2011/10/28

野矢茂樹 『語りえぬものを語る』

自明であることは普段明示的に意識されることはありません。不毛な論争の原因の一つは、自明な前提のすべてを必ずしも共有していないことがあります。哲学は、自らが自明と考えることを敢えて意識することで、自らの考えの前提を再考するのには役に立ちます。その様な意味で、野矢茂樹(著)『語りえぬものを語る』は、いろいろ考えさせられる謎を提供してもらいました。最近科学技術論で悩ましい議論が続いているので、科学哲学関連の所が特に興味を惹かれました。
本書の中で自由意志論に関連して、決定論を批判しているのですが、そこで科学に関して興味深い批判がなされています。
決定論であれ、非決定論であれ、もし自然科学によって人間の行動のすべてが語られうるならば、そこに自由の居場所はない。私が見据えているゴール、それはむしろこう述べることができるだろう。――自然科学は、世界を語り尽くすことはできない。
(本書p.450)
科学哲学的に反実在論の立場から見てもこの主張には同意します。だから科学の目的は真理の探求ではなく現象の妥当な説明であるのですが。何を持って真理であるといえるのか、それが不明である以上、語り尽くすことはできないのは当然です。でも、だからこそ科学には終焉はなく、大変喜ばしいことであると考えているのです。残念ながら真理に到達し得ないことはむしろ喜ばしいことだと考える変わり者はあまりいなさそうですが。
古典論理に基づいて議論をすすめと、正誤が不明な前提が存在すると、その議論は常に正しいと主張することができて、その「正しい」という主張自体が無意味です。そして、世界について語る場合、その前提をすべて明示的に示すことは現実には出来ません。私が反実在論を支持しているのはそれ故です。一見妥当に思える前提条件を置けば、どのような仮説も「正しい」と主張することができますから。信念の問題を古典論理で扱うのはちょっと厳しいのではないでしょうか。
結局のところ、科学において重要なのは「正しいか否か」ではなく、なぜ「妥当な説明である」と主張して良いのか、その基準こそが問題です。そこに科学哲学の役割があります。それ故、疑似科学問題においても、その正誤を議論することは不毛です。単に正しいと主張するならば、実際のところ何も言っていません。
では哲学はどうなのかというと、やはり終焉は訪れそうにないのですが。それはそれで喜ばしいことであると思うのですが、そう受け取る方はあまり多くないでしょうね。本書を読んでいても、真理に対するこだわりはなみなみならぬものを感じますから。

2011/10/13

マイケル・モーズリー、ジョン・リンチ『科学は歴史をどう変えてきたか: その力・証拠・情熱』

一般向けの科学史の書籍では、どうしても大発見に焦点を当てて、その発見を分かりやすく伝えるというスタイルになりがちです。その様な傾向の中にあって、マイケル・モーズリー、ジョン・リンチ(著)『科学は歴史をどう変えてきたか: その力・証拠・情熱』は、邦題から受ける印象とは異なり、「何が科学の歴史を変える原動力になってきたのか」という観点から科学史を描き出しています。

科学の歴史を語ろうとすると、偉大な科学者による大発見や大変革、あるいは彼らが天賦の才を発揮したときの話が中心になりがちだ。しかし、実際にはそこに至るまでの物語やその後の物語、そして歴史的な背景があるのだ。科学は何も無いところからは生まれない。科学は象牙の塔に閉じこもってはいないのだ。科学はその成果を実践する社会の一部であり、そしてその社会とは、政治、人格、権力、情熱、利益などが錯綜する場である。だからこの物語をひもとくと、政治情勢や宗教的風土の重圧を、共に生きる人々と同じように受けながら研究活動を行なっていた科学者たちに出会うことになる。その様な背景を知ることによって初めて、その時その場で何故のその偉業が達成されたのかを知ることが出来るのである。

(本書p.9)

本書では科学史という縦の流れだけでなく、それぞれの時代の社会の中での科学という、横の広がりからも科学の歴史を捉えています。それにより、なぜその様な大発見がその場、その時になされたのか、逆に何が発見を阻害していたのかが理解できるようになっています。私は、ある出来事に至る縦の事象の連なりだけでなく、社会などの横の広がりを同時に見ることなしには、歴史は理解出来ないと考えています。日本に「Science」が「科学」として入ってきたのは、そのような重圧の最も大きかった時期を過ぎ、その立場がある程度確立されてからですから、その成立史を知ることは科学への理解を深めるためにも役に立つはずです。

目次

はじめに
淡いブルーの点
科学の今/その場、その時/カネ/性格/幸運/反常識
1 宇宙
そこには何があるのか
皇帝の王宮/怒りっぽいデンマーク人/天体のハーモニー/確信/円の中の円/貧しい数学者/ポーランドの修道士/宇宙の神秘/頭脳の邂逅/95の論文/ケプラーの法則/オランダ人の眼鏡/完璧な視界/科学の父/大航海時代/賭け/重力/不変の法則/カネを追え/ビッグバン/不確実性
2 物質
世界は何でできているのか
原子/笑う哲学者/錬金術/17世紀/化学革命/プリーストリーの空気/晩餐会/気球戦争、ガス戦争/分解/革命/ロマンティックな科学者/合成の時代/世界大戦/頭の中にあるもの/謎めいた放射線/原子/大聖堂の中のハエ/大量消費社会/未来
3 生命
私たちはどうやってここまで来たか
有用植物/分類/地質屋スミス/骨格の復元/絶滅/何歳?/熱い岩/悠久の時の流れ/進化の痕跡/長い首/生存競争/自然淘汰/ダーウィンを超えて/世界を変える/大陸のジグソーパズル/冷戦がもたらしたもの/生と死/偶然の生き残り
4 エネルギー
無限のエネルギーを手に入れられるのか
水の社会/オランダの風/永久運動/満月の人たち/電気、電気、電気/蒸気/特許の威力/蒸気の時代/ヴィクトリア時代と効率性/電気を発する魚/情報の流れ/実験と実践/個人的エネルギー/電流戦争/放射能の不思議/理論の猛追
5 人体
生命の神秘とは
解剖学者/死体解剖/機械としての人体/実験重視/生命とは/化学の誕生/ホルモンの時代/細胞/微小生物/医師による死/細胞の内部/DNAの時代/DNAとは/生命の神秘
6 脳
私たちとは
古代エジプト人の考え/脳が研究対象に/死体と生体の観察/暗黒の時代へ/新たな希望/明らかにされる脳/啓発された心/感情の再登場/何が潜むのか/部分、部位/網の目/新世紀の開拓者/これから

本書を読んで思ったこと。やっぱり社会的な要請と何らかのつながりがないと科学研究の資金獲得は難しいですね。科学者はすべからく実用に直結した研究をすべきというわけではなくて、その研究分野の成果物を利用している産業が盛んであれば、自ずととその分野での科学研究へも資金が流れていくということです。資金が無限にあるわけではない以上、科学の分野間での資金獲得競争もあるわけでして、そうなると裾野の広い分野のほうが支持者が多くなるのは当然のことですから。

2011/09/18

『ぼくは上陸している(上)(下): 進化をめぐる旅の始まりの終わり』

スティーヴン・ジェイ・グールド (著)『ぼくは上陸している (上): 進化をめぐる旅の始まりの終わり』、『ぼくは上陸している (下): 進化をめぐる旅の始まりの終わり』のタイトルは、もし「9.11」が起きなれば別なタイトルになって出版されたでしょうね。それが、一番初めの「1章 ぼくは上陸している」と、締めの「31章 2001年9月11日」を読んで感じました。「9.11」が起きた2001年9月11日から100年前、1901年9月11日は著者の祖父が移民としてエリス島に上陸した記念の日であり、本書のタイトルも、祖父が入国早々に購入した英文法の教科書への書き込みから取られています。本来なら祖父の移住100年を祝うはずの日にあのような出来事が発生してしまいました。そして断続平衡説の提唱者として、「9.11」は歴史の中の大きな断続点として認識していることが本書の内容からも伺えます。

上巻目次

  • はじめに
  • 第一部 連続の中断
    • 1章 ぼくは上陸している
  • 第二部 学問間のつながり―間違った分割への科学的な判断
    • 2章 想像力なき科学も、事実なき芸術もありえない
    • 3章 ジム・ボウイの書簡とビル・バックナーの股間
    • 4章 素晴らしきものすべての真の体現者
    • 5章 『アンデスの山奥』での芸術と科学の出会い
  • 第三部 ダーウィン以前と副産物
    • 6章 マルクスの葬儀に出席したダーウィン主義者の紳士
    • 7章 クルミの殻の中の先史人
    • 8章 フロイトの進化論的空想
  • 第四部 思想の古生物学におけるエッセイ
    • 9章 ユダヤ人とユダヤ石
    • 10章 化石が若かった頃

下巻目次

  • 第四部 思想の古生物学におけるエッセイ (承前)
    • 11章 梅毒とアトランティス大陸の羊飼い
  • 第五部 賽を投げる―進化の縮図六題

    進化論の擁護

    • 12章 ダーウィンとカンザスのマンチキン
    • 13章 ダーウィンの堅牢な館
    • 14章 あらゆる理屈づけのためのダーウィン

    進化と人間の本性

    • 15章 少ないほどほんとうに豊かな場合
    • 16章 ダーウィンの言う文化の程度
    • 17章 天才ネズミの内と外
  • 第六部 エヴォリューションの意味と描画

    定義の始まり

    • 18章 嫌われ者の"E"で始まる言葉の意味やそもいかに
    • 19章 残された人生の初日
    • 20章 サン・マルコ大聖堂の拝廊とパンジーン説のパラダイム

    構文解析と処理作業

    • 21章 リンネの幸運
    • 22章 アプシェリッヒ!(ひどすぎる)
    • 23章 尾羽のおはなし
  • 第七部 本来の自然な価値
    • 24章 在来植物という概念についての進化論的な視点
    • 25章 思考と臭気に関する旧来の誤り
    • 26章 人種の幾何学者
    • 27章 ハイデルベルクの大生理学者
  • 第八部 「ぼくは上陸している」からちょうど一〇〇年の二〇〇一年九月一一日の勝利と悲劇
    • はじめの断り
    • 28章 ハリファックスの善き人々
    • 29章 アップル・ブラウン・ベティ
    • 30章 ウールワースビルディング
    • 31章 二〇〇一年九月一一日
  • 訳者あとがき

「20章 サン・マルコ大聖堂の拝廊とパンジーン説のパラダイム」は、旧約聖書の天地創造の物語を題材にサン・マルコ大聖堂拝廊に描かれたモザイク画を題材に、著者の唱える断続平衡説という見方が、進化を説明するにあたっていかに妥当なものであるかを擁護しています。

きっかけは旧約聖書創世記第1章において一日目に光を創造し、三日目に大地と水、そして植物まで創造したにも関わらず、二日目にはわずかに水を区分けしただけなのはその前後に比べてあまりにも小さなエピソードではないかという著者の疑問です。その疑問が、サン・マルコ大聖堂拝廊に描かれたモザイク画をみて氷解したという話になっています。

サン・マルコ大聖堂拝廊に描かれた天地創造の物語は、あらゆる可能性を秘めた未文化のカオス状態から始まっている。一枚目は、ハト(神の聖霊の象徴)が均質ではあるが混乱した波の上を飛んでいる。そこから分化が始まる。一日目は垂直の面が暗闇と明かりを分けている。二日目は水平面(波の上を転がるボーリングの玉)が、川と雨を分けている。三日目は陸地の水平と垂直の縞が、主題は追加ではなく分化であることを強調している。神が天空の下の地上を陸地と海という二大要素に分化しているのだ。

(本書下巻p.132)

つまり天地創造は、創造という言葉から直接感じ取られる「追加」の物語ではなく、混沌から次々と分化させることで創造していったという、より古いギリシャ語聖書にみられる物語であるという解釈です。

ところが、創世神話を連続的に前進する物語―たとえ好ましくないとしても、たいがいの民族集団で間違いなく一般的なテーマ(人間の好みと自然の見かけ双方を含む何がしかの入り組んだ理由による)―として紡ぐ場合、文化には基本的にに種類の選択肢しか無い。その様な連続的先進の物語は、「連続的な追加」(最初にこれを造り、次はそれに最もよいこれを付け足して、といった調子)か「改良を伴う分化」(最初に未発達の可能性を秘めた偶発的な産物を含む大量のスープから始まり、しだいに凝結が生じ、分化を繰り返しながら凝結が進む、といった調子)のいずれかだったりする。それ以外のパターンもあるかもしれないが、創世神話は間違いなくこの二つの根本的な物語を含みうる(たいていはそうなっている)。しかし、追加と分化は、連続的前進というテーマのもとで構築された創世神話を象徴する精神活動の一番の領域が何かを教えている。

(本書下巻pp.136-137)

断続平衡説は種の分化という考え方が基本にありますから、分化という考え方の方がより自然であるということを、聖書の創世神話を題材にして主張しているわけです。ただ、このようなエッセイを書いたからといって、著者は創造説を支持しているわけではないですけどね。でも、誤解する人がいても仕方ないとはおもいますが。米国の進化論を巡る論争状況では日和見論的に見えてしまっても仕方ないのかもしれません。ユーモアを解する心の余裕を失っている人多そうですから。

私は、ドーキンスとグールド、そしてそれぞれの支持者の間で繰り広げられた連続か断続かという論争は不毛だと考えています。遺伝子を中心に見れば連続に見えますし、表現を中心に見れば断続に見えるでしょう。犬種によってあれほど大きな見かけ上の違いがありながら、同じ種であるというように、遺伝子型の僅かな違いは発生過程において大きな変化を表現しますから。

「5章 『アンデスの山奥』での芸術と科学の出会い」で、著者は人文主義者が自然に抱いていた調和とか美意識を、ダーウィンの進化論が打ち壊してしまったことに対して次のように述べています。

ダーウィンは、そうした冷たい哲学を持ち前の豪胆さでしっかりと受け止めた。自然の成り立ちに希望とか倫理を読み取ることはできないし、そうすべきでもないと論じている。人間の立場からの美的真理とか倫理的真理という概念は、人間の言葉で組み立てられるべきものであって、自然の中に「見つける」べきものではないのだ。それらに対する答えは自分たちのために構築し、自然に対しては、別の種類の疑問に答えてくれるパートナーとして接するべきなのだ。人生の意味に対する答えを自然からもらおうなどと思ってはいけない。問うべきは、宇宙はどのような構造なのかといった疑問である。自然に対してそれ自身の領域の独立性―人間の都合にとらわれない答え―を認めるならば、慎ましやかでのびのびとした自然の素晴らしい美しさを認識できるだろう。そうなれば、自分たちの願望や恐怖を和らげるための倫理的なメッセージを自然に求めるという不適切で不可能な探求から解放されて、自然に接することができるようになる。自然の独立性に正当な敬意を払い、自然のあり方を人間の都合とは異なる美や霊感のあり方として読み取ることが出来るようになる。

