スティーヴン・ジェイ・グールド (著)『ぼくは上陸している (上): 進化をめぐる旅の始まりの終わり』、『ぼくは上陸している (下): 進化をめぐる旅の始まりの終わり』のタイトルは、もし「9.11」が起きなれば別なタイトルになって出版されたでしょうね。それが、一番初めの「1章 ぼくは上陸している」と、締めの「31章 2001年9月11日」を読んで感じました。「9.11」が起きた2001年9月11日から100年前、1901年9月11日は著者の祖父が移民としてエリス島に上陸した記念の日であり、本書のタイトルも、祖父が入国早々に購入した英文法の教科書への書き込みから取られています。本来なら祖父の移住100年を祝うはずの日にあのような出来事が発生してしまいました。そして断続平衡説の提唱者として、「9.11」は歴史の中の大きな断続点として認識していることが本書の内容からも伺えます。
上巻目次
- はじめに
- 第一部 連続の中断
- 1章 ぼくは上陸している
- 第二部 学問間のつながり―間違った分割への科学的な判断
- 2章 想像力なき科学も、事実なき芸術もありえない
- 3章 ジム・ボウイの書簡とビル・バックナーの股間
- 4章 素晴らしきものすべての真の体現者
- 5章 『アンデスの山奥』での芸術と科学の出会い
- 第三部 ダーウィン以前と副産物
- 6章 マルクスの葬儀に出席したダーウィン主義者の紳士
- 7章 クルミの殻の中の先史人
- 8章 フロイトの進化論的空想
- 第四部 思想の古生物学におけるエッセイ
- 9章 ユダヤ人とユダヤ石
- 10章 化石が若かった頃
下巻目次
- 第四部 思想の古生物学におけるエッセイ (承前)
- 11章 梅毒とアトランティス大陸の羊飼い
- 第五部 賽を投げる―進化の縮図六題
進化論の擁護
- 12章 ダーウィンとカンザスのマンチキン
- 13章 ダーウィンの堅牢な館
- 14章 あらゆる理屈づけのためのダーウィン
進化と人間の本性
- 15章 少ないほどほんとうに豊かな場合
- 16章 ダーウィンの言う文化の程度
- 17章 天才ネズミの内と外
- 第六部 エヴォリューションの意味と描画
定義の始まり
- 18章 嫌われ者の"E"で始まる言葉の意味やそもいかに
- 19章 残された人生の初日
- 20章 サン・マルコ大聖堂の拝廊とパンジーン説のパラダイム
構文解析と処理作業
- 21章 リンネの幸運
- 22章 アプシェリッヒ!(ひどすぎる)
- 23章 尾羽のおはなし
- 第七部 本来の自然な価値
- 24章 在来植物という概念についての進化論的な視点
- 25章 思考と臭気に関する旧来の誤り
- 26章 人種の幾何学者
- 27章 ハイデルベルクの大生理学者
- 第八部 「ぼくは上陸している」からちょうど一〇〇年の二〇〇一年九月一一日の勝利と悲劇
- はじめの断り
- 28章 ハリファックスの善き人々
- 29章 アップル・ブラウン・ベティ
- 30章 ウールワースビルディング
- 31章 二〇〇一年九月一一日
- 訳者あとがき
「20章 サン・マルコ大聖堂の拝廊とパンジーン説のパラダイム」は、旧約聖書の天地創造の物語を題材にサン・マルコ大聖堂拝廊に描かれたモザイク画を題材に、著者の唱える断続平衡説という見方が、進化を説明するにあたっていかに妥当なものであるかを擁護しています。
きっかけは旧約聖書創世記第1章において一日目に光を創造し、三日目に大地と水、そして植物まで創造したにも関わらず、二日目にはわずかに水を区分けしただけなのはその前後に比べてあまりにも小さなエピソードではないかという著者の疑問です。その疑問が、サン・マルコ大聖堂拝廊に描かれたモザイク画をみて氷解したという話になっています。
サン・マルコ大聖堂拝廊に描かれた天地創造の物語は、あらゆる可能性を秘めた未文化のカオス状態から始まっている。一枚目は、ハト(神の聖霊の象徴)が均質ではあるが混乱した波の上を飛んでいる。そこから分化が始まる。一日目は垂直の面が暗闇と明かりを分けている。二日目は水平面(波の上を転がるボーリングの玉)が、川と雨を分けている。三日目は陸地の水平と垂直の縞が、主題は追加ではなく分化であることを強調している。神が天空の下の地上を陸地と海という二大要素に分化しているのだ。
(本書下巻p.132)
つまり天地創造は、創造という言葉から直接感じ取られる「追加」の物語ではなく、混沌から次々と分化させることで創造していったという、より古いギリシャ語聖書にみられる物語であるという解釈です。
ところが、創世神話を連続的に前進する物語―たとえ好ましくないとしても、たいがいの民族集団で間違いなく一般的なテーマ(人間の好みと自然の見かけ双方を含む何がしかの入り組んだ理由による)―として紡ぐ場合、文化には基本的にに種類の選択肢しか無い。その様な連続的先進の物語は、「連続的な追加」(最初にこれを造り、次はそれに最もよいこれを付け足して、といった調子)か「改良を伴う分化」(最初に未発達の可能性を秘めた偶発的な産物を含む大量のスープから始まり、しだいに凝結が生じ、分化を繰り返しながら凝結が進む、といった調子)のいずれかだったりする。それ以外のパターンもあるかもしれないが、創世神話は間違いなくこの二つの根本的な物語を含みうる(たいていはそうなっている)。しかし、追加と分化は、連続的前進というテーマのもとで構築された創世神話を象徴する精神活動の一番の領域が何かを教えている。
