日本にいると、一部関心を持っている人以外は、進化論と創造論の対立の構図が、今も米国の教育の場を中心に続いていることを知らないかと思います。進化論を教えてはいけないという法律はさすがになくなりましたが、聖書の創造論に科学的な装いを凝らしたインテリジェント・デザイン論を学校教育の場で教えることを定めた法律を立法化する動きは現在も続いています。この進化論と創造論の論争に一石を投じたのが、スティーヴン・ホーキング、レナード・ムロディナウ(著)『ホーキング、宇宙と人間を語る(原題:The Grand Design)』です。
本書の主著者と言えるスティーヴン・ホーキングは、筋萎縮性側索硬化症でからだの自由がきかない中で、極めて優れた理論物理学者として広く尊敬を集めています。そして、この新著の中で神の存在を否定したとして、著書の中でもその点に注目を集める結果となってしまいました。その論議の的が何かというのは次の記事に要約されています。
In his 1988 book, A Brief History of Time, Hawking had seemed to accept the role of God in the creation of the universe. But in the new text, co-written with American physicist Leonard Mlodinow, he said new theories showed a creator is "not necessary".
Stephen Hawking says universe not created by God | Science | The Guardian
「第2章 自然法則はいかに創られたか?―法則の決まり」において、創造主としての神の存在は必然ではないという考えに至ったのは、自然の法則とは何かという次の3つの疑問を突き詰めていった結果であることが述べらています。
- 法則の起源はなにか?
- その法則に例外(奇跡)は存在するのか?
- 可能な法則は1組だけしか存在しないのか?
(本書 p.42)
まず第1番目の問題です。
神は旧約聖書の神であるといった特徴を付け加えない限り、最初の疑問に関する答えとして神を用いることは、単に1つの謎を別の謎に置き換えているに過ぎません。したがって、もし最初の疑問に対する答えとして神を含めてしまうのであれば、真の問題は法則に奇跡や例外はあるのか、という2つ目の疑問に帰着します。
(本書 p.42)
そして、2番目の疑問に対しては、ナポレオンから神の存在について尋ねられたとき、「陛下、私はそのような仮説を必要としたことはありません」と答えたと言われるラプラスと立場を踏襲しています。
科学的な決定論を最初に明確に仮定したのはラプラスである、と一般に考えられています。それは、ある時刻の宇宙の状態を与えれば、法則の完全な組が未来と過去の両方を完全に決定するというものです。ラプラスが定式化した科学的決定論は、先の2つ目の疑問に対する現代の科学者の答えと言えるでしょう。実際、これはすべての現代科学の基礎であり、この本の中で終始重要なことです。超自然的な存在が干渉しないとするときにだけ成り立つような法則は自然法則とは言えません。
(本書 p.44)
この神に関する問題の影に隠れた感じですが、科学的決定論に関しては、自由意志論や量子論の解釈問題という別な論点もあります。その論点については、3番目の疑問に対して有効理論という考え方につながってきます。
基礎となる物理法則を用いて人間の行動を予言するのはあまり実践的ではないので、私たちはいわゆる有効理論を用います。物理学において有効理論とは、基礎的過程を詳細にすべてを記述することなく、特定の観測される現象をモデル化するために用いられる枠組みです。たとえば私たちは、人間の体内にあるあらゆる原子と、地球上のあらゆる原子の重力相互作用を支配する方程式を厳密に解くことはできません。しかし実際上はどんな目的であっても、人間と地球の間の重力は、その人の全質量といったほんの数個の要素から導き出せます。同様に、複雑な原子や分子のふるまいを支配している方程式を解くことは私たちにはできませんが、個々の相互作用の詳細を記述することなく、原子や分子が化学反応の際にどうふるまうかをうまく説明してくれる化学という有効理論を私たちは発展させてきました。
(本書 p.48-49)
有効理論が有効理論と言われるのは、観測の限界に応じていわば便宜的に作られた法則であるからです。そしてこのことは、観測の限界を打破する努力を続けていけば、いつの日にかある現象を説明する唯一の理論(=真理)になりうるのかという問題へと向かいます。まさに著者は次のように述べています。
ほとんどの科学者は、それは観測者とは独立して存在する外界を数学的に記述することである、と言うことでしょう。しかし、身の回りを観察して概念を形作る手法について考えているうちに、私たちは以下の疑問にぶつかります。「客観的な真理が存在すると信じる根拠はほんとうにあるのだろうか」
(本書 p.51)
