高いのかを分析しています。アシュケナージ系ユダヤ人は、もともと中東欧に住み着いたユダヤ人の集団です。そして、平均IQの高さで知られており、また知的職業で成功を収めた人の多さでも目立った存在です。それ故、知能について論議を交わすときによく取り上げられる集団です。ユダヤ人はギリシャ・ローマ時代の文献にも載っていますが、特に知能の高さについて言及されたものはありません。では、ローマ時代から現代までにおかれた環境が、そのようなIQの高さに結びついたのでしょうか。

そして、アシュケナージ系ユダヤ人に高頻度で発病する遺伝病の存在が知られています。テイ=サックス病ゴーシェ病など、ヘテロ接合型なら発病しないものの、ホモ接合型だと発病する劣性遺伝病の有病率がなぜ高いのでしょうか?これに対して、著者らは次のような仮説を立てています。

この二つの疑問は、ひとつの説明によって解決できるのではないだろうか。私たちは、アシュケナージ系ユダヤ人は知能において遺伝的な強みを持ち、その強みは、彼らが北ヨーロッパに居住していた時代にホワイトカラーの職業で成功するための自然選択によって生じたものだという仮説を立てている。知能に対する強い選択には、いくつかの不都合な副作用が伴った。ある対立遺伝子を一コピーだけ持つ人はIQが高くなるが、コピーが二つそろうと有害な結果を引き起こすのである。

(本書 p.233)

そして、そのような遺伝子が広まった原因として、次の要因を挙げています。差別の結果もっぱら金融業等に特化した職業についていたことから、ホワイトカラーの職業に有利な形質が有利になるような選択圧が働き続けたこと。また、アシュケナージ系ユダヤ人以外との婚姻が禁止されていたことから、そのような形質が集団内で定着しやすかったということです。このことは、最近のDNA解析において、アシュケナージ系ユダヤ人には特定のSNPが存在することからも裏付けられたとしています。

ただ、気になるのは知能を評価するのにIQを重視しすぎていること、またIQの高さをあまりにも単純に良いことと考えていることです。そのような批判があまりにも多いためか、「IQに関する話」(本書 p.256)と一節を設けて批判に対して反論しています。

ダニエル・ゴールマンは「感情的な知能」と「社会的な知能」(邦訳は『EQ心の知能指数』『SQ生き方の知能指数』)についての本を書いており、それらが仕事の成功と個人的な幸福を予測するのに非常に役に立つと述べている。一九九三年に出版した本の中でハワード・ガードナーは、知能にはたくさんのタイプがあると示唆した。しかし、知能テストを複雑化する試みを支持するデータはほどんどない。そして、提案された特殊な種類の知能からは何一つ有益なことは予測できない。たとえできたとしても、せいぜい一般的な知能に関する範囲に留まっている。

(本書 p.257)

これを読んだとき心理学実験の結果に関してはもうちょっと慎重に扱ったほうが良いのではと思いました。心理学でも対立する仮説のあいだで論争が継続しているとかよく有りますし、自説に有利な仮説に肩入れしすぎると、逆に自説の信憑性が疑われることになるのですが。IQの高さが知的職業における成功と相関関係があるというのは、知能検査がそのように構成されているのである意味当然です。IQで表される分析的知能を測定するのに現在の知能検査で十分であるかもしれません。ただ、双生児法によるIQ研究の再検討も進んでいて、実験条件とその解釈に研究者の間で気付かれなかったバイアスが存在して、環境要因が過小評価されていることを指摘する結果も最近発表されているようです。

ただ最近の知能研究では、社会性や、身体性などが取り込まれる傾向があります。知能の再定義では、ガードナーの多重知能説やスタンバーグによる知能の三部理論がありましたが、最近は従来なら知能ではなく性格として研究されていた社会性を知能の問題として考えるマキャベリ的知性仮説(社会脳仮説)が注目されています。そのような研究動向の中では、もはやIQのほうが知能の一側面を測定していると言ってもよさそうです。まあ、知能の定義の拡大には反対する意見もあるのは確かですが。著者らがなぜそれほどまでにIQのみにこだわるのか理解に苦しむところがあります。確証バイアスなのでしょうか。

