2011/02/28

偶然の力は有益、でも「取扱注意」

偶然をうまく利用することが出来れば、完全な規則を作り上げようとするよりも有効的なことがあります。社会調査でも、抽出調査はうまくランダムに標本抽出することができれば、調査の効率性や結果の有益さで全数調査に勝ります。また、モンテカルロ法とか、乱択アルゴリズムとか、うまく偶然を利用する技術も徐々に一般的に用いられるようになってきます。でも、偶然を利用するのは、意外と難しいんだよなというのが、「理不尽にやると上手くいく - レジデント初期研修用資料」を読んだあとの感想です。

インターネットインフラの信頼性が高いこと、エンジニアの人たちが、一生懸命にやり過ぎてしまったことが、お手つき即死のネット文化を生み出したのだと思う。

理不尽にやると上手くいく - レジデント初期研修用資料

偶然を取り入れるというのは良い考えだと思います。現実には、人間が事態を予期できる能力には限りが有ります。「例外のない規則はない」と言われているように、完全な規則など現実には機能しえません。そして、例外を納得させるのに、偶然が神意、天命と結び付けられて使われてきた歴史もあります。

そしてインターネットインフラは、その誕生当初からあくまで「best effort」で、偶然をうまく利用してきました。今も変わっていません。不具合あるかもしれないけど、それは利用者の方でカバーしてくれという世界です。そして、偶然とか失敗を積極的に認めることで、効率性を追求しています。どっちかというと、そのようないい加減さを叩かれることのほうが多いです。その辺りの事情については専門家である、あきみち氏が分かりやすく解説てくれています。

もしインターネットが完全に見えるのであれば、意識できないくらい「近代化」の規範が身についているからではではないかと思われます。技術だけではなくて、政治、社会全般に渡り、偶然を排除して理性で制御しようという傾向性に満ちています。その傾向の行き過ぎによりしばしば反発する動きも発生しますが、全体的な傾向には変化なしです。そのことは、上記の引用に続く部分から、図らずしも明らかです。

インターネットは無限に公平で、政府だとか、特定の誰かをネットで叩くときには、誰もがたぶん、どこかで「叩き返すのならば全ての書き込みに対して公平に」という建前を信じている。叩かれる側が個人であって、叩く側が「公平な無数」であれば、力量の差は圧倒的だから、リスクは事実上無視できる。今はたしかに、弁護士や警察の助けを借りれば、叩いた誰かを追跡することは不可能ではないけれど、「全員が公平に追跡可能である」ことは、むしろ抑止の効果を削いでいる。

インターネットのインフラは、公平で理性的に過ぎて、理不尽が介入する余地がない。ネットにつながった誰もが、ルールを信頼しているから、ルールの際、常識から見てやりすぎだけれどルール違反ではない、ぎりぎりの場所に、莫大な人数が殺到してしまう。

掲示板の書き込みルールを、たとえば「100人に1人が無条件にID開示を受ける。叩きに対する全責任はその1人が負うことになる」というルールを導入すると、その理不尽さが、たぶん「全てのIDは追跡可能です」という看板よりも、叩きをためらわせる。

完全匿名も、完全公開も、ルールというものは、完全を目指した時点で落としどころを失ってしまう。原則匿名、その代わり、管理者やプロバイダーが、「ついうっかりと」書いた人の実名を掲示板で全世界公開、なんてイベントが年に1回でもあるならば、その場所の空気は、実世界のそれに近くなっていく。

理不尽にやると上手くいく - レジデント初期研修用資料

なぜ近代は偶然を排除しようとしたかというと、それは超越者、絶対者の権威とその代理人の権力、そしてそれへの信頼がなければ機能しないからで。まさに近代が排除しようとしたものとペアになるものである、少なくともそのように考えられているからです。薬物乱用、賭博、交通違反で検挙されるのは全体のごく一部で、いわばたまたま警察の目が止まった事案だけです。そして事件が報道されたとしても、事件は後を立ちません。もし信頼がなければ、偶然の存在は逆に規範意識を弱め、規制当局への不信の増大へと向かうこともあります。

偶然を用いることは限られた認知能力しか無い人間が利用出来る有益な手段ではあります。ただ、偶然は一般に意識されているより「劇薬」ですので。取り扱う際にはご注意を。

2011/02/25

災害発生時に情報技術が出来ること

今回のニュージーランドのクライストチャーチにおける震災は、同じ地震国に住むものとしては他人事ではありません。震災によって亡くなられた方には心からおくやみを申し上げると共に、現在懸命に続けられている救援活動によって一人でも多くの人命が助けられることを願っています。