(本書上巻pp.192-193)

この文章だけを読むと単純な自然賛美を諌めただけのように見えます。でもこの記述に至る流れを見ると、実際には創造論者の主張に対して暗に諌めたものと読み取れます。この章のタイトルは、風景画家フレデリック・エドウィン・チャーチの代表作『アンデスの山奥』にちなんで付けられたものですが、チャーチが抱いていた信念について次のように述べています。

なぜならチャーチは、フンボルトとは違い、創作と心の平安の源としてキリスト教信仰を最重要視しており、自然は本質的に全体として調和しているという考え方も信仰に負う部分が多かったからである。

(本書上巻p.185)

ここでの「調和」とは、キリスト教信仰から見てあるべき調和であり、信仰を源泉とする価値観を自然に投影したものです。この主張の根拠は、チャーチの蔵書リスから見て取れると著者は指摘してます。

チャーチの蔵書リストで重要なのは、所有していなかった本なのである。チャーチは、フンボルトの著作の素晴らしいコレクションを所有していた。動物の地理的分布と熱帯生物学に関するウォレスの著書も購入していたし、ダーウィンの『ビーグル号航海記』と『人間と動物の感情表現』(1872)も購入していた。進化は生命物質がもたらす内的な力によって否応なく前進的に進むという考えを支持したクリスチャン進化論者たちの主要な著作も所有していた。例えばH・F・オズボーン、N・S・シェイラーといった人たちである。ところが、ダーウィン進化論の中枢をなす『種の起源』(1859)と『人間の由来』(1871)は所有していなかった。更に重要なのは、機械論あるいは唯物論的な著作は一冊たりとも集めていなかったらしいことである。E・H・ヘッケルの文字は一つもないし、T・H・ハクスリーの著書は宗教に関する者一冊のみである。この両人の著作は、十九世紀後半における進化論の一般向け著作としては売れ行きにおいて群を抜いていたにもかかわらずである。

(本書上巻pp.189)

進化論者でもリチャード・ドーキンスは過激な論調で創造論者を攻撃していますが、本書の場合はやんわり諫めるような形で表現されていて、両者の違いがなかなか面白く感じます。私としては、芸術や宗教において自らの価値観で自然を賛美することはいっこうに構いません。しかしながら科学においては、人がこうあって欲しいという願望に基づいた姿を、自然に対して押し付けるのは控えるべきでしょうね。確かに人間の美的感覚には必ずしも一致するとは限りませんが、それでも驚きと共にその美しさは十分感じ取ることは出来ますから。

2011/09/17

橘玲『大震災の後で人生について語るということ』

橘玲(著)『大震災の後で人生について語るということ』を読んで、著者ほど楽観的になれない私は悲観的にすぎるのでしょうか。日本が徐々に衰退に向かうシナリオなら、著者の意見にもうなずけることがあるのですが。私はグローバライゼーションで経済、情報が密接につながっているシステムでは、日本発の危機は一般に考えられている以上に広範囲に被害を及ぼしてしまうと予測しています。なぜなら日本が債権国だから。もし日本で債務危機が発生して外貨準備を取り崩すとなったら、結果として米国債を叩き売ることになります。そして米国債市場が動揺すれば、世界の金融システム全体が無事であるとはどうしても思えないのです。なので、国際分散投資でリスク分散を測ったつもりでも、米国のCDOで起きたのと同じくいざというときに実は分散されていなかったという事態に直面すると考えているんですよね。

ではどうするればいいかというと、橘氏が推奨するように「価値があるもの」か「価値を生むもの」に投資するしかないんですけど。最近金がブームらしいですけど、金は市場が小さい上に価値は産まないですからね。戦後日本のような状況まで経済システムが崩壊すると、生存に必須ではないものは結局叩き売るしかない状況になります。では農地かというと、自然災害、気候変動のリスクに晒されて、なんといっても持って逃げられません(苦笑)。結局自分自身に投資するのが一番ということになるのでしょうか。まあ、万策尽来たら仕方ないと達観するしか無いですね。

2011/08/18

通信?表現?

コンピュータにおける自然言語処理に関する論争を契機として、私は言語には通信の手段としての役割と、表現の手段としての役割の二面性があると考えるようになりました。そして、通信であるか、表現であるかは、権利と義務において大きな違いをうみます。特に民主主義国家ではそうです。

通信の手段であるならば、個人のプライバシーとしてその秘密は基本的な権利として認められています。会話内容を自らの意思で公開しない限り、どのような内容であってもあくまでも当事者間の問題であり、原則として通信したものだけでは責任を問われることはありません。もちろん、リークなどによって公になってしまうと、漏れた内容に関して不適切であると責任追及されることはありますが。ただし、通信は特別な取り決めがない限り基本的には非公開が原則ですので、通信内容を漏洩させたことにたいしては公益に絡まない限りにおいて責任を問うことが出来ます。規制の体系も基本的にプライバシーを守る方向に整備されています。そして通信に対する検閲に関しては、一般には快く思われていません。

これに対して、表現の手段であるならば、基本的には公の場で披露されることが前提です。ただし通信の自由と異なって、表現に関しては表現者の責任においてその内容を公開することが大きな違いになります。そのことを端的に表すのが「文責」という言葉です。公開した内容に異議申立てがあった場合、公開した人の責任において対応しなければいけません。つまり内容に関して常に責任を問われる可能性があるということが、通信の場合と大きく事情が異なるところです。そして、不特定多数が受け取りうるという性格上、民主主義国家においても最低限守らなければいけないルールが定められています。さらには民事訴訟が絡むと結構厄介で、表現の自由に関してはSLAPPによって発言を封じること問題視されています。何らかの支援が受けられず、また自前で対抗手段をとれる財力がなければ、必要とされる弁護士費用と、割かなければいけない時間を考慮すると、結局口をつぐむことになります。

このように通信と表現は、自由と責任に関しては、そのあり方に大きな差異が存在します。

それで、あきみち氏の次のエントリーを読んで、ソーシャルメディアによって通信の手段と表現の手段が融合してきたことについて色々考えさせられました。

結局、同じメディアを使うことによって、使っている本人にとっては通信の手段として使っているつもりであっても、その内容を公開してしまえば表現の手段として使っているとも取れるということです。

ブログ、mixi、Twitter、Facebook、その他ネット上のサービスで自分が行った行為を赤裸々に書いてしまったがために炎上してしまうという事例が増えつつあります。 日本では、飲酒運転等の告白が最近話題ですが、 海外での極端な事例としては、たとえば、イギリスの暴動で略奪した品物をTwitpicに投稿したことによって逮捕されたという事件がありました。

Geekなぺーじ : ネットにおけるオープンマインドとネット規制の話

本人にとっては、一般に公開されていて、その内容について責任を問われうるという意識は全くないのでしょう。いつのやり取りしているメンバーとメッセージのやり取り(=通信)をしているだけで。注意して使えばいいかというと、人間にはミスがつきものです。Twitterでわいせつ画像をDMで送ったつもりが、一般公開でTweetしてしまい辞職に追い込まれた米議員の例などもあります。結局、オープンにするには不適切なメッジージが本人の自覚が全くなしにオープンになっていくのなら、それは表現として規制されるべきだというのが、ネット規制推進派の根底にある考え方なのでしょう。技術は融合しても、制度は融合されていないという、過渡期にあります。そして、新たなメディアの出現に対して、自由と規制に関する制度をどのように変容させていくのか、いまだ社会的な合意は得られていません。

その様な過渡的な状況に対して、私は基本的にメディアを使い分けることで対応することにしています。メール、Twitter、ブログ、Tumblr、Facebook、そして最近ではGoogle+ですが、個人の中では一応使い分けを行なっています。ちょっとTumblrの使い方とGoogle+の使い方で重なる所が多くて、最近Tumblrのほうは更に更新頻度落ちていますが。まあ、器用な方は同じメディアを使っていても自然と使い分けできるのでしょうが、私には無理です(汗)。

でも、基本的には「情報は自由になりたがる」傾向がありますので、公の場所でやらないこと、できないことはネットでも同様です。リアルでも内緒話が噂として広まっていくのと同じで、ネットではより迅速にうわさ話が拡散していきます。こればかりはネットというメディアのせいではなく、人間の性のようなものでしょうから、致し方ないですね。

2011/08/17

Google+試用中

最近ちょっとGoogle+試用中です。いまのGoogle+は、提供されている機能とか利用者の使い方を見ていると、なんかTumblrと同じような雰囲気のサービスになっていますね。私がそのような使い方をしているというのも影響しているのかもしれませんが。

ソーシャル能力不足しているのにもかかわらず、ソーシャルサービス増やしているので、ちょっと限界超え気味。コメント欄とか管理しきれないので、一旦閉鎖します。ZenBackを貼りつけているので、ソーシャルでなんかコメントがあれば反応できるかもしれません。

2011/08/04

長沼毅『世界をやりなおしても生命は生まれるか?』

朝日出版社、中高生向けの特別講義をベースに、専門的な内容をわかり易く解説した本を次々と出版していますね。『単純な脳、複雑な「私」』とか、『とんでもなく役に立つ数学』とか。別に批判しているわけではなくて、なかなかうまいやり方ですね。「一般向け」という漠然とした対象像で語るよりも、「専門的な知識は持たないもののテーマに関心をいだいた中高生」というある程度具体化した対象読者層を念頭において語ったほうが、語り手の方も話を構成しやすいですから。長沼毅(著)『世界をやりなおしても生命は生まれるか?』も、極限環境微生物の研究をベースに、生命の起源とか地球外の生命の存在、そして「生命とは何か」という、生物学を学んだものなら誰でも一度は思い描くであろう問題にまで話を進めています。

生物の進化を考える上で早くからその問題が認識されながら、その研究にはかばかしい進捗が見られない問題の一つに「生命の起源」の問題があります。原始地球の環境で生命活動が成り立つ条件を探ろうとしても、常に解決困難な壁にあたってきました。基本的な素材が生成されることは分かっているのですが、そこからどのように組織化されていったのかを理解するのが難しい。そのような困難に直面している状況を打開してくれるかもしれないのが、本書の著者が専門とする深海熱水域の生物圏に棲息する微生物の研究です。深海熱水域の環境は原始地球に近いと考えられますから、そのような条件で棲息する生物の生命現象を進化発生生物学的アプローチで研究を進めれば、生物の起源に対する有力な手がかりが得られることが期待できます。

そのように生命の起源を探っていくと、「生命とは何か?」というより根本的な疑問に立ち至ります。著者も次のような問を発しています。

それでも「生命とは何なのか」という問題は相変わらず大きすぎて、普通の人の手にはおえません。だから僕は「『生命とは何か』とは何か」という、複雑な問にもう一段変形しました。つまり、「生命とは何か」という問題そのものは一体どいういうことを問うているのか。こういう二重構造の質問をすることが、科学者や哲学者の特質です。そして、こういう二重構造の問題のことを「メタな問い」と言います。メタな問いを考えることで、と割れてすぐに出る答えではなく、その問題の本質が見えてくるんです。

(本書p.23)

結局「生命とは何か」という問いに生物学が妥当な説明を与えることは出来ず、「『生命とは何か』とは何か」という生物学の哲学の問題としてまずは考えていくしかないということですね。そして生物学の研究成果によって、このメタな問題をどのように考えるのが一番妥当であるかということを探っていくということになるのでしょう。でも、そのように考える以上、生物学に出来るのは生命をどのように定義すれば「生命とは何か」という問いをうまく構成できるかであって、「生命とは何か」という問いそのものは形而上学的な問いとして、生物学の哲学にその問題を任せることになります。「生命の本質」という問題も、それは追求すべき答えなのではなく、追求する側が抱いている生命観の問題であると捉えています。真理という問題も、科学的方法論において真理であるとどのように証だてることが出来るのか、私にはさっぱりわかりません。真理というのは対立仮説の存在確率がゼロであると定義すると、そのようなことが科学的に立証することが出来るのでしょうか。凡人でしかない私にはさっぱりわかりません。

でも、どのように問題を組み立てたらいいのか考えるというのは、大変ですけど科学の一番の面白みのあるところですよね。本書の著者のように敢えて厄介な問題に突撃していく方を見ると、すごいなあ、面白いなあと感じます。

2011/07/20

長谷川 英祐『働かないアリに意義がある』

進化論で利他的行動をどのように説明するか、未だに論争が続いている問題です。長谷川英祐(著)『働かないアリに意義がある』は、真社会性生物の研究者として有名な著者によって、最新の研究成果をわかりやすく解説されています。

本書の表題に関連した、「第2章 働かないアリはなぜ存在するのか?」が、効率性と継続可能性の間のジレンマと絡めて読むと興味深いテーマとなっています。

つまり誰もが必ず疲れる以上、働かないものを常に含む非効率的なシステムでこそ、長期的な存続が可能になり、長い時間を通してみたらそういうシステムが選ばれていた、ということになります。働かないアリは、怠けてコロニーの効率をさげる存在ではなく、それがいないとコロニーが存続できない、きわめて重要な存在だと言えるのです。

重要なのは、ここでいう働かないアリとは、第4章で紹介するような社会の利益にただ乗りし、自分の利益だけを追求する裏切り者ではなく、「働きたいのに働けない」存在であるということです。

(本書 p.75)

アリのコロニーを取り巻く環境は常に変動していますから、必要とされる労働力も当然変わってきます。環境の変化には、生殖活動で個体数を変動させることでは間に合わないものも当然あります。特に必要とされる労働力が急激に増加したときに、既存の労働力を最大限働かせる対応では、個体の疲弊によって最低限必要とされる労働力さえ確保できない事態に陥り、それがコロニーの壊滅につながるリスクが存在します。そのため、環境の変化に反応する閾値の違う個体が集団に存在し、一定数の個体が働かない状態の集団が生き残ったと考えるのが妥当だということです。

もちろん、このことは効率性を軽視していいということを意味するものではありません。個体が生きて行くためには当然ながら資源を消費しますから、余裕がありすぎても競争的な環境のかなで生き残ることは出来ません。この「効率性」と「生存可能性」のバランスが絶妙なものが結果として生き残ってきたということです。この微妙なバランスは人間の集団にも当てはまることでしょう。単一の評価基準で判断するのは分かりやすく、また一時的に繁栄するかもしれませんが、結果として生き残ることはできないんですよね。生存可能性を高めることは、非効率に見えるのが難しいところです。