最後の方はかなり批判的な論調になってしまいましたが、「終りに」で次のような記述を見なければここまで書きませんでした。

歴史に記された実験の結果の中には、私たちの寿命を延ばしたり、知能を高めたりする目的で行われるもっと野心的な研究に役に立つものもあるだろう。

(本書 p.280)

なんか「社会ダーウィニズム2.0」といった感じでどうもいただけません。高機能自閉症患者の症状や、神経科学の実験結果を見ると、知能を構成する要素のあいだにも実はトレードオフの関係があることが疑われます。知能のある側面を強化した場合、別な側面が損なわれる可能性も十分に考えられます。実際著者らの仮説でも、IQの高さをもたらす変異遺伝子は、遺伝病を有病率を同時に上昇させていますよね。特定の能力を高められる(ただし重篤な副作用なしで)という楽観的な将来見通しを示されると、さすがにちょっと待ってと思わざるを得ません。ヒューマンゲノムプロジェクトも、完了した暁には一気に生命活動の理解が進むと大きな期待が持たれていましたが、結果は遺伝子だけでは決まらないということを明確にしました。もちろん、遺伝子レベルの解明の成果を否定するものではありません。でも、遺伝子レベルの話を安易に知能や性格に結びつけて説明しすぎる傾向に対して、神経科学者から苦言を呈する声があるのも確かです。

2010/08/07

Bloggerに引越し

メインのブログを当面ここにします。Tumblrと併用します。Tumblrと併用するようになって、直接HTML書くようになったんですが、いままで使った中ではHTML直接各スタイルとの相性が良かったので。Wordpress.comも魅力的だったのですが、使えるタグとか利用条件の面で残念ながら見送りです。過去ログもLivedoor分は引越ししました。

2010/08/06

Bloggerに開設

現在ブログ引越しを検討中で、Bloggerにも試しに開設してみました。

2010/08/05

山岸 俊男『心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想』

日本人論って、まず主張する人の「べき論」があって、その「ベキ論」を援護する部分を過大評価し、都合の悪所は過小評価しているとしか思えないケースが多くて、どうも受け付けられません。ステレオタイプな物の見方って、論点を明確化するには有用ですが、明確化するための便法であるということを忘れて現実がステレオタイプの通りになっていると思い込むと有害です。昨今の金融危機を前にして欧米の金融機関、規制当局の動きが、90年代末における日本の金融危機のときの動きとあまりにも変わらない様を見て、結局人間危機的な状況に追い込まれたときに取る行動ってそれほど変わらないということがはからずも露呈していますし。もちろん個々の社会はそれぞれ固有の特徴を持っていはいますが、異質論が説くほどには異なっていないのではないというのが私の意見です。違うように見えるのは、本質的な違いというよりは、おかれた状況の違いよるところの方が大きのではないかと。かつて比較制度分析とかにはまっていたので、文化による制度の違いには関心はあるのですが、おおかたの「日本人論」とはちょっと距離を置きたいというのが正直なところです。

そのような訳で、山岸俊男(著)『心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想』のタイトルを見たときにはちょっと引っかかるものがあったのは確かですが、実際に手をとって「心でっかち」しているのは、個人のある特定の振る舞いの原因を個人の「心の性質」に帰着させる議論のあり方を問題にしたのであって、個人がおかけれている環境、とくに集団の構成員間の相互作用に着目すべきという主張には納得です。集団の中の個人の動きを説明するのに、個人の「心の性質」を軸に分析していく方法と、個人間の「相互作用」に着目して分析する方法に分けることができます。情報システムを記述するUMLで、振る舞い図相互作用図があるように、システム一般を分析しようとしたときに標準的に用いられる考え方の枠組みです。本書では、各自の心のあり方ではなく、集団の構成員の相互作用に注目した実証実験を繰り返すことで、「日本人は集団主義的だ」などのそれまでの「通説」を覆しています。分析のために単純化した見方を、現実の社会の特徴として論じている部分に関しては、ちょっと同意しかねる部分はありました。

