2010/09/17

宮元 啓一『わかる仏教史』

進化心理学等色々なことがきっかけになって、宗教についてもう少ししっかりした知識があったほうがいいと思い至って、最近宗教学関連の本も色々とあたっています。テリー・イーグルトン (著)『宗教とは何か』は、あまりの論点の外しっぷりに、はじめの方を読んだだけで読む気失せましたが。まあ、ドーキンスの言動は、創造論者との論争の中でエスカレートしているという背景を理解していないようですし。形而上学的な問題に事実を持って論争を挑んでも虚しいだけで、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」みたいにユーモアを持って対処したほうがいいとは思うんですけどね。

まあ、文部科学省の宗教統計調査の信者数を見ると日本の総人口の約2倍の数字が出るような混合宗教状態な日本に住んでいると、普段はあまり自分の宗教、信仰について意識することはありませんからね。私は、今ある姿だけでなく、どうして今のような姿になったのか、その歴史的展開についてどうしても気になる方なので、前からいろいろ謎なことがあった仏教史について宮元 啓一(著)『わかる仏教史』を読んでみました。神道は謎が多すぎなのと、手がかりの乏しさから多分本腰入れてかからないと無理なので(汗)。

著者の専門はインド哲学で、はしがきで次のように宣言しています:

わたくしは、宗教的には仏教徒ではなく、出世間への強いあこがれを持つアニミストです。

ですから、わたくしは、仏教については、強烈な哲学的関心はもっていますが、宗派的関心は全くもっていません。

(本書 p.iii)

その分、純粋に歴史的な変遷を知るには良いだろうと思ったのです。そのようなこともあり、本書の半分以上はインドにおける仏教史に当てられています。まあ、私の関心も仏教の源流にありましたから、丁度よかったのですが。ただし、日本の仏教学の中では必ずしも主流の見解とはいえないようですから、もう少し標準的な学説に基づく仏教史についても知っておいたほうがよさそうです。

一番の謎は、一時興隆を誇りながら、なぜインドの地から仏教が姿を消すことになったのかという問題です。つまり、なぜヒンドゥー教とイスラム教にとって変わられることになったのかという謎です。その謎については、初期仏教の出家至上主義によって出家と在家信者とのつながりが弱く、イスラム教が進出してきたときに教団を維持できなかったということのようです。

在家信者の生活を指導するなどということは、出家にとっては俗事だということです。仏教の出家たちは、だからこそ、そうした俗事にわずらわされることなく、立派な僧院の奥深くで、修行、教育、教学研究に先進することが出来ました。仏教の思想、哲学がインドでは突出した影響力を持ったというのも、そのためです。

しかし、そのぶん、仏教の出家たちは、固い絆で結ばれた在家信者の厚い壁によって守られるというふうにはなりませんでした。一握りの大パトロンに依存するばかりで、仏教の出家集団は、根無し草のようになっていたのです。

そのため、十二世紀から十三世紀にかけてのムスリム軍のインド大遠征のなかで、仏教の出家集団は、いともたやすく破壊され、十四世紀のはじめには、とうとうインドの地から消えてなくなりました。

(本書 p.66-67)

釈尊の教えを守って出家として修行に励もうとすれば、どうしても在家との関係は希薄になるというのが、世俗の荒波の中で教団を維持していく上での弱点であったというわけですね。ベンガル地方が最後まで仏教が残っていた地方だそうですが、バングラデシュのようにその地方でイスラム教が多いというのは、最後に残っていた仏教徒も結局イスラム教に改宗することにあまり抵抗がなかったということなのでしょうか。そのような論説も以前読んだ記憶もあります。実際、トルコが東欧を支配下においたときに、キリスト教にとどまった地方と、イスラム教への改宗が進んだ地方がありますが、ボスニアの場合はキリスト教でも異端派とされたボゴミル派教徒が多く、それゆえにイスラム教への改宗への抵抗感がなかったといわれています。ヒンドゥー教に押されつつあったことを思えば、在家の信者にとっては仏教から回収することに抵抗感がなかったとしても不思議ではありません。

この出家と在家の関係の問題が、同時に大乗仏教が興隆していくことになる原因にもなっています。

簡単にいえば、救済主義的な民衆宗教として成功を収めつつあったヒンドゥー教にあこがれた仏教の在家信者たちが、同じような救済主義的な民衆宗教としての、自分たちのための新しい仏教を作ろうとした、これが仏塔崇拝と連結して生まれたのが大乗仏教運動だとしますと、いろいろな話がうまく説明できると考えます。

(本書 p.100)

大乗仏教は、それ以前の部派仏教の大衆部に由来するという説もありますが、著者はバラモン教が救済主義的なヒンドゥー教として勢力を回復しつつあった時代背景により強く原因を求めています。もともと、仏教では信徒を救済してくれる超越者の存在を認めていませんでした。在家信徒は、出家集団を支える利益で良い来世に転生できるだけです。ヒンドゥー教の救済主義的な教えと比べると、在家信徒としては物足りなく感じたとしても致し方ないですね。そうなると、なんらかの救済主義的な教えを求める教徒も増えてくるでしょう。そのような在家信徒の期待と、興隆するヒンドゥー教の影響のもとで、大乗仏教が成立したという見解を著者は示しています。もちろん、ヒンドゥー教から一方的に影響をうけるだけでなく、大乗仏教、特に密教からのヒンドゥー教への影響もまたみられるそうですが。

