2010/11/25

松木一浩『農はショーバイ!』

TPP参加問題で、農産物輸入自由化の問題に再度焦点が当たっていますが、輸入自由化反対論に関して昔から疑問に思っていることがあります。農家の主張として、輸出産業の為に輸入自由化しなければならないはめになっているという被害者意識に基づく発言を耳にします。でも、その産業の発展により国が豊かになったことで、高価格の農産物を何とか買える人がいるのではないですか?国が傾いてしまえば、今のような高価格の農産物を買うことの出来る人は殆どいなくなってしまいます。農というからにはあくまでも「業=ビジネス」です。作り手側の都合だけでは事業がうまく回らないのは、他の産業と同じです。農産物輸入自由化反対の主張に対しては、そのような背景が透けて見えてどうにも素直に賛同できません。

ただ、日本の農業にも希望があると思えるのは、あくまでも「業」として農業に携わろうという志を持って努力している人がまだ存在することです。ビオファームまつきを運営している松木一浩氏もそのような方の一人です。松木氏の新著がその名もズバリ、『農はショーバイ!』です。松木氏の経歴がユニークで、「タイユヴァン・ロブション」のメートル・ド・テルまで上り詰めながら、贅を凝らした料理というものに疑問をいだき、有機農業に転身された方です。そして有機農業に取り組んだのも、有機農業という生産手段が素晴らしいと思ったからというよりは、自ら生産したものがお客様に喜んで買っていただけるよいうするにはどうしたらよいかと考えての事であるということです。

お客様には、ビオファームまつきの野菜がおいしい、値段に見合っているという理由で買ってもらいたいですし、実際に消費者の方は、そう思っているから購入してくれているのだと思います。それは、普通の商売と同じことです。商品が魅力的で、支払った対価に見合った価値があるから、消費者はお金を出して、その商品を購入していくれるのです。

(本書p.37)

食品偽装問題で、逆に消費者の国産品志向の強さは明らかでしょう。大量生産には、輸送に耐えられることを重視するために、犠牲にしているものがあります。もっと自信を持って事業として取り組んでいれば、自由化に打ち勝つことの出来る素地はまだあります。そのための取り組みへの支援なら、反対する人はいないと思いますよ。

2010/11/10

塩野 七生『十字軍物語 1』

色々ありまして前回の更新からちょっと間が開いてしまいました。まずは軽く再開したいと思います。

まずは大変見慣れたマークから始めたいと思います。

この白地に赤の十字型のマークは、言わずと知れた赤十字社の標章です。ジュネーブ条約等により、この標章を付けた施設や要員は戦場において攻撃を受けないことになっています。そのため、この標章の使用に関しては「赤十字の標章及び名称等の使用の制限に関する法律」で規制されています。残念なことに必ずしも守られていないことは歴史が示すところですが。このマークの由来ですが、赤十字国際委員会では以下のように解説しています。

1863

On 17 February 1863, a five-member committee, the future International Committee of the Red Cross (ICRC), met to study Dunant’s proposals.

One of its main objectives was to adopt a single distinctive symbol backed by the law to indicate respect for army medical s ervices, volunteers with first aid societies and the victims of armed conflicts.

The symbol needed to be simple, identifiable from a distance, known to everyone and identical for friend and foe. The emblem had to be the same for everyone and universally recognizable.

On 26 October 1863, the first International Conference was convened. It included delegates from 14 governments.

In addition to adopting ten resolutions, which provided for the establishment of relief societies for wounded soldiers - the future Red Cross and, later, Red Crescent Societies - it also adopted the red cross on a white background as the uniform distinctive emblem.

The history of the emblems

ではなぜこの図形が選ばれたのか、国際赤十字運動の発起人であるHenry Dunantの母国スイスの国旗の色を反転させたものとか諸説あるようですが、はっきりとはしていないようです。

ただし、国によっては同じ活動を行う組織でも異なる標章が用いられています。

このマークは赤新月社のマークで、イスラム諸国で赤十字社と同じ役割を果たしており、国際赤十字・赤新月運動として、一体となって活動を進めています。では、なぜ異なる標章、組織名となったのか、次のように説明しています。

1876-1878

During the war between Russia and Turkey, the Ottoman Empire declared that it would use the red crescent on a white background in place of the red cross. While respecting the red cross symbol, the Ottoman authorities believed that the red cross was, by its very nature, offensive to Muslim soldiers. The red crescent was temporarily accepted for the duration of this conflict.