「第1章 日本人は集団主義ではなかった」では、社会的ジレンマ実験を通して、「日本人は集団主義的である」という通説が誤りであることを示しています。ここで紹介された社会的ジレンマ実験は、被験者が寄付をすれば集団の構成員全員に寄付額の2倍が均等に支払われるというものです。これは利他的行動を実験するのによく使われるものです。集団の各個人が自己の持ち金をすべて寄付すれば、全員が2倍の額が受け取れるのですが、自分が全額寄付して他人が全く寄付しない場合は全く受け取れない結果となります。集団主義的ならば集団全体のことを考えてより多く寄付することが予想されます。しかしながら、日本人とアメリカ人を被験者にこの実験を行ったところ、通説に反してむしろ日本人の方が寄付額が少ない、つまり個人主義出来であると解釈される結果となりました。ではなぜ日本人自身が集団主義的であると思い込んでいるのか、それを社会心理学における「帰属の基本的エラー」という現象で説明しています。この現象は、たとえ周囲からの圧力、しがらみなどで強制的に取らされている現象でも、自発的意思によって取られた行動であると思ってしまう現象です。そして、「集団主義」とみえてしまうのであれば、それは個人の心の性質ではなく、むしろ集団に備わった相互監視と相互制裁によって、集団主義的にフル回らせられているのではないかというのが著者の見方です。

「第2章 心でっかちの落とし穴」では、なぜ集団主義的な行動が現れるかをいじめという社会問題を元に分析しています。「いじめ」に加わるのは、相手の心を思いやる気持ちを持たない、または相手の心を理解する能力を持たない子供なのでしょうか。著者は、京都大学霊長類研究所の正高信男らがおこなった「いじめ」の研究を元に、それは違うとしています。ではなぜいじめがおきるのか、「頻度依存行動」、「臨界質量」、「相補均衡」という3つの概念を核として説明を試みています。ある集団において、ある個人がある特定の行動をするかどうかが、その行動をとっている人が他にどれほどいるかに依存している場合、それを頻度依存行動と呼びます。そして、複数の取り得る行動が存在した場合、その行動が頻度依存行動ならば、実際にどの行動が集団において支配的になるかは、一意には決まらず、ある一定数以上の個人が特定の行動をとった場合にそれが集団における支配的な行動になると考えられます。そのとき、どの行動が支配的になるかその人数の境界にあたる数を、著者は核分裂の臨界質量からの連想で「臨界質量」と呼んでいます。そして、「相補均衡」はゲーム理論におけるナッシュ均衡と同じ意味です。わざわざ「相補均衡」という言葉を使ったのは、専門的なイメージを読者に与えることを避けたのと、「均衡」という言葉の持つ日常的なイメージを嫌ったためだということです。その上で、いじめという現象について分析しています。

ここで、ある普通の教師の教室における生徒の集団を考えます。そして、まずいじめ自体を楽しむ生徒と、いじめを断固阻止しようとする生徒がいるとします。残りの生徒は、状況応じて「いじめ加担行動」が「いじめ阻止行動」に加わるとします。ここでは、「いじめ加担行動」が支配的、または「いじめ阻止行動」が支配的の2種類の相補均衡が考えられます。一旦いじめ加担行動が支配的な状況になってしまうと、あえていじめ阻止行動を取ることは自らもいじめの対象となるリスクを負うことになり、行動を変えることには不利益を負うリスクがあります。ここで、いじめが問題となり、担当教師がいじめを阻止することに熱心な熱血教師に変わったとします。このとき、熱血教師の決意が完全に受け入れられなくても、これまでよりもいじめ阻止行動に転じるのに若干安心感を抱かせることができたとします。この微妙な安心感は、臨界質量をいじめ阻止行動側にシフトさせる効果があると考えられ、ちょっとしたきっかけで臨界質量を超えていじめ阻止行動が支配的な均衡へと移行することが期待できます。そして、この一端出来上がった均衡は熱血教師から普通教師に担当が変わったとしても残っていますから、いじめ阻止行動が相補均衡のまま持続するでしょう。これが、頻度依存行動によるいじめ現象の説明です。個人の心の性質ではなく、相互に依存的な行動が、集団の行動を決めているということです。