実際効率性の基準から見れば非効率と判定されるでしょうし、軍拡競争のように本来生存可能性を高める努力が裏目にでることもあります。我々は環境を完全に統制することができない以上、生存を保証する絶対的な基準を創り上げることは不可能です。「効率性」と「生存可能性」のトレードオフに最適解が見出されるか、私は否定的です。

終章に著者の科学哲学的信念が表明されていますが、この記述を読む限り「科学的とは何か」について私は著者と価値観を同じくしています。

多くの研究者(プロを含む)は、教科書を読むときに「何が書いてあるかを理解すること」ばかりに熱心で、「そこには何が書かれていないか」を読み取ろうとはしません。学者の仕事は「まだ誰も知らない現象やその説明理論を見つけること」なのです。優等生とは困ったものだと「変人」である私は思います。

(本書 pp.183-184)

私も、著者の主張と同様の趣旨のことを叩きこまれましたが。やはり「変人」なのか…。ま、否定はできませんが。

科学において新たな知見が得られるということは、既存の教科書に新たな記述が加えられるか、既存の記述が書き換えられるということを意味しますから、教科書とは正しいことが書かれている本ではありません。その記述が示す研究成果の確からしさには濃淡があるので、教科書の記述では観察される現象がうまく説明できない、というところから新たな理論が打ち立てられ、そして教科書もその新たな理論に合わせて改定されていきます。つまり教科書はある時点の研究成果のスナップショットであって、真理が記述された正典ではありません。

未解明問題は、問題が存在することが解明されただけでも理解が進んでいると言えます。

生物の進化や生態の研究には、まだまだ何が出てくるかわからない驚きが残っていると私は思いますし、驚きがないのなら、そんな研究はもうやめたほうがましだと思います。

(本書 p.184)

生物の研究は、未解明問題が解明されれると同時に、今までその存在が知られていなかった問題も明らかになるということがよくあります。驚きが尽きることがないという楽しさがある反面、確固たる基盤であると信じていたものがいつ崩されるかわからないという不安を抱かされます。それ故、本質という確固たるものに縋りたくもなる時があります。でも本質とは結局のところ研究対象に存在している性質ではなく、研究者が対象に対して抱いている信念にすぎない、私はそのように考えています。

2011/07/08

ハロルド・ハーツォグ『ぼくらはそれでも肉を食う ― 人と動物の奇妙な関係』

「生物とは何か」について明確な境界線を引けるか何度か考えたことがあるですが、どうしても境界問題を解消することが出来ず、明確な境界線など引けないという結論に至ってしまいます。境界線上にいるものとして昔から議論されていたのはウイルスがありますが、SFの世界で昔から関心が寄せられてきたのがロボットの問題です。自律的に行動できるロボットには、アニマルライツと同じくロボットライツを認めるべきなのでしょうか?有機系素材で構成されて、さらには自己増殖機能もあれば?また、コンピュータネットワークという仮想空間で自律的に行動し、自己増殖まで行えるとしたら、それは「生物」と見なすべきなのでしょうか?ここで、有機系素材という言葉を使いましたが、疾病によって金属製の人工臓器に置き換えられたとしたら、境界線場に位置することになるのでしょうか。また自己複製能力という言葉を使いましたが、生殖能力が失われている場合はこれも境界線上に位置することになる?といった具合に、一貫性を持った定義をひねり出そうとするとどこかに無理が噴出してきて、毎回断念する結果に至ります。とはいえ、何らかの作業仮説を持っていないと判断に困ることもあるので、私個人としては「食物網の中で依存関係にあるもの」を基本的な要件とすることにしています。ここで問題になるのは「個体」という概念で、粘菌や真社会性動物は、どの単位を「個体」と捉えたらいいのでしょうか。粘菌にとって個とはひとつひとつ細胞でしょうか?真社会性動物にとっては、コロニーが個であって、我々が個体として認識しているのはいわばコロニーの臓器の一部と見たほうがよい?これも私にはよく分からない問題です。

人間がなぜ「生物とは何か」について関心をもつのか考えてみると、人間の宗教、文化には普通何らかの食のタブーや殺生戒が存在しているからではないでしょうか?生きとし生けるものを殺さないとする信条にとって、生物とは何かという問題は悩ましい問題を引き起こします。仏教など、殺生戒の対象が広い宗教では、ちょっとしたことでも戒律に引っかかってしまいます。自分でも気づかないうちに私たちの身体に備わった生体防御機構が、日夜大量虐殺を行っています。では生体防御機構を切ってしまうとどうなるかというと、食物網における分解者がいわばリサイクルされるべき物と認識して、日和見感染のように早速リサイクル作業に取りかかりはじめますので、生きて行くことは困難です。第一、生きて行くためには食物を取らなければいけなくて、動物に生まれついたからにはその食物は他の生物、ということになります。生きて行くからには食べなければならず、食べるためには結局誰かが生き物を殺さなければいけない、というのは生物にとっては性のようなものです。植物も他の生き物が死んで分解者が再利用出来るような形にしてくれないと、必要な栄養素が摂取できないので、間接的に他の生物の死に依存しています。もちろん、虫を捕らえる食虫植物とか、天然の焼畑農業を行うユーカリとか、積極的に死をもたらす植物もいますが。なぜ私が「生物は食物網の中で依存関係にあるもの」であるとしているかというと、このようなことをつらつらと考えていたからで。結局霞を食べて生きて行くことが出来ない以上、どこかで妥協を図る必要に迫られます。仏教で托鉢で食べ物を賄い糞掃衣をまとうということは、生き物としての性から逃れられない中で、現実的な解決策として考え出されたことなのでしょう。

そのような訳でして、ハロルド・ハーツォグ(著)『ぼくらはそれでも肉を食う ― 人と動物の奇妙な関係』の論旨には深く賛同します。現実問題として、動物をどのように扱うべきかについて、原理原則に忠実に行動するとか、主義主張に一貫性を持たせるのは解決できない境界問題に直面するだけです。論理でその問題が解決できるのなら、「常識」という人工知能研究の難題は解決できるのですが、いまだ解決の目処が立っていません。論理だけで解決しようとすると、結局のところ何も決められません。どんな些細な問題でもとにかく決めなければ生きていけませんから、そこに「感情」の出番があります。進化の過程で生き残る戦略として洗練されてきたものですから、大抵の場合はそれなりに妥当な決定を限られた時間のうちに下すことが出来ます。問題は多様な状況下で常に妥当な判断を下せることは出来ず、時に認知バイアスの罠にはまることがあります。結局、「論理」と「感情」という、強力ですが万能ではない能力がたまに矛盾した結論をだすことに悩みつつ、なんとか折り合いをつけて生きて行くしかありません。本書でも著者は次のように指摘しています。

クリスは哲学者だ。人間が信念と行動の論理的な一貫性を実現したがることに感銘をうけている。そしてわたしは心理学者だ。わたしはむしろ、動物に対する考え方や行いにおける道徳的な一貫性の無さを露骨にさらしつつ、しかもそれを全く無視できることのほうに感銘を受けてしまう。わたしの体験では、ほとんどの人は―闘鶏家も、動物研究者も、ペット所有者も―私たちの個人的、文化的な動物の扱いにパラドックスや一貫性の欠如が見られることを指摘されても、頑固なまでにそれを無視する(たまに居心地悪そうな笑いはあるけれど)。

そんなわけで、現実世界で道徳的な一貫性を実現するのは、不可能とは言わないまでもなかなかむずかしいし、以下に動物を扱いべきかを考えるにしても、頭も心も当てにならないというのが現実なのだ。

(本書 p.350)

論理にしろ感情にしろ、どちらか一方にだけ従って生きていければ幸せなんでしょうけどね。現実問題としてそれは無理な相談なので、一貫性の無さにたまには悩みつつ、とりあえず許容できる着地点でなんとか折り合いをつけていくしかないんでしょうね。残念ながらこの地上にはユートピアは存在しませんし、ユートピアを実現しようとする運動が、歴史上毎回奇怪な結末を迎えるのを見ていると、ですね。

本書は残念ながら参考文献、注、謝辞が割愛されています。訳者は山形浩生氏なので、割愛するに当たっては編集者とは相当なやりとりがあったかと思いますが、訳者サポートページに掲載という形で妥協せざるを得なかったようです。また、著者のブログもあって、関連したテーマについてのエントリーがあります。

訳者サポートベージ
ハーツォグ『ぼくらはそれでも肉を食う』サポートページ
著者ブログ
Animals and Us | Psychology Today

2011/07/06

Google+は既存サービス群を統合していく?

今、メインのブログサービスとしてBloggerを利用しているのですが、ReadWriteWebの記事によると写真共有サイトPicasaとともにブランド名を変えてGoogle+に統合されるようです。

It looks as though the efforts to bring together Google's services under the 'Plus' umbrella might involve rebranding two of Google's longstanding products: Blogger and Picasa. Mashable's Ben Parr reports that the Blogger and Picasa names - not the products - will go away, as early as the end of the month. That timing will coincide with, according to Parr, the opening of Google Plus to the public.

Google Rebrands Blogger and Picasa to Make Way for Google Plus

とすると、BloggerやPicasaにアカウントがあるユーザは、自動的にGoogle+へと移行することになるのでしょうか。ソーシャルなサービスだと立ち上げ時のユーザ拡大が最大の課題なので、既存サービスを移行する事にすれば、一気に解決できることになります。まあ、移行に失敗するとユーザが一気に離れてしまうリスクと隣り合わせですが、Picasaの場合は容量制限の撤廃という最大の餌が撒かれるようなので、大多数の人はよほどサービスとかが改悪されない限りすんなりと移行しそう。

となると気になるのは、利用者数と知名度ではより大きいGmailとかYouTubeがどうなるかです。機能強化に伴い利用者数が増大してきたGoogle Docsとかも。

Those products, however, already fall into the Google naming convention. The other outlier, of course, when it comes to branding is YouTube. Parr says that Google has no plans to rebrand YouTube to Google Video (a good thing considering the fate of the actual Google Video earlier this year).

Google Rebrands Blogger and Picasa to Make Way for Google Plus

YouTubeのブランドはさすがに大きすぎて、現時点ではブランド名を変更する計画はナイトのことですが、ブランド名そのままでGoogle+との連携強化とかはありえます。Googleがソーシャルな世界に打って出るなら、新規にサービスを立ち上げるよりは既存のサービス群をコアに統合していくというのは、いろんな識者が今まで言及してきたことなので、ようやくその方向に向かって動き出したという感じですが。ヘビーウェイトなTumblrという感じになるのかな。

Google+については否定的な意見のほうが多いですが、Facebookを意識しすぎることなく全体の情報アーキテクチャをうまく設計出来れば、独自の位置をソーシャルな世界で確立できるかもしれません。LinkedInが成功したのは、Facebookがフラットな空間である体と考えています。プライベートなつながりはFacebookで、仕事のつながりはLinkedInでと、ネットワークを使い分けしないと、いろいろ厄介なことがありますから。特に公私の区別がはっきりしている欧米では。

2011/07/05

専門的であり過ぎることの盲点

更新間隔があいてしまったので、最近感じていることについて少し雑文を書いておきます。震災、原発事故をうけていろいろな提言がなされていますが、「これは…」という提言が活動家のみならず、専門家からも出てくるのを見て、何とかならないものかと思ってしまったからで。

私が専門家が纏めた提言についてまずチェックするのが、「自分の庭先をきれいにする」というストーリーになっていないかということです。専門家には、前提となる環境の整備とか、副次的に発生する問題とかを小さく見て、自分の専門領域の仕事を最も効率的にしようとするインセンティブが常に働いています。特定分野の専門家が集まって纏めた場合、そのあたりの危険性を任してきいる方が仕切っていない場合は特に危険性が高いです。異なる専門領域の専門家が集まって対策を協議すると、なんとか自分の庭先を綺麗にしようとする麗しき言動を頻繁に目にすることができます。そのような言動をうまくしきれる人が入ればいいんですけどね。いない場合には、「ご高説ごもっとも」としか言いようがないことも。

「自分の庭先をきれいにする」という行動、自らの責任を回避するために意識的に行う場合もあれば、結果的にそのような行動をとってしまうという場合もあります。特に専門性の高い方だと、自分の専門領域に注意を集中させてしまうあまり、その提言が成り立つための前提条件とか、副次的に発生する新たな問題を軽視する傾向があります。専門家の話を聞いていて時々感じるのは、自らは素晴らしいアイデアを持っているのだから、それを実現するための前提条件を整えるとか、副次的な問題を解決るとかは、その別な問題領域の専門家が解決する問題であると考えているようだということです。特に自らのアイデアに惚れ込んでいる方では顕著です。専門家としてトレーニングを積んでいくと、前提条件は成り立つのか当たり前すぎて、非常時にも成り立っていると考えていいのかという点を失念しがちです。そして、どのような副次的な問題が発生するかについては、問題が発生するのは専門外の領域ですので自ら明確に把握できるものではありません。

前提条件の問題に関しては、特に学術方面の方の場合には、正確性に対するこだわりが強すぎて、実務的には非現実的な話になることも。学術的に問題の解明を進め、研究成果を論文にまとめて議論を尽くした上でないとダメだとか、手遅れになって死んでしまうんですが。だいたい科学的に解明されているのはごく一部で、実務的に使えるのは更に限られているので、現実には原因も対策もよくわからない中で何とかする、というのが現実にはありがちなパターン。たしかに科学的に見れば美しくはないですが、問題がどんどん進行している以上、解明を待ってはいられないこともあります。そのうち解明が進むことを期待しつつ、その場その場で何とかするという対応になってしまうのは避けようのない現実です。そのあたりが科学的思考と実務的思考の違いです。世の中では「科学的」という言葉が濫用気味なので、私の使い方は一般的な用法と比べるとかなり狭いと思います。科学では分からないことはあくまでも分からないとすべきものですが、実務では分からないことは分からないなりに何とかするものですから。

分からないなりに何とかすると、当然裏目にでることがあります。裏目に出たときに専門家に求められる責任の果たし方は、なぜうまくいかなかったかを究明し、それを教訓として再発防止につなげることであると、私は考えています。もちろん、裏目に出たことによって不利益を被った人自身はそれによって救われるわけではありません。そのあたりの納得のいかなさが法的責任と絡んできたりします。因果応報は善悪両面で社会を維持する感情ですから、専門家集団全体に対する大きな信頼なくしては、免責制度の導入は困難です。かといって責任追及が厳しすぎれば専門家が防衛的になりすぎて、誰も幸せにはなりません。免責というのは今まで蓄積してきた信頼の一部を一時的に取り崩すことでもありますから、はじめから信頼がなければ事態がこじれるだけですし、また乱発しても専門家に対する信頼が失われていきます。安心は取引できますが、信頼そのものは取引できません。関係性の中で徐々に築き上げるしかないものなので、取り崩すときには慎重に。再度積み上げるには時間がかかります。

