2011/10/28

野矢茂樹 『語りえぬものを語る』

自明であることは普段明示的に意識されることはありません。不毛な論争の原因の一つは、自明な前提のすべてを必ずしも共有していないことがあります。哲学は、自らが自明と考えることを敢えて意識することで、自らの考えの前提を再考するのには役に立ちます。その様な意味で、野矢茂樹(著)『語りえぬものを語る』は、いろいろ考えさせられる謎を提供してもらいました。最近科学技術論で悩ましい議論が続いているので、科学哲学関連の所が特に興味を惹かれました。
本書の中で自由意志論に関連して、決定論を批判しているのですが、そこで科学に関して興味深い批判がなされています。
決定論であれ、非決定論であれ、もし自然科学によって人間の行動のすべてが語られうるならば、そこに自由の居場所はない。私が見据えているゴール、それはむしろこう述べることができるだろう。――自然科学は、世界を語り尽くすことはできない。
(本書p.450)
科学哲学的に反実在論の立場から見てもこの主張には同意します。だから科学の目的は真理の探求ではなく現象の妥当な説明であるのですが。何を持って真理であるといえるのか、それが不明である以上、語り尽くすことはできないのは当然です。でも、だからこそ科学には終焉はなく、大変喜ばしいことであると考えているのです。残念ながら真理に到達し得ないことはむしろ喜ばしいことだと考える変わり者はあまりいなさそうですが。
古典論理に基づいて議論をすすめと、正誤が不明な前提が存在すると、その議論は常に正しいと主張することができて、その「正しい」という主張自体が無意味です。そして、世界について語る場合、その前提をすべて明示的に示すことは現実には出来ません。私が反実在論を支持しているのはそれ故です。一見妥当に思える前提条件を置けば、どのような仮説も「正しい」と主張することができますから。信念の問題を古典論理で扱うのはちょっと厳しいのではないでしょうか。
結局のところ、科学において重要なのは「正しいか否か」ではなく、なぜ「妥当な説明である」と主張して良いのか、その基準こそが問題です。そこに科学哲学の役割があります。それ故、疑似科学問題においても、その正誤を議論することは不毛です。単に正しいと主張するならば、実際のところ何も言っていません。
では哲学はどうなのかというと、やはり終焉は訪れそうにないのですが。それはそれで喜ばしいことであると思うのですが、そう受け取る方はあまり多くないでしょうね。本書を読んでいても、真理に対するこだわりはなみなみならぬものを感じますから。