そして、「第3章 心でっかちな文化理解を取り除く」ではこの枠組を元に、「内集団」、「外集団」という考え方で文化という現象を分析しています。まず、著者は文化を「心と行動のあいだの相互依存関係が産み出す相補均衡」(本書 p.114)として理解しています。つまり、「心を、実践活動と独立した理念として理解することはできない」(本書 p.118)ということです。その上で、集団主義文化は、「内集団ひいきの相補均衡状態」であるとしています。

著者は、「内集団ひいきの相補均衡状態」という集団主義文化の理解を、濱口恵俊による「間人主義」としての集団主義理解や、ヘーゼル・マーカスと北山忍による「相互協調的自己」の考え方と対比させています。間人主義とは「集団への自発的なかかわり合いが、結局は自己自身の福利をもたらすことを知ったうえで、組織的活動にコミットする傾向」(本書 p.19)があるとする考え方です。マーカスと北山の相互協調的自己は、間人の考え方と類似しているのですが、「相互依存関係が一人ひとりの心のなかに相互協調的自己として存在するだけでなく、人々が胸中している文化的な意味のシステムのなかにも、「相互協調的文化」として存在していることを強調する点」(本書 p.117)が間人主義の主張と異なる点であるとされています。そして、これらの説を「実際に人々が行っている実践活動の中に相互依存関係を見出そうとしてない」(本書 p.117)と批判しています。

著者の主張する「内集団ひいき」とは「自分と同じ集団に属する人間を、別の集団の人間よりも優遇する行動」であり、「内集団ひいきの相補均衡状態」を次のように定義しています。

人々が内集団ひいき的に行動しているために、「それ以外の行動をとることが、だれにとっても不利な結果を生み出してしまう」状態を意味します。

(本書 p.119-120)

例えば比較制度分析における日本的雇用慣行の問題です。そして、この内集団ひいきの行動のほうが人類の歴史の中で普遍的であると考えられます。

西欧中心の現在の心理学の観点から見れば、個人主義的な西欧文化と違った集団主義文化こそが説明されるべき対象と考えられていますが、人類の長い進化の歴史を振りかってみれば、内集団ひいきの相補均衡が存在しない個人主義的な社会のあり方の方が、実は説明を必要とする「異常な」状態なのです。

着目すべきもう一つの点は、内集団ひいきは集団の内部に相互協力と安心を生み出しますが、同時に機会費用を生み出すという点です。この機会費用という点から言えば、内集団ひいき行動が相補均衡を生み出している状態は、多くの人々がない集団ひいき行動を取ることで、内集団ひいき行動を取ることの機会費用が小さくなっている状態だと言えます。

(本書 p.119-120)

現在問題になっているのは、社会の変化によって内集団ひいきの機会費用が増大しているということです。これには、市場経済と資本主義の発展が関わっていると筆者は考えています。市場経済の広がりによって、内集団ひいきの行動は集団の外部に存在する資源を有効に活用できなくなりつつあるということです。企業という組織が発達が資本主義の発展を促した反面、雇われた経営者・従業員と資本家の利害が対立するプリンシパル・エージェント問題がより拡大したことが、内集団ひいきの弊害として顕著になってきたと見ています。この問題の解決策としては、2種類の方策が挙げられていて、一つは監視制度を整備して依頼者の利益に沿って行動していることをチェックすること、もうひとつはエージェント問題を生まない品質保証済みの人材を育成するというものです。本書では前者の例として江戸幕府における目付制度、後者の例として英国パブリックスクールにおけるエリート教育を上げています。現在では監査制度の発達のように、制度的対応のほうが主流になっていますね。エリート主義の終焉については、二度の世界大戦でエリートが次々と戦死して人材が枯渇したからだなどという解釈をあるようですが。