出来ることを出来ないと思い込むところに停滞の原因があるのですが、出来ないことを出来ると思い込むのは停滞どころではない危険が待ち構えています。私は専門家の信頼性の基準を、分からないこと、出来ないことをはっきりと言えるかという点においています。専門分野への深い理解と、自らの技量への自信がなければ出来ませんから。でも、そのような人って案外一般には不評だったりするのが残念です。やっぱり頼りたいという気持ちが強いのでしょうね。

本ブログは過疎サイトではありますが、たまたまこの文章を目にしてカチンとくる方もいるかも知れません。でも、この文章は「なぜ理解されないのか」という自らの苦い体験から、その原因を私なりに整理したものです。私の場合、原因が自分なりに理解できたときには手遅れだったのですが。日本の場合、専門家を組織して使いこなせる人が決定的に不足しているんでしょうね。専門家とは求められる才能、スキルが異なるので、優れた専門家が優れた組織者になれるといは限りません。名選手必ずしも名監督ならずです。でも、専門家としても優れていないと、その下につくことを是としない方もいるのは頭の痛いところ。

2011/06/15

塩野七生『十字軍物語2』

塩野七生(著)『十字軍物語1』は、十字軍運動が発生し、第一次十字軍によってイェルサレムがキリスト教徒の手に渡るまでが描かれていますが、『十字軍物語2』では一転、第一次十字軍移行の寡兵でなんとか領地を防衛しようと苦闘する十字軍の姿と、最終的にサラディンによってイェルサレムがイスラムの手に奪還されるまでが描かれています。

なぜ寡兵で戦い事になったのか、それは当時の政治体制に原因があります。現代の戦争は、基本的に組織対組織で戦われます。ゲリラ戦でも、あくまでも組織化されています。国家(State)という概念がある程度固まってくるのは絶対王政が確立された頃でしょうし、さらには国民(Nation)という概念はフランス革命以降でしょう。しかしながら、「国民国家」という概念が成立する前の戦争では、組織対組織というよりも、リーダーと、そのリーダーのもとに集まった戦士の集まりの戦いです。それ故、リーダーが集めることが出来る集団の大きさによって、戦力が決まってきます。なので、当時の戦争は現在の目から見れば小競り合いが続いているように見えます。そして、王であってもそのあたりの事情は同じで、王がどれだけの力を発揮できるかはすべて、王がどれだけ人を引きつけ、または従わせる力を持っているかにかかっています。

イェルサレムの王とは、遠いヨーロッパに住む人の眼には強力な地位に見えた。だが、実態ならば弱体であったのだ。だからこそ個人の人間的な魅力が、より大きく影響してくることになるのである。

(中略)

だが、この「力」とは、軍事力だけを意味してはいない。あの人にならば従いて行く、と諸侯や兵士たちに思わせるのも、立派に「力」なのである。リーダーには、カリスマとするだけでは十分でない、いうに言われぬ人間的な魅力が求められるのである。

(本書 p.48)

そしてイェルサレム王でも、その「力」のあったボードワン四世が亡くなり、「力」を持たないルジニャンが王についた時点で、ある程度その命運は決まってしまいました。そして、その時イスラム側には、現代にまで語り継がれるほどの「力」をもったサラディンが登場することにより、第一次十字軍の成果はほぼ失われ、イェルサレムもイスラムの手に戻ることになったのです。

サラディンの素晴らしさに関しては今更述べるまでもありませんが、本書の中で特に興味を惹かれた人物はバリアーノ・イベリンです。イェルサレム開城交渉にあたってのイベリンのとった行動は、絶望的な状況の中でも出来る限り最善の結果を得ようとする、まさに指導者の見本といえるでしょう。イスラム軍の指揮官サラディンの優れた作戦と、対照的なイェルサレム王ルジニャンの稚拙な行動により、十字軍側の歴史的な敗北として終わった「ハッティンの戦闘」により、十字軍の戦闘力はほぼ失われ、イェルサレムは完全に孤立してしまいました。サラディンがイェルサレム攻略にとりかかったとき、防御側の指揮官はかろうじて脱出に成功したイベリンでした。五日間の戦闘のあと、イベリンはサラディンに会談を申し入れまたした。結果的にはイェルサレムに立て篭もったキリスト教徒が無事に解放されるまでの行動を、著者はイスラム側の記録をもとに次のように記しています。

イベリンは言った。あなたは早晩、イェルサレムを手中にする。しかし、今のままでのイェルサレムを、手中に出来るとは思われるな。われわれは、最後の一人が死ぬまで闘いつづけるだろう。

まず、市内に五千人はいるイスラム教徒は、その全員を殺す。さらに、イェルサレム市内にあるイスラムのあらゆる聖所、岩のドームからアル・アクサから祠にいたるまでを、破壊しつくすことを誓う。

サラディン、あなたは、イェルサレムの征服者にはなるだろう。だがそれは、破壊され炎上し何一つ残っていない、キリスト教徒だけでなくイスラム教徒の大量な血にまで塗られた、イェルサレムの征服者になるだけなのだ。

(本書 p.281)

救援の望みもなく、絶望的な状況ですから、下手に出て哀れみを乞うことも出来たでしょう。でもイベリンは初めに敢えて強気に出ました。相手によってはこの発言の通りの結末になりかねない危険な駆け引きですが、サラディンの目的は「イェルサレムという都市」の攻略ではなく、あくまでも「聖地イェルサレム」の奪還でしたら、この強気の発言は次の交渉を有利にすすめるための伏線になっています。

サラディンは、黙ってしまった。それを見たバリアーノ・イベリンは、今度は口調を変えて話し始めた。この時期のイェルサレムには、トーマス・ベケットの事件で険悪化したローマ法王の心情を良くしようと、聖地防衛資金の名で英国王ヘンリー二世が送ってきていた、三万ディナールに相当するカネがあった。イベリンはそれを、陥落後には殺されるか奴隷にされることが確実な、イェルサレムに住む「フランク人」たちの見受け代に使おうと考えていたのである。ゆえに、サラディンとイベリンの間での対話は、身代金の交渉に移っていったのだった。

(本書 pp.281-282)

初めに強気に出たのは、同胞を守るための見受け代の交渉を相手に飲ませるためのものだったのです。この交渉術が見事にはまって、ほぼすべてのキリスト教徒が奴隷や捕虜にされること無く、イェルサレムから無事に解放されました。この当時、集まった戦士への報奨は、獲得した捕虜の身代金や、払えない場合は奴隷に売ることでまかなっていましたから、ただ単に開城しただけでは市内にいるキリスト教徒が捕虜や奴隷にされるのは必至の状況だったはずです。たとえサラディンといえども、殺戮は止めることができても捕虜をそのまま解放することは出来なかったでしょう。まず、配下の戦士たちから不満が爆発したでしょうから。最悪部下が反乱を起こしかねません。相手がその高潔さを敵味方問わず賞賛されたサラディンだったこともありますが、この時のイベリンの行動は最悪の事態において、的確に状況を判断し、最後に守らなければいけないものは何で、そのためにはどのように行動すべきか決断できたイベリンの行動も賞賛されてしかるべきでしょう。このストーリーは、江戸を火の海にする覚悟を示すことで、逆に無血開城の交渉を成功させた故事を連想させるものがあります。

最悪の事態に際しての行動が、リーダーとしての資質が最も良く分かりますね。まあそのことに本当に痛感させられている今日この頃ではあります。

2011/06/12

高橋 誠『かけ算には順序があるのか』

高橋 誠(著)『かけ算には順序があるのか』を読んで、「6人に4個ずつミカンを配ると、ミカンは何個必要ですか」という問題に対して、「6×4=24」という式を答えとして書くと、計算結果は正解でも式そのものは不正解とされるのはなぜかという論争を考えなおしてみました。自然数では交換法則が成り立ちますから、交換法則を知っていれば不正解という採点には納得いきませんよね。

本書では数学教育の歴史を絡めて分かりやすく書かれています。本書によると、量に関して現在の数学教育では、加法性が成り立たない内延量と、加法性が成り立つ外延量に分け、少なくとも初等教育の段階では量に関する計算は「内包量×外延量=全体量」という表記法に統一すべきであると考えて指導が行われているとのことです。これは「内包量×外延量=全体量」という表記が一般的であるという考えに基づいています。

遠山啓は、連続量の「内包量と外延量という計算」について、「もし乗法の交換法則を連続量にはまだ適用しないほうがよいとしたら、これを外延量×内延量と書かないほうがよいだろう」と、1960年に書いていました(『遠山啓著作集 数学教育論シリーズ 5 量とはなにかI』所収「量と比例」130頁)。

(本書 p.38)

ただし著者も例としてあげているように、実際には「個数×単価=金額」という表記も使われていますし、物理量などで量の次元を考えると、「内包量×外延量=全体量」という約束事にそれほど意味があるとは思えません。第一、漢数字で三億とか書きますけど、これは「3×一億=三億」と解釈するのが自然ですから、「内包量×外延量=全体量」という表記を特別視する必然性を感じません。その点からみると、「内包量×外延量=全体量」と書かなければいけないという理由から、「6×4=24」という式を不正解にするという指導にはやはり違和感があります。

そのような観点を考慮した上でこの論議について再考すると、量を数で表記したときに、次元を省略しているという点が、問題のポイントであるように思えます。少なくともこの式を正解とすべきか不正解とすべきかは、省略された次元を明示しない限り確定できません。もし、「6(人)×4(個/人)=24(個)」と解釈して書かれた答案ならば正解とすべきです。逆に、「6(個/人)×4(人)=24(個)」と考えていたならば不正解です。

この問題でむしろ教えるべきは、量を数で表現するときには、計算を簡略化するために次元を省略しているということを常に忘れないということではないでしょうか。暗黙のうちに表された次元を失念すると、ジェイコム株大量誤発注事件のように、株式の誤発注で大損失とか、ギムリー・グライダーのように飛行中の航空機の燃料が不足するとか、思わぬ危険を招き寄せることになります。この論争に関しては、乗法の交換法則にばかり注目が集まっています。この問題を考えるときには、むしろ量を数で表現したときに、その量の次元を意識するという事のほうが、現実には重要であると考えます。

2011/04/02

昨日の記事について

JDT(Japan daylight time)の試験運用が行われるという4/1日付の記事ですが、4/2時点でも確認が取れておりません。どうも単なる噂であったようです。

まあ夏場の電力供給不足対策としてサマータイム導入論が持ち上がったとき、結構ドキッとした情報システム関係者が多かったのではないかと思われます。現在一般的に使われているOSでは、locale関連の設定ファイルを修正するだけだと思いますが、その上に載るアプリケーションやデータベースがどこまで対応できるかというと、色々と問題が起きることが予想できます。特にお金の決済に絡んだ部分で、決済関連データに時刻の不整合が生じると、かなり厄介な問題が生じてしまうわけで。

サマータイムは、システム的な対応が間に合わないだろうということで、この夏の電力供給不足対策の打開策としては有効ではありません。また、既に指摘されているように、ピーク時が1時間前倒しになるだけで、ピーク時電力の平準化という本来の目的にはほとんど効果はありません。

2011/04/01

エイプリルフールは午後11時まで

4/1日といえばエイプリルフールですが、今年のエイプリルフールは去年とちょっと違います。夏場における関東圏の電力不足が懸念されている現在、サマータイムを導入する案も提唱されています。サマータイム導入に対しては、ピーク時電力の平準化には役に立たないのではないかとか、情報システム改修にかかる時間と費用など、論議が続いています。

サマータイムを導入する場合、システム的には日本の標準時JSTに加えて、夏季にはJDT(Japan daylight time)が導入されることになります。その影響はいまだ不明な部分が多いため、本日一部の地域においては急遽JDTを試験的に導入して、その影響の調査が行われているとのことです。多分、エイプリルフールということで、多少の混乱があっても多めに見られるということで急遽実施されたものと思われます。なお、この調査は一般に与える影響が大きいため、その実施対象地域以外には告知されておりません。また、その試験地域への影響を鑑みて、エイプリルフールは午後11時までにしてほしいという要請も告知されたとのことです。

このJDT導入試験に関しては色々調べては見たのですが、ソースを見出すことは出来ませんでした。

2011/03/29

北村 行孝、三島 勇『日本の原子力施設全データ』

現在まだ収束しているとは言いがたい福島第一原子力発電所の事故に関して、発表されたデータが意味するところについてよく理解できずに、不安をいだいている方も多いかと思います。そのような状況に対して、現在品切れ状態にある、北村 行孝、三島 勇 (著)『日本の原子力施設全データ』を急遽復刊することが流れてはきていたのですが、著者、及び出版社の英断によって、急遽講談社のサイトで一部、とはいっても現在進行中の事態を理解するには十分な部分が公開されました。製紙工場が被災したり、物流に問題が生じている状況下ですので、思い切って公開する決断を下したものと推察されますが、その決断には拍手を贈りたいと思います。

福島第一原発における未曾有の大事故に際し、ブルーバックス出版部(講談社)でも何かできることはないかと考え、著者の御厚意のもと『日本の原子力施設全データ』の一部をPDFファイルにて公開させていただくことにいたしました。放射性物質への不安が広まっておりますが、正しい知識を持つことが沈着な対応につながります。本書の情報が皆様の不安を取り除き、冷静な行動の一助となることを願っております。

『日本の原子力施設全データ』(北村行孝・三島勇著 講談社ブルーバックス2001年刊)一部公開のお知らせ

復刊するに当たって、著者から以下のメッセージが寄せられています。

二〇一一年三月一一日。東北地方太平洋沖を震源とする巨大地震が発生し、大きな揺れと津波が原発も襲った。東京電力福島第一原発は、建屋で水素爆発を起こすなど深刻な事態となった。情報は混乱し、理由のない不安や誤解が広まっている。この状況が少しでも改善するために、この本で記した基礎知識が役に立つことを願っている。

『日本の原子力施設全データ』

今回公開されているのは、以下の目次の内、第1章から第5章までの部分ですが、基礎知識を理解するには十分だと思います。

  • はじめに
  • 第1部 原子力発電の基礎知識
    • 第1章 原子力発電とは何か
    • 第2章 原子力発電の実際
    • 第3章 原子炉の燃料と核燃料サイクル
  • 第2部 日本の原子力施設データ
    • 商用原子力発電所
    • 原子力開発機関・大学・企業の研究炉
    • 核燃料加工・再処理施設等
  • 第3部 原子力事故と安全対策
    • 第4章 放射線と原子力安全
    • 第5章 原子力のトラブルと事故
    • 第6章 原子力の課題――安全を守るために
    • 第7章 原子力開発の将来