上記のような考察を経て、「第3章 実在とはなにか?―モデル依存実在論」において、ホーキングは「モデル依存実在論」という科学哲学の学説を打ち出しています。その内容は科学哲学で言うところの科学的実在論と反実在論の境界領域にあるといえるものです。
モデル依存実在論は、実在論者と反実在論者の間のこういった議論や論争のすべてを回避します。モデル依存実在論の下では、あるモデルが本当かどうかは重要ではありません。そのモデルが観測結果をよく説明するかどうかが重要なのです。先の金魚と私たちの視点の例のように、観測結果をうまく説明できる2つのモデルがあったとしたら、片方のモデルがもう片方のモデルより本当だとは言えないのです。状況に応じて、便利な方のモデルを使えばいいわけです。たとえば、もし金魚鉢の中にいるのであれば、金魚の視点が便利でしょう。しかし、金魚鉢の外にいるのであれば、金魚鉢の中からの視点で遠くの銀河の出来事を記述するのは非常に難しいでしょう。その金魚鉢は地球の好転や時点と共に動いてしまうでしょうから。
科学の世界において、私たちはモデルを作ります。しかし、私たちは日常生活においても同様にモデルを作っています。モデル依存実在論は、科学的なモデルだけでなく、日常の世界を解釈し理解するために、意識的にあるいは無意識的に作られるモデルに対しても適用することが出来るのです。私たちの知覚の世界から観測者―つまり、私たち―を取り除くことはできません。この知覚の世界というのは、私たちの感覚が働くことによって創られるもののことで、それによって私たちは考えたり判断したりします。私たちの知覚、すなわち理論の基礎となる観測は直接的なものではなく、脳が出来事を解釈する仕組みのような、ある種のレンズによって形作られています。
(本書 p.65)
この考え方、ハッキングが唱えた介入実在論(entity realism)と、ファン・フラーセンが唱えた構成的経験主義(constructive empiricism)とのさらに間のような考え方です。介入実在論とは次のような考え方です。
ハッキングは、これまでの科学哲学が、理論ばかりを偏重し、実験の役割を軽視してきたと批判している。むしろ、理論って、成熟した科学の最終産物だというのね。つまり最後にまとめられるもの。でも、科学の日常的な営みは、実はそうした教科書的な理論とはあまり関係がない。むしろ大多数の科学者にとって大事なのは実験で成果が上げられるかどうかでしょ。つまり、自分が探求している自然という「外にある」対象を実験的に操作する試みで成功を収めることが、とりあえずの目的であるってわけ。
(戸田山和久『科学哲学の冒険』 p.207)
そして、構成的経験主義とは次のような考え方です。
ファン・フラーセンは、世界のじかに観察できない部分について主張が当たっているかどうかは、科学の目的に照らすとどっちでもいいんだ、と考える。なぜなら、科学の目的は、世界の見えないところまで文字通り真な話をすることではないからだ。
(中略)
ファン・フラーセンの考える科学の目的は、「経験的に十全な(empirically adequate)」理論を作ることなんだよね。で、「理論が経験的に十全である」っていうのはどういうことかと言うとね、その理論から導くことが出来る、観察可能な領域についての主張がすべて正しいってこと。
(戸田山和久『科学哲学の冒険』 p.156)
介入実在論と構成的経験主義までくると、私のような科学哲学の素人には、その違いがよく分からなくなってきます。何らかの真理が存在しうるという1点を除いては、見分けがつかないのですが。
それにしても理論物理学者で科学的実在論の立場を取らない人は珍しいです。「訳者あとがき」でも分かるように、大方の理論物理学者は科学的実在論の立場を取っているようですから。
私は個人的には「モデル依存実在論」は正しいと考えているが、複数の理論や真理があってそれでよいなどと言い過ぎると、科学の進歩を妨げる恐れがあるのではないかとも考えてしまう。超ひも理論は難解な数学に基づいた理論であり、容易ではないことは承知しているが、M理論はこのセットで完全なものかもしれないと強調するのは、さらに理論的探求を通じてより深い理論、真理に至る努力を怠ることにつながりかねないのではないかと思う。
(本書 p.262)
上記の訳者の考え方に、科学的実在論が端的に現れています。それに対して、ある理論が真理であると知る手段はなく、真理の存在を仮定するのは危険でもあると考えるのが反実在論です。なぜ危険かというと、統計検定における偽陽性(第一種過誤)の問題などによって現象から法則が見出されてしまうと、今度は認知心理学の確証バイアスの問題によって見出された法則が真であることを確証する証拠ばかりを集めてしまい、真理に至る努力がかえって誤謬から抜け出す妨げになる恐れがあるからです。科学史を読むとそのようなことはよく起きていることが分かります。
統計的検定の過誤の話を持ち出しましたが、第1種過誤の危険性を重視するのが反実在論、第2種過誤の危険性を重視するのが科学的実在論と言う感じでしょうか。この2つの過誤の間にはトレードオフの関係があります。観測の限界によって、どちらの過誤を犯す恐れが高いと考えるかで、科学的実在論と反実在論を選びとればいいのではないでしょうか。