「第4章 内集団ひいきはどのようにして生まれるか」では、「日本的集団主義」と「西欧的集団主義」を対比させて、集団主義について考察しています。「西欧的集団主義」とは、社会アンデンティティー理論が説明するように、個人と集団との心理的一体化を目指す心の状態のことを意味するものであると著者は捉えています。それに対して「日本的集団主義」とは、「他社とのあいだで相互依存的な実践活動を行う場として集団をとらえ、自分の生活における集団の重要性を認識していること」(本書 p.134)を意味しています。そこでは集団から排除されないための行動の指針が重要になります。そのような規範を著者は「心の覚書」と呼んでおり、日本的な集団主義について次のように捉えています。

筆者は集団主義的な心の性質が、この覚書のようなものだと考えています。私たちは多くの場合、そのような覚書に従って行動しますが、それは、その覚書が行動の原因だということを意味しているわけではないのです。どのような内容を心の覚書に書き留めるかは、ある相補均衡のもとでどのような行動が有利な結果を生み出すかによって決まってきます。その意味で、行動の本当に原因は「覚書に書かれた内容」ではなく、「覚書にその内容を書き込ませた相補均衡」であり、その相補均衡の背後にある「相互依存関係の性質」なのです。

(本書 p.137)

その上で、社会アンデンティティー理論による集団主義理解を実験に基づいて批判しています。ほとんど強調すべき意味を持たない唯一の特徴によって分けられた「最小条件集団」を単位としてさえ、内集団ひいきや外周段差別行動がおきるという実験結果が報告されました。この結果を、「人間が、自分自身のアイデンティティーの一部を、自分の集団のカテゴリーによだねているからだ」(本書 p.144)と理解するのが、社会的アンデンティティー理論です。そして、著者は実験条件を詳細に検討することにより、実は実験における集団は最小条件集団の要件を満たしておらず、そのことが社会的アンデンティティー理論が示すような結果として現れたのだと批判しています。ここで見落としていたとされたのは、参加者同士の相互作用です。相互作用をなくすように実験条件を剣虎して追試を行ったところ、内集団ひいきは見られないという結果が得られたということです。

実験に参加した人たちは、「自分が内集団の人間を優遇すれば、他のない集団の人間も自分を優遇してくれるだろう」と考えたのだろう、と筆者は考えました。そして筆者たちはこれを、「コントロール幻想」と呼ぶことにしました。

双方向条件では、参加者は自分の集団の人たちが自分に対して好意的に報酬を分配してくれることを期待し、そのために自分の集団の人に対して好意的な報酬分配を行ったのだ、と筆者たちは考えたのです。それに対して、一方向条件では自分の報酬はあらかじめ決まっているので、いくら自分の集団の人を優遇したところで、自分の集団の人からたくさんの金額を受け取ることができないことがはっきりしています。そのため、一方向条件では内集団ひいき行動が起こらなかったのだと、筆者たちは考えました。

(本書 p158-159)

さらに追試を行ないことで、集団主義的な行動が「コントロール幻想」にもとづくことを著者らのグループは確認しました。さらに面白いことに、「コントロール幻想」が存在する場合には、報酬の分配は集団の優劣によりも内集団ひいきの影響を強く受けることを示したことです。

なぜ「コントルール幻想」が生まれていたのか、「第5章 だれもが皆、心の道具箱を持っている」で議論しています。どうしてコントロール幻想がそんざいするのか、それを進化の過程で獲得した課題解決のためのヒューリスティックスの一つに原因を求めています。著者は特に、ガートナーの多重知能説に準拠して理科を進めています。多重知能説では、知能というのは、人間が進化の過程で獲得してきた一般的なっ課題解決能力であり、知能は言語的知能、論理/数学的知能、音楽的知能、空間的知能、身体運動的知能、自省的知能、対人的知能の7種類に分けられ、それぞれ独立した知能として人間に備わっているというものです。そしてこの7つの知能のうち、「対人的知能に相当する部分を、筆者は、人間が社会環境での課題解決にもちる道具の入った一つの道具箱」(本書 p.182)と考えています。そして、「コントルール幻想」はその道具箱に入っていて、対人関係でよく使われる「社会的交換ヒューリスティック(交換促進装置)」に原因があると考えています(交換促進装置仮説)。