公開されている各章はPDFファイルにて、以下のページからダウンロード可能になっています。

2011/03/22

MathJaxでの数式表示

(4/16追記)

Stack Exchange becomes MathJax Partner | MathJax」によると、MathJaxプロジェクトはStack Exchangeの支援を受ける事になったそうです。そのような支援があってのことでしょうが、現在MathJaxはAmazon CloudFront上でサービスを提供しているとのことです(「MathJax Launches CDN Service with 1.1 Release | MathJax」)。私のような弱小サイトだと特にクラウド利用でも差し支え無いだろうと判断して、再度設定を戻します。たぶん、それほど負担にならないくらいの利用頻度ですし。

(注記)

中澤氏の日記にてMathJaxのサーバに負荷がかかりすぎて、サーバが応答しないケースがあるという指摘があり、自前のサーバで運用していない本ブログにおいては、当面MathJaxの仕様を差し控えます。

10日ほど前に触れたMathJaxだが,懸念していた通りサーバ負荷が重くなって応答しないというケースに遭遇した。たぶん世界中のサイトから数式表示の度に呼び出されたら重くなるのは当然なので,使うなら基本的には自前のサーバにインストールするか,ミラーサーバを作って負荷分散することが必要だろう。

よって、使用再開するまでは正常には表示されなくなりますのであしからず。


三中氏の日記でMathJaxが紹介されていたのを見て、早速このブログでも使えるようにテンプレートいじってみました。

MathJaxの使い方」の説明にしたがって、ヘッダ部に次の記述を追加します。

<script type="text/x-mathjax-config">
MathJax.Hub.Config({ tex2jax: { inlineMath: [['$','$'], ["\\(","\\)"]] } });
</script>
<script type="text/javascript"
src="http://cdn.mathjax.org/mathjax/latest/MathJax.js?config=TeX-AMS_HTML">
</script>
<meta http-equiv="X-UA-Compatible" CONTENT="IE=EmulateIE7" />

このブログのテンプレートだと、最後の1行は当初から記述があったので、実際に追加したのは、上6行です。IE8を無視すれば次の記述だけでも良いとのこと。

<script type="text/javascript"
src="http://cdn.mathjax.org/mathjax/latest/MathJax.js?config=TeX-AMS_HTML">
</script>

普通にLaTexで数式を記述しておくと、JavaScriptで動的にLaTexの数式を検出して、動的数式を記述した文を埋め込んでくれます。数式変換の為の特別なマークアップは不要です。

\(f(x)=\frac{1}{\sqrt{2\pi}\sigma} \exp\!\left(-\frac{(x-\mu)^2}{2\sigma^2} \right)\)
\(f(x)=\frac{1}{\sqrt{2\pi}\sigma} \exp\!\left(-\frac{(x-\mu)^2}{2\sigma^2} \right)\)

動的に生成するので、ちょっと重い環境だと、数式が表示されるまでにラグが見られます。LaTeXの数式がそのまま表示されているので、はじめは設定失敗かと思いました。

ただ、NoScript入れたり、JavaScriptを切っていたりすると表示されないのがネックかな。あと、吐き出されたソース見ると、古いブラウザだと表示に問題がありそうです。

2011/03/09

「見られること」の抑制効果

物理学者の田崎晴明氏が日記で京大入試不正問題に触れていて、内容に同感するものがあるので私もすこしばかり感じたことを。

この前の日記(2/27)にも書いたように、これほどに容易に入試問題を外に漏らすことができたということ、それをみんなが知ってしまったということは大きな意味をもっている。 もちろん、そんな不正をしようと思うような人はすごく少ないはずだが、それでも、可能性がはっきりした以上、大学側はなんらかの対応をしなくてはいけないだろう。 携帯電話を試験場で預かる方法をとった大学もあるそうだが、そもそも、その場の出来心で不正ができるわけではない。 やるとしたら、それなりの準備を重ねるわけだろうから、その程度の対策では意味は薄いだろう(携帯電話を二台もっていって、一台を預ければいい)。 素朴な方法だが、ずっと机の下に手を置かないよう指導し、巡回の際には、そういう細かいところも見て回るというのが最良の方法のような気がする。

どんなにがんばっても、プロが本気で計画をしたカンニング(前の日記に書いた、「小型カメラ+骨伝導イヤフォン方式」など)を阻止するのはきわめて困難に思える。 ただ、プロの「業者」に入試の不正を手伝ってもらった場合、業者側に不正の事実を知られてしまうという致命的な問題がある。 不正の手伝いは殺人みたいな大きな犯罪じゃないから、後になって暴露されたり、脅迫されたりする可能性はかなり高いと思われる。 すべての受験者が、発覚のリスクを背負い込むことまでしてプロに不正の手伝いを依頼するのは割が合わないという「まっとうな判断」をしてくれることを祈るしかない。 そして、(前回も書いたことだけど)不正をして大学に入っても決して充実した学生生活は送れないはずだということをすべての人に強く強く認識してもらいたい。

Hal Tasaki's logW 1103

確かに、不正が行われた事自体よりも、不正が考えられていたより容易に行われうるということが白日のもとに晒されたことが一番大きな影響を入試制度に与えるでしょうね。受験生も大学側も負担にはなりますが、公正さが確保されていると認識されるだけの措置をとることはやむを得ないでしょうね。だいたい受験生も、不正行為を働いて合格する人がいるということには我慢出来ないでしょう?

心理学の実験から、の存在、見られているということが不正行為の抑制に有効であることが示されています。実際、見られているかもしれないと無意識に感じるだけで、抑制効果があるようです。まめに巡回することも有効でしょう。今回の事件を発端として、他にも不正行為が発覚するようなことがあれば、監視カメラで記録するところまで突き進むかもしれません。このあたりは尋問の可視化で期待されている効果と同じかな。

不正をした事実は、学生生活だけではなくその後一生ついてまわります。今回の事件の報道で、その罪の軽重を語るときに、有名人のカンニングの逸話も持ち出されています。例えば文豪である夏目漱石も大学予備門の入試で数学の試験問題をカンニングしたことを『私の経過した学生時代』で告白しています。

これは、大学予備門の入学試験に応じた時のことであるが、確か数学だけは隣の人に見せて貰ったのか、それともこっそり見たのか、まアそんなことをして試験はっとすましたが、可笑おかしいのは此の時のことで、私は無事に入学を許されたにもかかわらず、その見せてれた方の男は、可哀想にも不首尾に終ってしまった。

夏目漱石『私の経過した学生時代

ここで疑問なのは書かなければ知られることのなかった逸話を書いたのかということです。漱石自身は合格したのに見せてくれた人は不合格だったと、ユーモラスな調子で書かれていて、一見すると武勇伝のようにも感じられます。でも、実際のところはこの随筆を書いた時点でもはっきりとその出来事を記憶しているくらい、罪悪感が残っていたのではないでしょうか。告白することで肩の荷を下ろしたいというようにも読めます。

不正入試に罪悪感を感じない人なら、そのうち道を踏み外してしまうでしょう。そして罪悪感を感じる人なら、学生生活だけではなくその後ずっと不正な手段で入学したという事実、そして誰かに見られて暴露されるかもしれないという恐れに付きまとわれますよ。

2011/03/04

玄侑宗久『荘子と遊ぶ ― 禅的思考の源流へ』

「自由」という概念は奥が深すぎて正直私の手に余る問題です。ある原理原則を突き詰めていくと、どうしても解消できない矛盾が発生します。政治哲学の論争は、結局「何を諦めるか」という点に尽きます。どの宗教・信仰でも、何らかの戒律を持つのも、この矛盾の存在をどのように解消するのかという観点からみると理解できます。そのようなことをつらつらと考えていく中で、「精神的な自由」と「物質的な自由」は実は両立しないのではないかという疑問が浮かびました。世界宗教と呼ばれる、民族の枠を超えて広がった宗教には、禁欲的な信条が美徳として掲げられています。これ、昔から疑問でした。なぜならとても不自然だからです。生物を学べば理解できますが、理想化された自然なんて現実には存在しません。結局理想を徹底的に追求しても、理想を実現できないばかりか、理想と正反対の現実を出現させることを認識して、「自由」についてかすかにですが理解できました。というわけで、プラグマティズムでいこうというのが今の私です。ただ、加減を自分で判断しなければいけないので、印象とは正反対にプラグマティズムはファンダメンタリズムより実践が困難であると思い知らされましたが。結局、「極」を理解出来ないと加減も分かりませんね。はまり込まない限り、理想を考えることは加減を知る上でも必要なプロセスです。

精神的な自由を追求する一つのあり方として日本人にも馴染みのあるものとしては、仏教であり老荘思想です。仏教に対抗して日本古来の神道を体系化する段階で老荘思想を利用したことも日本宗教史の研究で指摘されています。仏典を漢訳する段階で老荘思想の用語を使ったこともありますが、中国社会に根付く段階で、仏教の中に結構老荘思想の概念が入り込んでいます。そして、仏教の宗派の中でも、老荘思想を最も取り込んだ宗派の一つが禅宗です。玄侑宗久(著)『荘子と遊ぶ ― 禅的思考の源流へ』は、禅と荘子の思想の繋がりを寓話形式で語っています。私自身が荘子に興味をいだいたのは、高校時代の物理の教師に『菜根譚』を、会社の元上司に『荘子』を勧めらたりした影響もあるのですが。

まあ、本書読んで改めてその境地に至ることの難しさを思い知らされました。

つまり真人にとっては、生も死もひと連なりの受容すべき変化なのだから、あえて生まれたことを悦んだり死を憎んだりすることもない。ただ悠然として死に去り、悠然として生まれ来るだけだ。どうして生まれてきたのかも知らないし、死んだらどうなるのかも知らない。ただ命を受けてはその生を楽しみ、万事を忘れてその生を生き切ったらそれをお返しするだけだ。

(本書 p.44)

ここまで達観することは私にはいまだ出来ません。かと言って徹底的に抗うことも出来ず、自分は凡人だとつくづく思います。実践することが難しいからこそ、「すべての人が悟りへの道を目指したら人類衰亡するよね」という懸念が杞憂なんでしょうけど。

まあ、老荘思想にもとづく社会を現実のものにしようとすると、規模の制約があります。実際、その制約の存在は認識されていて、老子では小国寡民が説かれています。その社会は、相互に没交渉な小さな村々が広がる世界です。このあたりの制約は、ダンパー数に関係してそうです。実際文化人類学者からは、老荘思想の理想に近い狩猟採集民の集団の存在も報告されています。その集団では、村長がいても世話役みたいな役割を果たすだけで、いわゆる指導者的な役割の人は存在していません。現代的技術を拒否するアーミッシュの信条の根底にも、老荘思想に通じるものを感じます。結局、社会の規模がある程度大きくなると、社会インフラを維持するための制度的な仕掛けが必要とされます。そして、社会の規模が大きくなるにつれ、インフラを維持するための仕事をこなす人も必要とされます。それも望んでその職を選んだのではなく。結局、現代の市民社会もギリシア時代からどれだけ変わったのでしょうか。当時よりはより洗練されたものになっているのは確かですが。私が理想社会の実現を語る人に賛同できないのは、理想を支える仕掛けをどう構築し、維持していくのかが見えないからです。そういうわけで、理想を追求することもできない私のような凡人は、凡人らしくしか生きて行くしか無いです。夏目漱石の『草枕』の冒頭に、そのような考えにぴったりはまる一節があります。

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

夏目漱石『草枕』

仏教と老荘思想の混淆に関しては、なるべくしてなったというのが私の感想です。宗教史を見ると、世界的に広まった宗教は、拡大する過程で初期の形から変容しています。とくに仏教は仏尊自身が応病与薬という形で法を説いていますから、変容してきたことは必然と言っていいでしょう。そのように考えられるようになってから、宗教に関するこだわりはほとんど無くなりました。

『老子』の「知足」や「和光同塵」、『荘子』の「大覚」「衆生」「解脱」などの言葉は、すでに完全に仏教語になりきっている。翻訳語として採用された時点から、その思想ごと、仏教と混淆したというのが実情だろう。ことに禅は、三昧や禅定を裏打ちし、発展させるものとして荘子の「遊」の思想を積極的に取り入れた。菩提達磨の言葉とされる「無功徳」にも、すでに「無用の用」や「遊」は沁み入っている。功徳を積もうというインド仏教は、『荘子』によって大きく変質するのである。

(本書 p.260)

「遊」というと真面目な人は怒って説教されそうですけど、機械工学で「遊び」の重要さが知られているように、効率を徹底的に追求して遊びをなくせばシステムとしてとても脆くなります。かといって、遊びがあり過ぎても空転してうまく機能しません。この適度な加減が要求されるところに、「理学」と「工学」が目指すところの最大の違いが現れています。社会も適度な「遊び」がなければ、ショックを受けたときに壊れます。現在の日本が混乱している一因は、「遊び」の加減がうまくいかなくて壊れて始めているのでしょう。それでも、過去に蓄積した溜めがあるので、現状程度で済んでいるととも言えますが。

「遊」の境地に至るには程遠い私ですが、せめて以下の荘子の言葉は守りたい、そう思っています。

「名を行いて己を失うは、士に非ず。身を亡ぼして真ならざるは、人を役するに非ず」

(本書 p.146)

2011/02/28

偶然の力は有益、でも「取扱注意」

偶然をうまく利用することが出来れば、完全な規則を作り上げようとするよりも有効的なことがあります。社会調査でも、抽出調査はうまくランダムに標本抽出することができれば、調査の効率性や結果の有益さで全数調査に勝ります。また、モンテカルロ法とか、乱択アルゴリズムとか、うまく偶然を利用する技術も徐々に一般的に用いられるようになってきます。でも、偶然を利用するのは、意外と難しいんだよなというのが、「理不尽にやると上手くいく - レジデント初期研修用資料」を読んだあとの感想です。

インターネットインフラの信頼性が高いこと、エンジニアの人たちが、一生懸命にやり過ぎてしまったことが、お手つき即死のネット文化を生み出したのだと思う。

理不尽にやると上手くいく - レジデント初期研修用資料

偶然を取り入れるというのは良い考えだと思います。現実には、人間が事態を予期できる能力には限りが有ります。「例外のない規則はない」と言われているように、完全な規則など現実には機能しえません。そして、例外を納得させるのに、偶然が神意、天命と結び付けられて使われてきた歴史もあります。

そしてインターネットインフラは、その誕生当初からあくまで「best effort」で、偶然をうまく利用してきました。今も変わっていません。不具合あるかもしれないけど、それは利用者の方でカバーしてくれという世界です。そして、偶然とか失敗を積極的に認めることで、効率性を追求しています。どっちかというと、そのようないい加減さを叩かれることのほうが多いです。その辺りの事情については専門家である、あきみち氏が分かりやすく解説てくれています。