ここで一つ疑問が残ります。インドの地では姿を消した仏教が、東南アジア諸国において比較的初期仏教の形態を残している南伝仏教として存続したのはなぜでしょうか。東南アジア諸国はインドの影響を強く受けていますので、インドと同じくヒンドゥー教またはイスラム教に席巻されたとしても不思議ではありません。南伝の上座部仏教ですが、その歴史を見ると大乗仏教の救済主義的な部分がある程度取り込まれているそうです。

アバヤギリヴィハーラ派は、やがて、大乗仏教、そしてさらには密教の要素まで大胆に取り入れました。五世紀に飢餓がスリランカ全土に広まったとき、この派は、民衆の救済活動を熱心に行なったといわれています。

そのため、スリランカ仏教最大の学匠ブッダゴーサは、マハーヴィハーラ派の人ではありながら、大乗仏教的な救済主義思想を、自派にも取り込む努力をしました。

十二世紀には、分裂状態に終止符が打たれ、マハーヴィハーラ派の仏教一本に統一されましたが、こういうわけで、スリランカの上座部仏教も、大変保守的とはいえ、大乗仏教の影響を多少は受けているのです。

(本書 p.146)

つまり、現在の上座部仏教では、基本的には出家主義は保持しつつも、初期仏教の出家至上主義なあり方は改めて、救済主義的な要素も取り入れられています。そのことによって在家信徒とのつながりをより重視するように部分的に転換を図ったとこが、現在にいたるまで大きな勢力を保つ要因になったということでしょう。

日本には、歴史的に中国経由で入ってきた大乗仏教がほとんどですから、インドにおける仏教史、そして南伝仏教の歴史は興味深いものがあります。しかし、「超越者」の存在を認ず、「形而上学」的な問も避けるべきとする教えは、「神」の存在する宗教からは果たして「宗教」としてみられるのでしょうか。初期に成立した阿含経典の解説読むと、内観法が中心だった時代の心理学説みたいですし、唯識論とかはまさに深層心理学です。大乗仏教になると、「超越者」が存在したり、「形而上学」的な論を展開したりと、普通に「宗教」っぽくなっていますが。

2010/09/04

田沼 靖一『ヒトはどうして死ぬのか―死の遺伝子の謎』

我々人間のからだでは、外傷によらずとも常に細胞が死に、そして新たに生み出されています。フリーラジカルとか放射線とかが細胞を傷つけることが蓄積されたことで、外傷によるものと同じようなメカニズム(ネクローシス)で死ぬものと思われていたりもしました。それが、同じ細胞死でもネクローシスとは異なるメカニズムによる、アポトーシスというプログラム細胞死が発見されたとき、これで不老不死への研究が前進することに期待を寄せた人が多かったのではないかと想像されます。田沼 靖一(著)『ヒトはどうして死ぬのか―死の遺伝子の謎』では、まず、細胞の死のメカニズムの概略を解説し、次にこのアポトーシスというメカニズムをうまく利用することで、細胞の生と死のメカニズムに異常をきたすことで起こるガン、アルツハイマー病等の難病に対して、より良い治療を施せる可能性に向けた研究について紹介されています。

このように紹介すると、著者は最終的には不老長寿に向けた研究を目標にしているように受け取られてしまうでしょうが、実は著者の信念は全く反対で、むしろ「死」は「罰」や「呪い」ではなく、むしろ「贈り物」なのだという考えを表明しています。

近代から現代にかけて、医療技術など「天寿をまっとうしたい」という願いをかなえる術は進歩していますが、その一方で死に備える心構え(死生観)は、かえって失われてしまったようにも感じます。「死」という宿命を特別に意識できる存在だったはずの私たちは、いま、歴史のかなでもっとも死を遠くに感じる時代に生きていると言ってもいいかもしれません。

私は、現代において真に求められるのは、不老長寿を実現する技術などではなく、科学から死の意味を問い直して「有限の時間を生きる意味」を知ることではないかと思っています。そして、「死の科学」を拠り所とした自分なりの新たな死生観を持つことが大事だと思います。

(本書 p.160)

「標準医療」では回避できない病や死から逃れるために「代替医療」にハマるのは、私は著者が述べたような死生観に問題があると見ています。だから、科学的に有効性を検証するとかいうことは、現在起きている「代替医療」問題の解決にはあまり役に立つとは思えません。「やればできる」の裏返しで、「誰かが何とかしてくれるに違いない」と過剰な希望を持ってしまっているのでしょう。人間の力の限界を前にして「死」とどう向き合うのか、それが問題です。

とはいえ、科学も全く無力なわけではなく、本書第4章「アポトーシス研究を活かして、難病に挑む」で紹介されているように、ガンに対してアポトーシスを促進したり、アルツハイマー病に対しては神経細胞のアポトーシスを抑制できるように出来れば、より根本亭な治療が可能となりますね。抗癌剤はどうしても分裂能の高い上皮細胞とかに副作用が出やすいので、薬物療法もずいぶん負担が軽くなるでしょうね。でも、人間はわずか2から3万の遺伝子で制御されているように、複雑なシステムで制御されていますから、アポトーシスのメカニズムに介入することは、思いもよらない副作用が発生する可能性もありますね。もし実現するとしても、targeted therapyの研究の進展と二人三脚で進めることになるでしょうね。

希望もあるものの、結局のところ問題は死生観なんですよね。