「社会的交換ヒューリスティック」というのは、人々を互酬的に行動させる行動原理です。互酬的な行動というのは、何かをしてもらったらお返しをするということです。人類は進化の歴史のほとんどを小さな集団のなかで過ごしてきて、そのなかで互酬的な行動原理に従ってお互いに協力しあってきたと考えられています。そのため、「現在直面している場面は、人々が相互依存的な関係にある集団の場面だ」という認知的な手がかりが与えられると、社会的知性の道具箱に入っている交換ヒューリスティックが目につくようになります。そして、この道具が道具箱から取り出されると、またしたちは互酬的な行動原理に従った行動をとるようになるのです。

(本書 p.182-183)

実際、「囚人のジレンマ」ゲームを使って実験を行ない、「交換促進装置仮説」を支持する結果が得られたとのことです。そのような実感から以下のような結論が導き出されます。

最小条件集団において参加者が「コントルール幻想」を持ってしまうのは、その場面に含まれる「集団としての性質」が手がかりになって、交換促進装置が道具箱から取り出されてしまうからです。

(本書 p.199)

最小条件集団における内集団ひいき行動は、いわば社会的交換の場であると錯覚を起こして、誤ってk交換促進装置が働いてしまった現象であるというのが、著者の結論です。

第5章まではどちらかというと協力関係を中心に議論が進んできたのですが、「相補均衡としての文化」と「心の道具箱」の二つの考え方を結びつけて、文化の違いについての理解を進めています。

もし社会的知性の心の道具箱として「交換促進装置」しかなければ一方的に利用されるだけという困った事態に直面することが当然考えられます。実際には「交換促進装置」だけでなく、交換関係にある相手が自分を裏切るかどうかに注意を払う、いわば「裏切り検知器」といった存在が心の道具箱の中に同時存在し、両者が協調して働くことで、相手に応じて協力関係を築いたり、関係を拒絶したりすることで、自分自身にとって有利な結果をもたらします。実際、「善人」とはこのバランスが絶妙の関係にある人々であることが実験で示されました。

ケリーたちの実験の結果は、このような協力的な人たちが、「人はすべて善人だ」と思い込んでいるお人好しなのではなく、自分を搾取しようとしている人もいることを十分に理解していながら他人とのあいだに協力的な関係を作ろうとしている人たちであることを示しているのです。

(本書 p.212)

そして面白いことに、他人を信頼しやすい高信頼者」と、他人を信頼しない「低信頼者」で、どちらがよりよく他人の行動を推測できるか実験を行ったところ、高信頼者のほうが高いスコアを記録した人のことです。では、高信頼者と低信頼者で何が異なっているか、著者は身近な人々に対してのみ交換促進装置が働く人が低信頼者であり、それ以外の人にも働きうるのが高信頼者であるとしています。この高信頼者、低信頼者の示す行動パターンが、異なる集団主義を生む原因へと結び付けられています。

集団主義社会では、内集団の人間を相手に交換促進装置が使われますが、相手が内集団の人間ならば搾取的は行動は殆ど取らないと考えられることから裏切り検知器が働くことは殆どありません。

その結果、集団主義社会では交換促進装置の発動に集団の手がかりが大きな役割をはたすと同時に、裏切り検知器があまり簡単に発動しない、低信頼者の心のパターンが生まれることになると筆者は考えています。つまり、内集団ひいきの相補均衡が存在している社会では、人々は心の道具の目立ちやすい場所に「集団」という大きなタグのついた交換促進装置を収納すると同時に、裏切り検知器は道具箱の奥の方の目立たない場所にしまい込んでしまうことになるのです。これを、とりあえず「低信頼者の道具箱」と呼ぶことにします。