もしインターネットが完全に見えるのであれば、意識できないくらい「近代化」の規範が身についているからではではないかと思われます。技術だけではなくて、政治、社会全般に渡り、偶然を排除して理性で制御しようという傾向性に満ちています。その傾向の行き過ぎによりしばしば反発する動きも発生しますが、全体的な傾向には変化なしです。そのことは、上記の引用に続く部分から、図らずしも明らかです。

インターネットは無限に公平で、政府だとか、特定の誰かをネットで叩くときには、誰もがたぶん、どこかで「叩き返すのならば全ての書き込みに対して公平に」という建前を信じている。叩かれる側が個人であって、叩く側が「公平な無数」であれば、力量の差は圧倒的だから、リスクは事実上無視できる。今はたしかに、弁護士や警察の助けを借りれば、叩いた誰かを追跡することは不可能ではないけれど、「全員が公平に追跡可能である」ことは、むしろ抑止の効果を削いでいる。

インターネットのインフラは、公平で理性的に過ぎて、理不尽が介入する余地がない。ネットにつながった誰もが、ルールを信頼しているから、ルールの際、常識から見てやりすぎだけれどルール違反ではない、ぎりぎりの場所に、莫大な人数が殺到してしまう。

掲示板の書き込みルールを、たとえば「100人に1人が無条件にID開示を受ける。叩きに対する全責任はその1人が負うことになる」というルールを導入すると、その理不尽さが、たぶん「全てのIDは追跡可能です」という看板よりも、叩きをためらわせる。

完全匿名も、完全公開も、ルールというものは、完全を目指した時点で落としどころを失ってしまう。原則匿名、その代わり、管理者やプロバイダーが、「ついうっかりと」書いた人の実名を掲示板で全世界公開、なんてイベントが年に1回でもあるならば、その場所の空気は、実世界のそれに近くなっていく。

理不尽にやると上手くいく - レジデント初期研修用資料

なぜ近代は偶然を排除しようとしたかというと、それは超越者、絶対者の権威とその代理人の権力、そしてそれへの信頼がなければ機能しないからで。まさに近代が排除しようとしたものとペアになるものである、少なくともそのように考えられているからです。薬物乱用、賭博、交通違反で検挙されるのは全体のごく一部で、いわばたまたま警察の目が止まった事案だけです。そして事件が報道されたとしても、事件は後を立ちません。もし信頼がなければ、偶然の存在は逆に規範意識を弱め、規制当局への不信の増大へと向かうこともあります。

偶然を用いることは限られた認知能力しか無い人間が利用出来る有益な手段ではあります。ただ、偶然は一般に意識されているより「劇薬」ですので。取り扱う際にはご注意を。

2011/02/25

災害発生時に情報技術が出来ること

今回のニュージーランドのクライストチャーチにおける震災は、同じ地震国に住むものとしては他人事ではありません。震災によって亡くなられた方には心からおくやみを申し上げると共に、現在懸命に続けられている救援活動によって一人でも多くの人命が助けられることを願っています。

そして、平常時と非常時の行動の切り替えがあまり得意とはいえない我が国政府に対して、どうしても不安を抱いてしまいます。最近の緊急時の対応を見ても、刻々と変化する状況に適切さと柔軟さをもって即決していくことが出来るとは残念ながら思えません。となると、政府の活動以外で何が出来るかを考えざるをえないわけで。もちろん、本格的な救援活動は高いスキルを日頃の訓練で維持することが求められますから、そこはどうしても政府に期待したいところ。ライフラインに重大な損害が出ている状況では、完全に自立した活動に慣れていないボランティアは、逆に足手まといになる恐れもあります。災害初期だと衣食住自前で面倒見れないといけないですから。災害救援で軍隊が出動するのは、社会インフラに依存しないで活動する訓練を受けているということが一番大きいです。警察にしろ消防にしろ、基本的には受け入れ先の社会インフラが機能していることが前提です。日本の政治家の発言を聞いていると、そのこと理解されていない方もいるようですが。

問題は、小回りのきかないところをどう補うかでしょうね。そこで今回のニュージーランドの震災に対して、どのような活動がおかなわれているのか、その一例について少し調べてみました。

Googleのフィランソロピー活動部門であるGoogle.orgには、情報技術により災害救援活動を行うGoogle Crisis Responseという部門が有ります。この活動は、プロジェクトの活動目的を見るとハリケーン・カトリーナがきっかけになって始まったとのこと。今回のニュージーランドのクライストチャーチにおける震災に対しても、専用のページが早速立ち上げられています。

このページでは、主な救援組織への連絡先、Google App Engineで作られた安否確認サービス、Google Mapsで地震関連の地理情報、関連するTwitterフィード、投稿されたYouTube動画など、クライストチャーチ地震に関する情報が集約されています。

この中で注目したいのが、「Trade Me」というニュージーランドの個人売買仲介サイトが、救援物資とかボランティアの仲介サービスを無償提供していることです。

災害時の救援物資とかボランティアに関しては、どうしても被災者のニーズに必ずしもマッチしないという問題の発生が指摘されています。このサイトでは、「Need help?」といカテゴリで被災者が助けてほしいことを、「Want to help?」というカテゴリで救援で提供できるものを登録できます。そして、それを見て必要とされる援助を提供したり、提供して良いというものを受け取ったりすることで、アンマッチを解消することができます。マスメディアでも、このようなアンマッチが報道されるのは、問題が深刻化してからになってしまうので、このような仲介サービスは救援活動の円滑化には有益です。

ただ、このようなネットにもインフラが機能していないと活用できません。これからだと、復旧するまでは「Wi-Fi Direct」などの技術を使って、モバイル機器のP2Pネットワークインフラで凌ぐことになるのかな。以下の記事を見てそう思いました。

現在進行中の中東危機でも、政府がインターネット自体をシャットダウンしたことに対して、現在のWi-Fi技術でP2Pネットワークを構築して対抗する運動も報道されていますし。あと、アフリカとか基地局が網羅的に設置できないところでは、実際にP2Pで通信されているという話も聞いたような。

どっちにしろ、現在発生が予想されている、東海、中南海、南海地震クラスの震災が発生すると、少なくとも3日間は外部からの救援はあまり期待できないとは言われています。予め考えておけば、いざという時の被害を極言することができるでしょう。

2011/02/19

スティーヴン・ホーキング、レナード・ムロディナウ『ホーキング、宇宙と人間を語る』

日本にいると、一部関心を持っている人以外は、進化論と創造論の対立の構図が、今も米国の教育の場を中心に続いていることを知らないかと思います。進化論を教えてはいけないという法律はさすがになくなりましたが、聖書の創造論に科学的な装いを凝らしたインテリジェント・デザイン論を学校教育の場で教えることを定めた法律を立法化する動きは現在も続いています。この進化論と創造論の論争に一石を投じたのが、スティーヴン・ホーキング、レナード・ムロディナウ(著)『ホーキング、宇宙と人間を語る(原題:The Grand Design)』です。

本書の主著者と言えるスティーヴン・ホーキングは、筋萎縮性側索硬化症でからだの自由がきかない中で、極めて優れた理論物理学者として広く尊敬を集めています。そして、この新著の中で神の存在を否定したとして、著書の中でもその点に注目を集める結果となってしまいました。その論議の的が何かというのは次の記事に要約されています。

In his 1988 book, A Brief History of Time, Hawking had seemed to accept the role of God in the creation of the universe. But in the new text, co-written with American physicist Leonard Mlodinow, he said new theories showed a creator is "not necessary".

Stephen Hawking says universe not created by God | Science | The Guardian

「第2章 自然法則はいかに創られたか?―法則の決まり」において、創造主としての神の存在は必然ではないという考えに至ったのは、自然の法則とは何かという次の3つの疑問を突き詰めていった結果であることが述べらています。

  1. 法則の起源はなにか?
  2. その法則に例外(奇跡)は存在するのか?
  3. 可能な法則は1組だけしか存在しないのか?

(本書 p.42)

まず第1番目の問題です。

神は旧約聖書の神であるといった特徴を付け加えない限り、最初の疑問に関する答えとして神を用いることは、単に1つの謎を別の謎に置き換えているに過ぎません。したがって、もし最初の疑問に対する答えとして神を含めてしまうのであれば、真の問題は法則に奇跡や例外はあるのか、という2つ目の疑問に帰着します。

(本書 p.42)

そして、2番目の疑問に対しては、ナポレオンから神の存在について尋ねられたとき、「陛下、私はそのような仮説を必要としたことはありません」と答えたと言われるラプラスと立場を踏襲しています。

科学的な決定論を最初に明確に仮定したのはラプラスである、と一般に考えられています。それは、ある時刻の宇宙の状態を与えれば、法則の完全な組が未来と過去の両方を完全に決定するというものです。ラプラスが定式化した科学的決定論は、先の2つ目の疑問に対する現代の科学者の答えと言えるでしょう。実際、これはすべての現代科学の基礎であり、この本の中で終始重要なことです。超自然的な存在が干渉しないとするときにだけ成り立つような法則は自然法則とは言えません。

(本書 p.44)

この神に関する問題の影に隠れた感じですが、科学的決定論に関しては、自由意志論や量子論の解釈問題という別な論点もあります。その論点については、3番目の疑問に対して有効理論という考え方につながってきます。

基礎となる物理法則を用いて人間の行動を予言するのはあまり実践的ではないので、私たちはいわゆる有効理論を用います。物理学において有効理論とは、基礎的過程を詳細にすべてを記述することなく、特定の観測される現象をモデル化するために用いられる枠組みです。たとえば私たちは、人間の体内にあるあらゆる原子と、地球上のあらゆる原子の重力相互作用を支配する方程式を厳密に解くことはできません。しかし実際上はどんな目的であっても、人間と地球の間の重力は、その人の全質量といったほんの数個の要素から導き出せます。同様に、複雑な原子や分子のふるまいを支配している方程式を解くことは私たちにはできませんが、個々の相互作用の詳細を記述することなく、原子や分子が化学反応の際にどうふるまうかをうまく説明してくれる化学という有効理論を私たちは発展させてきました。

(本書 p.48-49)

有効理論が有効理論と言われるのは、観測の限界に応じていわば便宜的に作られた法則であるからです。そしてこのことは、観測の限界を打破する努力を続けていけば、いつの日にかある現象を説明する唯一の理論(=真理)になりうるのかという問題へと向かいます。まさに著者は次のように述べています。

ほとんどの科学者は、それは観測者とは独立して存在する外界を数学的に記述することである、と言うことでしょう。しかし、身の回りを観察して概念を形作る手法について考えているうちに、私たちは以下の疑問にぶつかります。「客観的な真理が存在すると信じる根拠はほんとうにあるのだろうか」

(本書 p.51)

上記のような考察を経て、「第3章 実在とはなにか?―モデル依存実在論」において、ホーキングは「モデル依存実在論」という科学哲学の学説を打ち出しています。その内容は科学哲学で言うところの科学的実在論と反実在論の境界領域にあるといえるものです。

モデル依存実在論は、実在論者と反実在論者の間のこういった議論や論争のすべてを回避します。モデル依存実在論の下では、あるモデルが本当かどうかは重要ではありません。そのモデルが観測結果をよく説明するかどうかが重要なのです。先の金魚と私たちの視点の例のように、観測結果をうまく説明できる2つのモデルがあったとしたら、片方のモデルがもう片方のモデルより本当だとは言えないのです。状況に応じて、便利な方のモデルを使えばいいわけです。たとえば、もし金魚鉢の中にいるのであれば、金魚の視点が便利でしょう。しかし、金魚鉢の外にいるのであれば、金魚鉢の中からの視点で遠くの銀河の出来事を記述するのは非常に難しいでしょう。その金魚鉢は地球の好転や時点と共に動いてしまうでしょうから。

科学の世界において、私たちはモデルを作ります。しかし、私たちは日常生活においても同様にモデルを作っています。モデル依存実在論は、科学的なモデルだけでなく、日常の世界を解釈し理解するために、意識的にあるいは無意識的に作られるモデルに対しても適用することが出来るのです。私たちの知覚の世界から観測者―つまり、私たち―を取り除くことはできません。この知覚の世界というのは、私たちの感覚が働くことによって創られるもののことで、それによって私たちは考えたり判断したりします。私たちの知覚、すなわち理論の基礎となる観測は直接的なものではなく、脳が出来事を解釈する仕組みのような、ある種のレンズによって形作られています。

(本書 p.65)

この考え方、ハッキングが唱えた介入実在論(entity realism)と、ファン・フラーセンが唱えた構成的経験主義(constructive empiricism)とのさらに間のような考え方です。介入実在論とは次のような考え方です。

ハッキングは、これまでの科学哲学が、理論ばかりを偏重し、実験の役割を軽視してきたと批判している。むしろ、理論って、成熟した科学の最終産物だというのね。つまり最後にまとめられるもの。でも、科学の日常的な営みは、実はそうした教科書的な理論とはあまり関係がない。むしろ大多数の科学者にとって大事なのは実験で成果が上げられるかどうかでしょ。つまり、自分が探求している自然という「外にある」対象を実験的に操作する試みで成功を収めることが、とりあえずの目的であるってわけ。

(戸田山和久『科学哲学の冒険』 p.207)

そして、構成的経験主義とは次のような考え方です。

ファン・フラーセンは、世界のじかに観察できない部分について主張が当たっているかどうかは、科学の目的に照らすとどっちでもいいんだ、と考える。なぜなら、科学の目的は、世界の見えないところまで文字通り真な話をすることではないからだ。

(中略)

ファン・フラーセンの考える科学の目的は、「経験的に十全な(empirically adequate)」理論を作ることなんだよね。で、「理論が経験的に十全である」っていうのはどういうことかと言うとね、その理論から導くことが出来る、観察可能な領域についての主張がすべて正しいってこと。

(戸田山和久『科学哲学の冒険』 p.156)

介入実在論と構成的経験主義までくると、私のような科学哲学の素人には、その違いがよく分からなくなってきます。何らかの真理が存在しうるという1点を除いては、見分けがつかないのですが。

それにしても理論物理学者で科学的実在論の立場を取らない人は珍しいです。「訳者あとがき」でも分かるように、大方の理論物理学者は科学的実在論の立場を取っているようですから。

私は個人的には「モデル依存実在論」は正しいと考えているが、複数の理論や真理があってそれでよいなどと言い過ぎると、科学の進歩を妨げる恐れがあるのではないかとも考えてしまう。超ひも理論は難解な数学に基づいた理論であり、容易ではないことは承知しているが、M理論はこのセットで完全なものかもしれないと強調するのは、さらに理論的探求を通じてより深い理論、真理に至る努力を怠ることにつながりかねないのではないかと思う。