(本書下巻pp.136-137)
断続平衡説は種の分化という考え方が基本にありますから、分化という考え方の方がより自然であるということを、聖書の創世神話を題材にして主張しているわけです。ただ、このようなエッセイを書いたからといって、著者は創造説を支持しているわけではないですけどね。でも、誤解する人がいても仕方ないとはおもいますが。米国の進化論を巡る論争状況では日和見論的に見えてしまっても仕方ないのかもしれません。ユーモアを解する心の余裕を失っている人多そうですから。
私は、ドーキンスとグールド、そしてそれぞれの支持者の間で繰り広げられた連続か断続かという論争は不毛だと考えています。遺伝子を中心に見れば連続に見えますし、表現を中心に見れば断続に見えるでしょう。犬種によってあれほど大きな見かけ上の違いがありながら、同じ種であるというように、遺伝子型の僅かな違いは発生過程において大きな変化を表現しますから。
「5章 『アンデスの山奥』での芸術と科学の出会い」で、著者は人文主義者が自然に抱いていた調和とか美意識を、ダーウィンの進化論が打ち壊してしまったことに対して次のように述べています。
ダーウィンは、そうした冷たい哲学を持ち前の豪胆さでしっかりと受け止めた。自然の成り立ちに希望とか倫理を読み取ることはできないし、そうすべきでもないと論じている。人間の立場からの美的真理とか倫理的真理という概念は、人間の言葉で組み立てられるべきものであって、自然の中に「見つける」べきものではないのだ。それらに対する答えは自分たちのために構築し、自然に対しては、別の種類の疑問に答えてくれるパートナーとして接するべきなのだ。人生の意味に対する答えを自然からもらおうなどと思ってはいけない。問うべきは、宇宙はどのような構造なのかといった疑問である。自然に対してそれ自身の領域の独立性―人間の都合にとらわれない答え―を認めるならば、慎ましやかでのびのびとした自然の素晴らしい美しさを認識できるだろう。そうなれば、自分たちの願望や恐怖を和らげるための倫理的なメッセージを自然に求めるという不適切で不可能な探求から解放されて、自然に接することができるようになる。自然の独立性に正当な敬意を払い、自然のあり方を人間の都合とは異なる美や霊感のあり方として読み取ることが出来るようになる。
(本書上巻pp.192-193)
この文章だけを読むと単純な自然賛美を諌めただけのように見えます。でもこの記述に至る流れを見ると、実際には創造論者の主張に対して暗に諌めたものと読み取れます。この章のタイトルは、風景画家フレデリック・エドウィン・チャーチの代表作『アンデスの山奥』にちなんで付けられたものですが、チャーチが抱いていた信念について次のように述べています。
なぜならチャーチは、フンボルトとは違い、創作と心の平安の源としてキリスト教信仰を最重要視しており、自然は本質的に全体として調和しているという考え方も信仰に負う部分が多かったからである。
(本書上巻p.185)
ここでの「調和」とは、キリスト教信仰から見てあるべき調和であり、信仰を源泉とする価値観を自然に投影したものです。この主張の根拠は、チャーチの蔵書リスから見て取れると著者は指摘してます。
チャーチの蔵書リストで重要なのは、所有していなかった本なのである。チャーチは、フンボルトの著作の素晴らしいコレクションを所有していた。動物の地理的分布と熱帯生物学に関するウォレスの著書も購入していたし、ダーウィンの『ビーグル号航海記』と『人間と動物の感情表現』(1872)も購入していた。進化は生命物質がもたらす内的な力によって否応なく前進的に進むという考えを支持したクリスチャン進化論者たちの主要な著作も所有していた。例えばH・F・オズボーン、N・S・シェイラーといった人たちである。ところが、ダーウィン進化論の中枢をなす『種の起源』(1859)と『人間の由来』(1871)は所有していなかった。更に重要なのは、機械論あるいは唯物論的な著作は一冊たりとも集めていなかったらしいことである。E・H・ヘッケルの文字は一つもないし、T・H・ハクスリーの著書は宗教に関する者一冊のみである。この両人の著作は、十九世紀後半における進化論の一般向け著作としては売れ行きにおいて群を抜いていたにもかかわらずである。
(本書上巻pp.189)
進化論者でもリチャード・ドーキンスは過激な論調で創造論者を攻撃していますが、本書の場合はやんわり諫めるような形で表現されていて、両者の違いがなかなか面白く感じます。私としては、芸術や宗教において自らの価値観で自然を賛美することはいっこうに構いません。しかしながら科学においては、人がこうあって欲しいという願望に基づいた姿を、自然に対して押し付けるのは控えるべきでしょうね。確かに人間の美的感覚には必ずしも一致するとは限りませんが、それでも驚きと共にその美しさは十分感じ取ることは出来ますから。