( p.216)

これに大して、集団非重視主義社会または個人(普遍)主義社会ではどのようになると考えられるのでしょうか。

このような個人(普遍)主義的行動が相補均衡を形成している社会では、自集団の人間以外の人間とのあいだにも相互協力関係の形成が可能であるだけでなく、積極的に相互協力関係の形成を目指す必要があります。自集団の人間だからといって特に自分を重視してくれる訳ではないし、他集団の人間と付き合うからといって特に差別されることもないからです。そのため、心の道具箱に入っている交換促進装置から「集団」と書かれたタグがとりはずされることになるでしょう。

それと同時に、個人(普遍)主義的な相補均衡のもとでは、内集団ひいきの原理によって相互協力が保証されることがありませんから、交換促進装置はいつも裏切り検知装置と一緒に取り出す必要があります。そのため、裏切り検知器は、心の道具箱の目立ちやすい場所に、交換促進装置と隣り合わせに置かれることになるはずです。

(本書 p.218)

つまり、「高信頼者の心の道具箱」になるとされています。そして、日本人よりアメリカ人の方が他者を信頼する度合いが大きいという調査結果は、日本人は集団主義社会で過ごしているため「低信頼者の心の道具箱」を持っているから、アメリカ人は個人(普遍)主義社会で生活しているため、「高信頼者の心の道具箱」を持っているからと考えるとうまく説明できるとしています。さらにこの議論の延長線上で、リスク性向の違いとか、自己アピール度合いの違いとかを説明しています。このような

そのような行動から作り出された慣行を著者は「文化的スクリプト」と呼んでいて、そのような文化的スクリプトのセットを「文化の道具箱」と呼んでいます。基本的には、比較制度分析における制度の束と同じ概念でしょうか。そして、今日本社会が直面している問題は、グローバライゼーションに代表される政治、経済状況の変化により均衡が崩れてきたために、いわば新しい「文化の道具箱」が必要とされているのに、それがどのようなものであるのかがわからないことにあると、著者は見ています。

心の道具箱を整理しなおし、新しい社会環境で役に立つ心の道具をすぐに取り出せる場所に入れ替えること、そしてその道具を使いやすくするために役に立つ文化的スクリプトのセットが入った文化の道具箱を手に入れること―このことこそが、現在の日本人にとって必要なことなのです。

(本書 p.231)

そして残念なことに、というか当然のことでもありますが、この問題に対してはこれといった「正解」は見つからないだろうということです。

答えがすぐに見つからない理由は、現在の日本が直面している状況が、「古典的な個人主義」を生み出した産業革命後の状況と大きく違っているからです。現代の日本社会は、産業化と植民地化が進行しつつあった西欧の社会と比べても、格段に大きな機会費用途深刻なエージェント問題に直面しています。このじエージェント問題を解決するのに、個人の自律性を強調する「古典的な個人主義」の道具箱で十分だとはとても思えません。

その意味では、道具箱の整理と入れ替えに迫られているのは日本だけではないのです。近年になってアメリカやヨーロッパで信頼の研究が盛んに行われ、人々を結びつける関係資本の重要性が認識されるようになってきたのも、その背景に、このへんかが存在するからだと筆者は思っています。自律的な個人だけでは解決できないほど、エージェント問題が深刻化してきたからだ、と。

(本書 p.232)

本書における分析については納得出来る部分が多いのですが、「さいごに 文化はつくるもの」の主張にはちょっと違和感を感じます。「べき論」になった途端に「あれ?」という感じで。「文化は変えられるもの」ということには同意できますが、少なくともかつて「進歩的」文化人が唱えていた「個の確立」って著者が批判していた「心でっかち」な議論に私には見えてしまうのですが。自己で判断する力をつけろというのなら同意できるのですが。個とは社会も含めた環境との相互作用になかで成立すると考えたほうが良いと思うのですが。