(本書 p.262)

上記の訳者の考え方に、科学的実在論が端的に現れています。それに対して、ある理論が真理であると知る手段はなく、真理の存在を仮定するのは危険でもあると考えるのが反実在論です。なぜ危険かというと、統計検定における偽陽性(第一種過誤)の問題などによって現象から法則が見出されてしまうと、今度は認知心理学の確証バイアスの問題によって見出された法則が真であることを確証する証拠ばかりを集めてしまい、真理に至る努力がかえって誤謬から抜け出す妨げになる恐れがあるからです。科学史を読むとそのようなことはよく起きていることが分かります。

統計的検定の過誤の話を持ち出しましたが、第1種過誤の危険性を重視するのが反実在論、第2種過誤の危険性を重視するのが科学的実在論と言う感じでしょうか。この2つの過誤の間にはトレードオフの関係があります。観測の限界によって、どちらの過誤を犯す恐れが高いと考えるかで、科学的実在論と反実在論を選びとればいいのではないでしょうか。

「第6章 この宇宙はどのように選ばれたのか?―相対論と量子論の描く宇宙像」の次の記述を読む限り、著者は基本的には「介入実在論」とほぼ同じ立場かとは思えます。

私たちは、科学の目的や何をもって物理理論を正しいと見なせるかという私たちの概念そのものを変えなければならないような、科学史の1つの転換点にいるように思われます。見かけ上の自然法則の基本定数やその形さえも、論理や物理的原理によって要請されるものではないことが明らかになっています。パラメータはたくさんの値から自由に選ぶことができ、法則は矛盾のない数学理論を導くならばどんな形でもとることができ、実際にそれらは異なる宇宙において異なる値、異なる形をとるのです。このことは、私たち人間の特殊な存在でありたいという希望に叶うものではないかもしれませんが、まさにそれこそが自然の姿であるように思われるのです。

(本書 p.233)

このような考え方に至ったのは、「第5章 万物の理論はあるのか?―無数の宇宙を予言するM理論」で説明されているM理論が、万物の理論であろうとしていることと関連性があります。M理論では、異なる見かけの法則を持った「異なる宇宙」が10500も存在する可能性が示唆されています。このことは「客観的な真理が存在すると信じる根拠はほんとうにあるのだろうか」という問に対して、いわば「真理は多数存在しうる」という回答となります。結局のところ、われわれの存在する宇宙が、そのような多数の宇宙の中の一つであるに過ぎないとすれば、唯一の真理というものを追求することにどんな意味があるのかということです。そして、法則は決定論か確率論かという問題に対しては、観測上の制約から、有効理論として確率論を用いているに過ぎないという考え方なのでしょうか。

そのような理解のもとで、「第7章 私たちは選ばれた存在なのか?―見かけ上の奇跡」では、創造主の問題について考察しています。物理法則や物理定数がなぜ現在観測されるようなものであるかについて、人間原理と呼ばれる議論があります。ようするに、少しでも物理法則や物理定数がことなっていれば、宇宙を観測できる我々人間という知的生命体が存在し得ない、という点に物理法則や物理定数の根拠を求める考え方です。私には自己言及的な議論に思えて、そこから何が有意義な議論が引き出せるのか今ひとつぴんと来ませんが。この人間原理という考え方は、人間が存在できるように法則や定数を定めたのだという、創造主の存在理由に転化することで、色々論議を巻き起こしています。この人間原理に対しては、異なる法則に支配される宇宙が、10500という非常に多数存在しうるのであれば、創造主の存在が無くても説明できるというのが著者の考えです。

私たちの太陽系で起こった数々の偶然が、何十億もの同様な系の存在によって平凡なものに成り下がったのと同じように、自然法則の微調整は宇宙がたくさんあることで説明することが出来ます。太古の昔から多くの人々は、当時、科学的な説明ができないように思えた自然の美と複雑さを神のおかげと思ってきました。しかし、一見すると奇跡的に見える生物のデザインが、崇高なる存在の介入なしにどのようにして可能になるのかをダーウィンやウォレスが説明したのと同じように、マルチバースの概念は、私たちのために宇宙を生み出した善意ある創造主の存在を必要とせずに、物理法則に微調整があることを説明できるのです。

(本書 p.233)

要するに膨大な可能性があれば、たまたま知的生命体が存在る宇宙もありうるということです。確かにクラスで誕生日が同じ日の同級生が存在しうる確率の問題のように、人間は偶然の一致というものを過小評価する傾向があるようですから。

そしてこの主張が神の存在を否定するものであるとして、先の記事のような物議を醸したのです。これがドーキンスのようなガチガチの無神論者の主張なら、このような記事になるほど注目を集めなかったのでしょうが、ホーキングは科学と宗教、神の存在に関しては融和論者と見られていたので、この記述はかえって注目をあつめることになってしまいました。

著者は本書の最終章、「第8章 グランドデザイン―宇宙の偉大な設計図」次のように締めています。

M理論はアインシュタインが夢見ていた統一理論です。単なる素粒子の集まりである私たち人間が、私たちと宇宙を支配する法則の理解にここまで近づいていることは偉大なる勝利です。しかし本当に奇跡的なことは、論理の抽象的思考が驚くほどの多様性に満ちた宇宙を記述し、予言するただ1つの理論に到達したことです。もしこの理論が観測により検証されれば、3000年以上にも及ぶ探求の成功という結末と言えるでしょう。私たちはグランドデザイン―宇宙の偉大な設計図―を手に入れたことになるのです。

(本書 p.253)

この記述を見て、モデル依存実在論の主張はほどんど反実在論に見えても、やはりホーキングは実在論者なんだなと思った次第です。そして、「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインと同じ宇宙観の持ち主であることも。

2011/02/18

新井 紀子『コンピュータが仕事を奪う』

人工的に知的存在を創り上げるというアイディアは古くからありましたが、現在において人工知能と呼ばれている研究は、プログラミング可能なコンピュータが開発された1950年代前後に始まったと考えていいでしょう。その後の歴史は、人間の知的作業を置き換えようとする努力と、容易には置き換えられないことがあることが分かって、人間の知的作業を支援する方向へと技術開発の流れが切り替わる、その繰り返しです。そのへんの歴史は「Timeline of artificial intelligence」とか、「History of artificial intelligence」とか見ると面白いです。ところどころ人工知能分野の冬の時代の記述がありますから。

ちょっと80年代以降の流れを私なりに挙げてみると次のような感じです。

  1. 置換:Knowledge engineering (Expert System)
  2. 支援:Computer Supported Cooperative Work (Groupware)
  3. http://www.blogger.com/img/blank.gif
  4. 置換:Machine learning (Information Retrieval)
  5. 支援:Social Web (Social network service)

では現在はどのフェースにあると見るべきなのでしょうか。人間の知的作業をコンピュータで置き換えようとしたGoogleに対してやや頭打ち感が見られます。

このように、人間の知的活動を置き換える動きにやや行き詰まり感があるのに対して、ソーシャルウェブのような人間の知的活動を支えるサービスへと流れが変わりつつあるのが現状です。技術者がどんどんFacebookに代表されるソーシャルな世界に流れているのが、そのような変化を強調しています。そして、また新たなブレークスルーの種が芽生えて、それが現実に有用なものにすることに成功する人が現れれば、また置き換える方向での革新が始まるでしょう。そしてそのようなブレークスルーの芽は、問題に突き当たった時点での専門分野の研究をさらに推し進めることよりも、実現可能性とか様々な理由で注意を払わなかったところからやって来ます。

新井紀子(著)『コンピュータが仕事を奪う』を読んだ時、まず脳裏をよぎったのは冒頭で述べた知的活動を置き換えようとする研究の歴史です。

著者は、現時点ではコンピュータに置き換えられない仕事がまだ多いことは認めています。ただ、ソーシャルウェブの普及や、情報技術に進展により低価格化したクラウドソーシングによって、人間の知的活動の記録はどんどん蓄積しています。その結果次のようなことが起きると予測しています。

これらの仕事は未来永劫人間世界にアウトソースされるとは限りません。なぜなら、こうして作られた訓練集合を学習することによって、機械が同等の能力を得たなら、もうその作業を人間に頼む必要はなくなるからです。

(本書 p.112)

コンピュータは記憶力に優れているので、人間が行った知的活動を記録した膨大なデータから知識を抽出することで、知的活動はコンピュータに置き換えられるだろうということです。これに関して、私の考えは逆です。学習において膨大なデータを有益なものにするのは容易ではなく、場合によっては学習を阻害することもあります。私は学習というものを、

  1. まず、知覚されたデータがあって、
  2. そのデータから有効な情報を選び出し、
  3. その情報を抽象化して知識とし、
  4. さらに不確実性や矛盾のある中で決定できる知恵とする

という階梯で捉えています。この階梯を進む過程で重要な能力は「注意」です。ここで言う注意とは、叱られたという意味での注意ではなくて、心理学とか神経科学で使われる意味の「注意(attention)」です。で、人工知能研究における最も大きなな難問の一つが注意です。

注意とは何かというと、考えうる選択肢の中から選び出すことです。逆に言えば、重要ではない膨大な選択肢を捨て去ることです。で、どこに注意を払えばよいかということは状況に依存します。状況に応じて柔軟に注意を移さなければいけません。これがうまくいかない障害が、注意欠陥多動性障害(ADSD)です。実際に機械学習でモデルを構築することに携わってみると、コンピュータは、どこに「注意」を向けたら良いのかを学習するのは苦手であるということを痛感します。確かに、どこに注意を向けたら良いのか決め、そのための良質なデータを与えてやれば、たしかに人間には立ち打ち出来ないこともあります。でも、統計で2個の母集団のデータを混ぜると逆に有意なことが言えなくなることがあるように、適切なモデルと質量揃ったデータがなければ、しょぜんは「Garbage In, Garbage Out」です。もちろん、著者はそのようなことは十分承知しており、日本語の構文解析や、画像認識の例を取り上げて、困難さについても説明していますが、現在進行中の技術革新によってどこまで人間の知的活動を置き換えられるかという点については、著者の考えは私にはやや過大評価に思えます。多分、状況に合わせた注意の移動を学習させるにはまだ先が長そうです。

その上で、コンピュータが仕事を奪うかというと、一旦蓄えた情報や知識の切り売りしていく形態の仕事は奪われるでしょうね。個人的には、情報技術の発達と国際化で多数の知識労働者が参入している影響で、「情報そのもの」や「知識そのもの」のほとんどは価値が暴落したと捉えています。なので、知識労働者に関して言えば、技能、知識を身につけて、それで一生食べ抵抗とするなら、やめておけと言いたいです。著者も、その極端な例として、Amazon Mechanical Turkを取り上げて次のように主張しています。

つまり、「多くの人間が担える仕事」の賃金は、そのレベルまで下がりうることを意味します。クラウドソーシングが「小遣い稼ぎ」にとどまる間は、それでも構わないかもしれません。しかし、これが労働市場の一角を占めるようになれば、比較的賃金の高い日本人に深刻な影響を及ぼすことになるでしょう。なにしろ、こうした労働の単価は、理論上は世界の最低賃金まで下がっていくはずですから。

(本書 p.121)

基本的にはこの主張に同意します。ただ、目標を達成するためには何をすればよいか決める人、または矛盾した目標の中で何を目指すかを決める人の需要はさらに増大するでしょう。知識を価値のあるものにする能力は、不完全な情報、不確実な状況下における意思決定の連続ですから"art"の領域です。この仕事をコンピュータが奪う目処はまだ立っていません。もちろん、情報技術を用いた巧みな心理操作によって、事実上選好が決められているような「ユートピア」なら、コンピュータがそのような仕事も奪ってしまうでしょうが。

またソーシャルウェブにしろ、クラウドソーシングにしろ、コンピュータの下働きをしているというよりは、最近シャーキーが唱えているような、個々人のCognitive Surplusを提供し合う場を共有していて、その場を維持する仕掛けをコンピュータが実現していると見たほうがよいのではないでしょうか。まあ、コンピュータに使われていることから目を逸らすための「合目的化」であるといわれればそうかも知れませんか。

著者は、「第3章 数学が文明を築いた」、「第4章 数学で読み解く未来」、「第5章 私たちは何を学ぶべきか」で、コンピュータと差別化するためには論理的思考法を身につけることが必要で、数学はその有力な武器になると述べています。この論理的思考法ということを、抽象化・一般化と仮説演繹法・アブダクションと捉えれば概ね同意です。話が噛み合わないのは往々にして異なる前提で論理を展開しているからです。抽象化・一般化により論点、前提を明確にして、共通の土俵で議論をすることで、建設的な話し合いが出来ます。これには数学的な思考法がたしかに有効でしょうね。ただし、ただでさえものごとには必ず正解があるという信念が、色々頭の痛い問題を引き起こしているので、論理的思考法を身につければものごとは全て合理的に解決する、のでは無いことも同時に教える必要もありますが。答えのない問いを考える、立場を入れ替えて考える、などと併用しないと副作用が心配です。

あと、仮説演繹法を具体的な問題解決の場で用いる場合にはに落とし穴もあって、仮説を立ているときに何に注意を払って切り捨てたかという点を自覚していないと、現実の問題を解決するときに、往々にして思わぬ副作用に苦しめられることになります。専門家が想定外の結末に終わったことを責められたとき、一般の人には責任転嫁としか受け取られない言動が見受けられる場合もあります。まあ、本当に責任逃れをしている場合もあるかもしれませんが、実際あってみると案外誠実な方だったりします。なぜこうなるか推測するに、専門家として事物を捨象する訓練を受けた副作用として、一般人には当たり前のことが逆に見えなくなっている場合が多いのではないでしょうか。まさにそれを端的に表す言葉もありますが。

人間の行動は意識、無意識になされた意思決定の連続です。そして、学習においては抽象化する能力が重要であったように、意思決定では具体化する能力が重要になります。抽象化の過程が多くの事象から単純な法則を見出すことであることの裏返しとして、具体化はある条件を満たしうる多数の選択肢の中から最適であろうと思われるものを選び出す過程です。問題は、具体化の過程ですべての条件を洗い出せることも、具体的に目標値なりを定めることも、現実では出来ないということです。項目を洗い出せたとしてもジレンマとかトリレンマがある上に、抽象化の過程で瑣末なことであると切り捨てたことが、具体化する過程で重大な課題として表面化することもあるということです。だから、意思決定は"art"な訳で。このあたり、研究者と実務者とのあいだで最大のギャップが生じるところです。うまく協調している分野もあれば、いがみ合っている分野もありと。