「第6章 この宇宙はどのように選ばれたのか?―相対論と量子論の描く宇宙像」の次の記述を読む限り、著者は基本的には「介入実在論」とほぼ同じ立場かとは思えます。
私たちは、科学の目的や何をもって物理理論を正しいと見なせるかという私たちの概念そのものを変えなければならないような、科学史の1つの転換点にいるように思われます。見かけ上の自然法則の基本定数やその形さえも、論理や物理的原理によって要請されるものではないことが明らかになっています。パラメータはたくさんの値から自由に選ぶことができ、法則は矛盾のない数学理論を導くならばどんな形でもとることができ、実際にそれらは異なる宇宙において異なる値、異なる形をとるのです。このことは、私たち人間の特殊な存在でありたいという希望に叶うものではないかもしれませんが、まさにそれこそが自然の姿であるように思われるのです。
(本書 p.233)
このような考え方に至ったのは、「第5章 万物の理論はあるのか?―無数の宇宙を予言するM理論」で説明されているM理論が、万物の理論であろうとしていることと関連性があります。M理論では、異なる見かけの法則を持った「異なる宇宙」が10500も存在する可能性が示唆されています。このことは「客観的な真理が存在すると信じる根拠はほんとうにあるのだろうか」という問に対して、いわば「真理は多数存在しうる」という回答となります。結局のところ、われわれの存在する宇宙が、そのような多数の宇宙の中の一つであるに過ぎないとすれば、唯一の真理というものを追求することにどんな意味があるのかということです。そして、法則は決定論か確率論かという問題に対しては、観測上の制約から、有効理論として確率論を用いているに過ぎないという考え方なのでしょうか。
そのような理解のもとで、「第7章 私たちは選ばれた存在なのか?―見かけ上の奇跡」では、創造主の問題について考察しています。物理法則や物理定数がなぜ現在観測されるようなものであるかについて、人間原理と呼ばれる議論があります。ようするに、少しでも物理法則や物理定数がことなっていれば、宇宙を観測できる我々人間という知的生命体が存在し得ない、という点に物理法則や物理定数の根拠を求める考え方です。私には自己言及的な議論に思えて、そこから何が有意義な議論が引き出せるのか今ひとつぴんと来ませんが。この人間原理という考え方は、人間が存在できるように法則や定数を定めたのだという、創造主の存在理由に転化することで、色々論議を巻き起こしています。この人間原理に対しては、異なる法則に支配される宇宙が、10500という非常に多数存在しうるのであれば、創造主の存在が無くても説明できるというのが著者の考えです。
私たちの太陽系で起こった数々の偶然が、何十億もの同様な系の存在によって平凡なものに成り下がったのと同じように、自然法則の微調整は宇宙がたくさんあることで説明することが出来ます。太古の昔から多くの人々は、当時、科学的な説明ができないように思えた自然の美と複雑さを神のおかげと思ってきました。しかし、一見すると奇跡的に見える生物のデザインが、崇高なる存在の介入なしにどのようにして可能になるのかをダーウィンやウォレスが説明したのと同じように、マルチバースの概念は、私たちのために宇宙を生み出した善意ある創造主の存在を必要とせずに、物理法則に微調整があることを説明できるのです。
(本書 p.233)
要するに膨大な可能性があれば、たまたま知的生命体が存在る宇宙もありうるということです。確かにクラスで誕生日が同じ日の同級生が存在しうる確率の問題のように、人間は偶然の一致というものを過小評価する傾向があるようですから。
そしてこの主張が神の存在を否定するものであるとして、先の記事のような物議を醸したのです。これがドーキンスのようなガチガチの無神論者の主張なら、このような記事になるほど注目を集めなかったのでしょうが、ホーキングは科学と宗教、神の存在に関しては融和論者と見られていたので、この記述はかえって注目をあつめることになってしまいました。
著者は本書の最終章、「第8章 グランドデザイン―宇宙の偉大な設計図」次のように締めています。
M理論はアインシュタインが夢見ていた統一理論です。単なる素粒子の集まりである私たち人間が、私たちと宇宙を支配する法則の理解にここまで近づいていることは偉大なる勝利です。しかし本当に奇跡的なことは、論理の抽象的思考が驚くほどの多様性に満ちた宇宙を記述し、予言するただ1つの理論に到達したことです。もしこの理論が観測により検証されれば、3000年以上にも及ぶ探求の成功という結末と言えるでしょう。私たちはグランドデザイン―宇宙の偉大な設計図―を手に入れたことになるのです。
(本書 p.253)
この記述を見て、モデル依存実在論の主張はほどんど反実在論に見えても、やはりホーキングは実在論者なんだなと思った次第です。そして、「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインと同じ宇宙観の持ち主であることも。