また、アメリカは信頼社会で、日本は安心社会という捉え方では、例えば今問題になっているアリゾナ州移民法をめぐる騒動が理解出来ないのですが(「米政府対応に5割反対 不法移民訴訟の世論調査 - MSN産経ニュース」)。また、「gated community」の存在は、公的な領域だけを見ると信頼社会にみえる社会も、私的領域まで踏み込んで観察すると「安心社会」が存在しているのはないですか。また、米国社会における宗教の影響力の強さ、私的な結社や友愛会の存在は実は信頼社会だけではないことを示していませんか。日米を「内集団/外集団」に関する議論は、「本音/建前」の使い分けに関する「通説」と同類ではないかと私には思えます。あと、私が有害無益だと考えているのは「文系/理系」という分け方。実際には、個人は複数の集団に属し、それぞれ安心または信頼をベースに成り立っていると考えたほうが妥当ではないでしょうか。全面的に安心社会から信頼社会へ移行するという見方に関しては、表面的には見えない部分を見落としているように思うのです。私の理解が不足しているところもあるのでしょうが、ちょっとモヤモヤしたものを感じてしまいます。

2010/08/04

電子書籍化が進むと自転車操業が立ち行かなくなる?

最近、日本でもようやく電子書籍に本格的に取り組む動きが見えていますが、ちょっとばかり気がかりなことがあります。リーダーの乱立と電子書籍の囲い込みとかユーザとして気になっているところもあるのですが、本格的に電子書籍にシフトしたとき、出版社の資金繰りが立ちゆくかということです。佐々木俊尚(著)『電子書籍の衝撃』の「第4章 日本の出版文化はなぜダメになったのか」で「本のニセ金化」の問題を取り上げています。

たとえば新書で考えてみましょう。定価七〇〇円ぐらいの新書の場合、出版社から取次に卸す金額(行秋擁護では「正味」といいます)は五〇〇円ぐらいになります。この本を一万部刷って、出版社が取次に卸したとします。

この際、重要なのは、売れた分だけ取次からお金をもらうのではなく、取次に委託した分すべての金額を一旦取次から受け取れるということです。

だからこの新書を取次に卸すと、出版社はいったん取次から五〇〇万円のお金を支払ってもらえます。

でも仮に、一万部のうち書店で五〇〇〇部しか売れず、残り五〇〇〇部は返本されたとしましょう。そうすると出版社は、この五〇〇〇部分の代金二五〇万円を、取次に返さないといけないことになります。

そこで出版社はあわてて別の本を一万部刷って、これをまた取次に卸値五〇〇円で委託します。そうすると一旦五〇〇万円の収入になるので、返本分二五〇万円を差し引いても、二五〇万円が相殺されて入ってくることになります。

これこそが、本のニセ金化です。出版社は返本分の返金を相殺するためだけに、本を紙幣がわりにして刷りまくるという悪循環に陥っていくのです。

(本書 p.234-235)

以前、電子書籍化すれば在庫に対して固定資産税が掛からなくなるわけだから、在庫リスクがなくなる分だけ出版社にもメリットが有るはずだと考えていました。そうすれば品切れ、絶版で放置とかなくなるだろうと。しかしながら、電子書籍では、初版で一定部数刷るという必要がありません。実際のどのような取引形態になるのか当事者でないので分かりませんが、売れた時点で売上がたって、月締めとかで支払われるという形になるのではないでしょうか。でもそうすると、一旦前受金を受け取って後日精算という自転車操業が立ち行かなくなります。日本の出版社が電子書籍に消極的だったのは、このような事業上の問題を抱えていたのも一因なのではないかと考えられます。電子書籍が徐々に普及すると、うまく移行できないで資金繰りに行き詰まる出版社も出てきそうな。まあ、出版社の倒産は珍しくないとは言えますが。会社名に「新社」と付いているところ、倒産したあと、新しい会社に引き継ぐ形で再建されたところと聞いたことがあります。いまは、民事再生法とかで会社を存続させたまま再建できるようになりましたけど。