注意を払わなくていいとみなされているものは、殆どの場合注意を払わなくてもいいことです。でも、イノベーションの種はそのような注意を払われないものの中に潜んでいます。著者は、イノベーションについて次のように述べています。

イノベーションが起こる原点となるのが、パスカルが行ったような「誰もが暗黙のうちに知っているけれどの言語化されていない何か」を言語化する作業です。

(本書 p.57)

確かに、ある意味そのとおりなんですけど、なぜ「観れども見えず」の状態のままであるかといえば、「見ないことにしたほうが効率的だった」からです。その潜在的な種を見出すには、状況の変化を察知して、注意の向け方を変えることの出来る柔軟性が要求されます。まあ、大抵の場合には無駄な努力に終わるでしょう。でも、そのような柔軟性こそが、人間にいつまでも残されるであろう知的活動でしょう。それが、著者の次の問い掛けに対する私なりの考えです。

では、いったい人間はどの能力において戦えばよいか、というと、コンピュータが苦手で、しかもその能力によって労働の価値に差異が生まれるようなタイプの能力で戦わざるを得ないのです。

(本書 p.190)

知識を獲得するということは固定観念にとらわれることと裏腹であり、注意を向けられる先が限られている以上、イノベーションには忘却が伴います。知識の獲得と忘却、そのバランスを取る能力こそが人間の学習の特徴であり、コンピュータが発達した時代で最も価値のある能力でしょう。ちょっとした違いで価値が全く変わるのが知識ですから。

このようなことをてきましたが、「そういうお前はどうなのよ」といいますと、このようなエントリーからも分かるように、「言うは易く行なうは難し」であります。まあ、なぜ出来ないか思い悩む中で考えてきたことなので、「注意を柔軟に」とかうまいはずがありません。まだまだ精進しなければと心には誓うのですが、実践は本当に難しいです…。

2011/02/09

規則と原則

日本だけではありませんが、言質をとってあとで書この言動との不一致を非難する言動は、日本に限らずどこの国でも見られる光景です。

でも、言動が首尾一貫していないと非難する人が、同時に硬直した対応を非難するというのはなんか矛盾しているように見えます。責務が重くなるにともなって、「規則」では処理しきれない事柄を「原則」に従っていわば場当たり的に処理しければいけなくなります。情報も限られますし、時間的な制限もありますから。そのような責務を負った人において、言動が一見首尾一貫して見えないこと自体はあまり問題とは思えません。むしろ状況を読んで適切な対応を取れる柔軟性があると見ることも出来きます。

問題は、場当たり的に見える決断が、原則に則ったものであることをきちんと納得出来る形で説明できるかということと、その原則が妥当であるかという点です。なにか問題があると、一律禁止とか硬直した極端な対応に流れがちなのは、「原則」に基づいた行動とはなにか、また原則に基づいた行動をとる訓練が不足しているのかな。それ故、納得出来る「原則」をうまく示すことが出来ないし、自らの行動が一見矛盾しているように見えて「原則」に則っていることを説明ができないのでしょう。また、そのような原則に基づいた行動規範にもとづく組織運営というものに人々が慣れていないので、つい揚げ足取りに走ってしまうのかもしれません。

まあ、メディアでよく見かけるのですが、言動の不一致をあげつらうだけでは、そのあげつらった人の人間としての小ささを示すだけで、あまり賢明ではないと思いますよ。

追記:

投稿してから読み返してみて、なんか自分自身もまだまだ小さいなあと思いました…。

もちろん、「原則」が納得いくものであることが前提です。あと、「原則」が本当に納得いくものであるかは、その後の言動によって判断されますので、何事でも正当化されるわけではありません。原則からの逸脱が著しいと判断されたとしても、官民どちらでも選挙等によって平和裏に交代できる制度が(一応)整えられていますので、重責につかれる方に置きましては、不安にかられることなく原則をお示し下さいませ。

2011/02/07

進化論→科学哲学→論理学、分析哲学

またまたブログ更新間隔空いてしまいました。その間の状況としましては…。

  1. 進化論の本を読んでいて、理論そのものは納得できたものの、その論理展開に引っ掛かりを覚えて全体としてはなんかうまく受け入れられない思いに駆られる。どうも、著者は科学哲学として科学的実在論の立場に立っていて、その「実在」概念に抵抗があるようだと。科学哲学についてはつまみ食いした程度だったので、もう少し深く学んでみようかと思い立つ。
  2. 科学哲学で読んだ本の中で、排中律が成り立つとした論理展開に違和感を感じる。論理学、数学の公理は恒真だけど、科学理論の前提は理論を構築するために「真であるとみなした」だけだから、その論理展開は妥当なのだろうかと疑問を抱く。でも、直観主義論理とか様相論理の基礎が弱くてどうもすっきりともやもや感を解消できない。論理学とかしっかり学び直さないと…。
  3. さらには分析哲学、さらには哲学一般についても知識的にかなり危ういし…。

ということで、納得できないと前に進めないという悪い癖が出ています…。哲学とかあまり興味を感じ無いというか、無意味な言葉の羅列にしか思えなくて、あまり深入りしなかったことが今になってひびいています。まあ、程々にしないときりがないんですけどね。

2011/01/07

志村 五郎『数学をいかに使うか』

大学時代、線形代数とか複素解析とか習ったときに、なぜこのように考えるかという点についてずいぶんと悩んだ記憶があります。多変量解析を理解する上で線形代数の知識が必要とされたり、回転がすっきりと表現できたりとか、後になって教えられた内容の意義について理解できたのですが。真面目な方は履修しなければいけないことと捉えて特に疑問も抱かずに通り過ぎるのでしょうが、私には結構な苦行でした。多分、自分の興味がある分野との繋がりが見えていれば、もう少し真面目に取り組めたのでしょうが。

志村 五郎(著)『数学をいかに使うか』は、証明の楽しさを強調する数学者の方が多い中にあって、「使える」ことを重視するというやや異色の立場で書かれた本です。著者は、フェルマーの最終定理の証明の話に出てくる谷山・志村予想を提出したことでよく知られた方で、それもあって年末年始に読むにはよさそうだと思い手にとってみました。

本書を書くに当たって著者がとった立場は明快です。

普通の教科書に書いていないが、面白い事、あるいは知っておいたほうがよいことがあるのでそれを書く。そして数学を「どう使うか」という態度で書く。言いかえれば「使えない数学は教えなくてよく、学ばなくてもよい」ということを説明する。

(本書 p.3)

その観点から著者は次のテーマを選び出しています。

  1. 線形代数の使い方
  2. Hermite行列その他
  3. ベクトル積から外積代数まで
  4. 四元数環の重要性
  5. Clifford代数とスピン群
  6. 複素解析、特に楕円関数
  7. テータ関数と保型形式
  8. Riemannのテータ関数とDedekindのη
  9. Lebesgue積分とFourier解析
  10. Fourier変換からメタプレクティック群へ
  11. 代数でなにを教えるべきか

(本書 目次抜粋)

もちろん証明を軽視しているわけではなく、本書の中でも必要に応じて証明が示されていたり、読者に向けた問題が出されていたりします。

要するに数学は学ぶにせよ教えるにせよ、決められた伝統的な段階をふんできっちりとやらなければならないものではない。特に「何でも厳密に」などと考えてはいけいない。これは教育上で言っているのであって、厳密でなければならない場所はもちろんある。

(本書 p.4)

数学に割ける時間は限られている以上、その有限な時間を最大限有効に使うためには、何が重要で何を教えるべきか、考え直したほうがよいのではないかというのが、著者の主張であり、本書から読み取って欲しいと著者が願っていることでもあると思います。

具体的にには何が重要かについて、本文の中からいくつか記述をピックアップしてみます。

Lebesgue積分も複素解析も、その易しい部分は大学の一般初年級の微積分に含めてもよい時代になっているのではないかと思う。

(本書 p.4)

四元数環Hはそれだけで非常に重要なもので、実数体R、複素数体Cの次に自然に出てくるものであり数学教育のかなり早い段階で教えられて良いと私は思う。

(本書 p.61)

そんなことに時間を費やすよりは外積代数、微分形式、外微分などの易しい場合の使い方を教えたほうがよい。

(本書 p.61)

たとえば有限群の表現論などは、Galoisの理論よりも先に教えられてよいように思う。

(本書 p.135)

そんなことを教えるよりも、Hamiltonの四元数環の重要性を教えたほうがよいと私は思う。

(本書 p.138)

四元数のように、一見何のために複素数よりさらに複雑な概念を導入するんだろうと見えても、導入したほうが簡潔に表現できるだなあと納得。

他の分野での利用を考えると、確かにルベーグ積分や複素解析は基本的なところは早めに習ったほうがよさそう。厳密に進めていてはそこまで進むことはなかなか出来ないので、既存のカリキュラムでは厳密に進めているところでも、敢えて自明として先に進んだほうがよいかも。どのように使えるかが理解できてその後の学習のモチベーションが変わってくるでしょうし。厳密にやらなければいけいないことも後になって出てくるでしょうが、全体が見通せた上で取り組んだほうが取り組みは容易になるのではないでしょうか。普通の人には全てにおいて専門家になるなんで無理ですから。

2011/01/03

餅を喉に詰まらせたときの救命法

今年も餅を喉につまらせて亡くなった方が出ていることが報道されています。

このような記事を見ると、「お年寄りは餅を食べないでくださいと表示すべきだ」とか、「喉につまらない大きさで販売するよう規制すべきだ」とか皮肉を言いたくなります。そんな皮肉ばかり言っているのも何なので、餅を喉につまらせたときの対処法について、今どのように指導されているか調べてみました。

まずは119番通報して救急車を呼ぶことが第一ですが、救急車が到着するまでの間に出来る応急処置が日本医師会のサイトで紹介されています。

まずは反応のある場合については異物除去を試みます。反応がない、つまり心肺停止状態の場合は、まずは心肺蘇生を試みます。

異物の除去法については、「腹部突き上げ法」と「背部叩打法」があります。

  • 患者が、呼びかけに応じることができる場合です。
  • 救助者が一人だけの場合は、119番通報する前に、異物除去を行います。
  • 異物除去には、「腹部突き上げ法」「背部叩打法」があります。
  • 異物除去は、可能であれば、「腹部突き上げ法」を優先し、一方で効果が無ければ、もう一方を試みます。異物が取れるか、意識が無くなるまで続けます。
  • 妊婦や乳児では、腹部突き上げ法は行いません。背部叩打法のみ行います。
  • 日本医師会 - 救急蘇生法サイト:気道異物除去の手順

そのやり方について図入りで解説されていますので、いざという時のために事前にそのやり方を覚えておいたほうが良いでしょう。ことが起きてしまっては冷静な行動ができなくて、やり方を見てここで紹介された方法を実施するとかまず出来ませんから。

腹部突き上げ法は次のような方法です。

妊婦や乳児では、腹部突き上げ法は行いません。
背部叩打法のみ行います。

  1. 患者の後ろに回り、ウエスト付近に手を回します。
  2. 一方の手で「へそ」の位置を確認します。
  3. もう一方の手で握りこぶしを作って、親指側を、患者の「へそ」の上方で、みぞおちより十分下方に当てます。
  4. 「へそ」を確認した手で握りこぶしを握り、すばやく手前上方に向かって圧迫するように突き上げます。
  5. 腹部突き上げ法を実施した場合は、腹部の内臓を傷める可能性があるため、救急隊にその旨を伝えるか、すみやかに医師の診察を受けさせてください。

日本医師会 - 救急蘇生法サイト:気道異物除去の手順

背部叩打法は次の方な方法です。

  • 患者の後ろから、手のひらの基部で、左右の肩甲骨の中間当たりを力強く何度も連続して叩きます。
  • 妊婦や乳児では、腹部突き上げ法は行いません。背部叩打法のみ行います。

日本医師会 - 救急蘇生法サイト:気道異物除去の手順

あと、反応が無い、つまり心停止しているおそれがあるときは心肺蘇生法を行うことが優先です。

あと、心肺蘇生法を試みているときに異物が出てくることがあります。

心肺蘇生を行っている途中で異物が見えた場合は、それを取り除きます。見えない場合にはやみくもに指を入れて探らないで下さい。異物を探すために胸骨圧迫を中断しないで下さい。

日本医師会 - 救急蘇生法サイト:気道異物除去の手順

一応簡単に情報をまとめてみましたが、多分見ただけではそのやり方をつかむことは難しいと思います。方法の説明にもあるように、腹部突き上げ法では腹部の内臓を傷つける恐れがあります。また心肺蘇生法で行う心臓マッサージは、「胸骨圧迫」とあるように胸骨を骨折するリスクがあります。しかしながら骨折を恐れていて十分な力をかけられなければ、肝心の心肺蘇生が失敗に終わってしまいます。昔心臓マッサージを教えられたときは、「骨折を恐れるな」と教えられたことを思い出します。事前にそのやり方を体験していないと、いざという時に適切に救急蘇生法を行えないと思うので、医師会、消防署等が実施している講習を受けるなりしたほうがいいでしょう。

掃除機を使って吸いだす方法も有りますが、その有効性については賛否両論があります。粘性が高くて気管に粘着した餅は掃除機では吸い出せないとか。それ故か標準的な指導書には掲載されていません。

ただ、掃除機の使用については考慮すべきという意見もあります。

1)ハイムリック法には重篤な合併症をおこす危険がある。

2)掃除機は考慮すべき器材である。 3)気道異物防止には啓蒙が最良の方法である。

ハイムリック法と掃除機 - 最新救急事情2000/03月号

普通の掃除機だと喉まで差し込むには直径が大きいという問題もありますが、隙間などを掃除するための細めのノズルを使ったり、または相生市消防本部と兵庫県立姫路循環器病センターにより開発された『IMG吸引ノズル』という専用の器具も販売されています。

この器具は、発売元のサイトによると次のように使います。

  1. 掃除機のスイッチを入れます。
  2. 吸引ノズルのゴム球を掃除機の先に当てます。
  3. 口を開けさせて、ノズルを口の中に5cmぐらい入れます。
  4. ノズルを入れたら口と鼻を手でふさぎます。約2~3秒で口からノズルを抜きます。
  5. 1回で取れない場合は、2~3回繰り返してください。
  6. それでも取れない場合は、直接ノズルを異物に近づけて吸引します。

※スイッチを長く入れると吸引力が強いため、自発呼吸ができにくくなるのでご注意ください。

IMG 吸引ノズル

お雑煮の餅とかで粘りついてしまったときにうまく吸い出せるかが、賛否両論の争点なのかな。

2011/01/01

明けましておめでとうございます

新年明けましておめでとうございます。

昨年は少し更新間隔開けてしまいましたが、今年は(今年こそは?)もう少しまめに更新していこうと思っています。でも、毎年そう思っているような気がするのですが(汗)。