The history of the emblems

そう、赤で十字というのはかつての十字軍を連想させて、イスラム教徒としては受け入れがたいという理由により、赤い新月のシンボルを用いることにしたということです。確かに、十字軍においてイスラム教徒と死闘を演じたテンプル騎士団の標章は次のものですから、イスラム教徒が抵抗感を感じるのも分かる気がします。

確かに、かつての仇敵の標章に似た標章を掲げることは抵抗があるでしょうね。そのように白地に赤の新月を標章にしているため、イスラム諸国では赤十字社ではなく赤新月社と呼ばれています。

このように近現代にいたるまで影響を及ぼした十字軍の歴史を、『ローマ人の物語』のシリーズで知られる塩野七生氏が『十字軍物語』として4巻のシリーズ物として出版が進行しています。第1巻にあたる『絵で見る十字軍物語』では、ギュスターヴ・ドレの挿絵と、フランソワ・ミショーの『十字軍の歴史』をベースにその全体的な流れを描いて見せてくれました。塩野氏の自身の文章からなる十字軍物語としては、実質的に塩野 七生(著)『十字軍物語 1』が第1巻となります。

塩野氏の歴史の叙述法については人によって好悪が分かれるようですが、著者の歴史観の織り込み方の巧みさなどが私の好みにあっています。歴史の記述においては、数少ない資料などから構成していくわけですから、全くの客観的な記述はありえません。当然書き手の歴史観が反映されることになります。一番いただけないのは、著者の今現在の価値観で当時の出来事を非難したりすることですね。はっきり言って興醒めです。ましてや、その歴史と全く関係ない著作時点での政治問題の是非について自説を滔々と述べたりしているとですね。読者を自分の史観に巻き込みたいと思うのなら、もっとスマートに行って欲しいと思う本もチラホラとあります。

さて本書ですが、次の一節で始まっています。

戦争とは、諸々の何台を一挙に解決しようとしたときに、人間の頭の中に浮かび上がってくる考えである。

と、ビザンチン帝国からの救援の要請を持って西欧を訪れた特使を引見した後に、法王ウルバン二世も考えたのかもしれない。

(本書 p.10)

このようないかにも塩野氏らしい書き出しで始まっています。一番興味深かったのは、なぜ十字軍運動が組織されるようになったのか、そのきっかけが書かれた「第一章「神がそれを望んでおられる」」です。

本書を読む前は、セルジューク・トルコに押されてその領土を失いつつあったビザンチン帝国と、レコンキスタでイスラム勢力への反攻が進みつつあった時代背景から半ば自然的に発生した運動であると思っていました。実は、その裏にはローマ法王と神聖ローマ帝国皇帝との確執があったとは。

「カノッサの屈辱」の話は、歴史の授業でも取り上げられる事件であり、その言葉は日本でもよく知られていると思います。法王グレゴリウス七世と皇帝ハインリッヒとの対立によって法王が皇帝を破門に処し、処分を解いてもらうために法王が滞在するカノッサ城外でひたすら許しを乞うた事件です。しかし、その後皇帝側の巻き返しにより、ローマでは親皇帝側の対立教皇が立てられ、法王グレゴリウス七世はローマに戻ることなく没したという話はあまり知られていないのではないでしょうか。そして、法王ウルバン二世の時代でもローマは皇帝派の支配下にありました。つまり、ウルバン二世はローマに入ることすら出来ずにいたわけです。日本の歴史で言うと、南北朝時代みたいなものでしょうか。法王派と皇帝派の対立は、イタリアルネッサンス史では頻繁に出てきますが、その対立の始まりはこのあたりにあるのでしょうか。

いわば、皇帝派に押されていた法王がその巻き返しを狙ったのが、十字軍のそもそもの発端であるというのが塩野氏の見立てです。

それにしても、「聖地奪還」に「聖都開放」というスローガンは、スローガンとしても上出来であったと言うしかない。

まず、西欧全域のキリスト教徒の胸を熱くしただけではなく、たとえ熱くならない人がいても、その人とて反対はしにくい。そのうえ、成功しようものなら、言い出した塔の人であるローマ法王の権威は飛躍的に上がるのだ。

ウルバン二世は、大勝負に打って出たのである。先任者のグレゴリウス七世は、雪の中に皇帝を三日三晩立たせておくことでローマ方向の権威を誇示したが、この強硬策のその後を自ら体験したウルバン二世は、ローマ法王の権威を、ローマ法王こそがすべての世俗君主の上に立ち指導できる力を持つということを、何十万という人間を東方に送り出し、武力でイェルサレムを奪還することで示そうとしたのであった。

(本書 p.23-24)

そして、この大勝負に法王は見事に勝利し、皇帝に対する法王の優位を回復し、ローマを皇帝の支配から取り戻すことが出来ました。それに対して皇帝の権威は著しく失墜し、晩年はドイツにとどまることが出来ず、北イタリアで寂しく過ごすこととなりました。

いわば、ヨーロッパ内部の問題が引き金となって進行されることになったイスラム教徒にとってはとんだとばっちりという感じですね。同じ聖典の民、そして聖地への巡礼を重視するために、イスラムの支配下にあってもキリスト教徒のイェルサレム巡礼は認められていたわけですから。もちろん、巡礼者が襲われることはありましたが、中世の治安状況ではとくにひどいというわけでもありませんから。このあたり、イスラム側から十字軍がどのように見えていたのか、『アラブが見た十字軍』を読むと理解が深まると思います。

それにしても現在にいたるまで禍根を残している状況を見るにつけ、内部の問題の解消の為に外部に敵を作るやり方は、結局のところ問題を別な形でより膨らませることにしかなりませんね。