そして、平常時と非常時の行動の切り替えがあまり得意とはいえない我が国政府に対して、どうしても不安を抱いてしまいます。最近の緊急時の対応を見ても、刻々と変化する状況に適切さと柔軟さをもって即決していくことが出来るとは残念ながら思えません。となると、政府の活動以外で何が出来るかを考えざるをえないわけで。もちろん、本格的な救援活動は高いスキルを日頃の訓練で維持することが求められますから、そこはどうしても政府に期待したいところ。ライフラインに重大な損害が出ている状況では、完全に自立した活動に慣れていないボランティアは、逆に足手まといになる恐れもあります。災害初期だと衣食住自前で面倒見れないといけないですから。災害救援で軍隊が出動するのは、社会インフラに依存しないで活動する訓練を受けているということが一番大きいです。警察にしろ消防にしろ、基本的には受け入れ先の社会インフラが機能していることが前提です。日本の政治家の発言を聞いていると、そのこと理解されていない方もいるようですが。

問題は、小回りのきかないところをどう補うかでしょうね。そこで今回のニュージーランドの震災に対して、どのような活動がおかなわれているのか、その一例について少し調べてみました。

Googleのフィランソロピー活動部門であるGoogle.orgには、情報技術により災害救援活動を行うGoogle Crisis Responseという部門が有ります。この活動は、プロジェクトの活動目的を見るとハリケーン・カトリーナがきっかけになって始まったとのこと。今回のニュージーランドのクライストチャーチにおける震災に対しても、専用のページが早速立ち上げられています。

このページでは、主な救援組織への連絡先、Google App Engineで作られた安否確認サービス、Google Mapsで地震関連の地理情報、関連するTwitterフィード、投稿されたYouTube動画など、クライストチャーチ地震に関する情報が集約されています。

この中で注目したいのが、「Trade Me」というニュージーランドの個人売買仲介サイトが、救援物資とかボランティアの仲介サービスを無償提供していることです。

災害時の救援物資とかボランティアに関しては、どうしても被災者のニーズに必ずしもマッチしないという問題の発生が指摘されています。このサイトでは、「Need help?」といカテゴリで被災者が助けてほしいことを、「Want to help?」というカテゴリで救援で提供できるものを登録できます。そして、それを見て必要とされる援助を提供したり、提供して良いというものを受け取ったりすることで、アンマッチを解消することができます。マスメディアでも、このようなアンマッチが報道されるのは、問題が深刻化してからになってしまうので、このような仲介サービスは救援活動の円滑化には有益です。

ただ、このようなネットにもインフラが機能していないと活用できません。これからだと、復旧するまでは「Wi-Fi Direct」などの技術を使って、モバイル機器のP2Pネットワークインフラで凌ぐことになるのかな。以下の記事を見てそう思いました。

現在進行中の中東危機でも、政府がインターネット自体をシャットダウンしたことに対して、現在のWi-Fi技術でP2Pネットワークを構築して対抗する運動も報道されていますし。あと、アフリカとか基地局が網羅的に設置できないところでは、実際にP2Pで通信されているという話も聞いたような。

どっちにしろ、現在発生が予想されている、東海、中南海、南海地震クラスの震災が発生すると、少なくとも3日間は外部からの救援はあまり期待できないとは言われています。予め考えておけば、いざという時の被害を極言することができるでしょう。

2011/02/19

スティーヴン・ホーキング、レナード・ムロディナウ『ホーキング、宇宙と人間を語る』

日本にいると、一部関心を持っている人以外は、進化論と創造論の対立の構図が、今も米国の教育の場を中心に続いていることを知らないかと思います。進化論を教えてはいけないという法律はさすがになくなりましたが、聖書の創造論に科学的な装いを凝らしたインテリジェント・デザイン論を学校教育の場で教えることを定めた法律を立法化する動きは現在も続いています。この進化論と創造論の論争に一石を投じたのが、スティーヴン・ホーキング、レナード・ムロディナウ(著)『ホーキング、宇宙と人間を語る(原題:The Grand Design)』です。

本書の主著者と言えるスティーヴン・ホーキングは、筋萎縮性側索硬化症でからだの自由がきかない中で、極めて優れた理論物理学者として広く尊敬を集めています。そして、この新著の中で神の存在を否定したとして、著書の中でもその点に注目を集める結果となってしまいました。その論議の的が何かというのは次の記事に要約されています。

In his 1988 book, A Brief History of Time, Hawking had seemed to accept the role of God in the creation of the universe. But in the new text, co-written with American physicist Leonard Mlodinow, he said new theories showed a creator is "not necessary".

Stephen Hawking says universe not created by God | Science | The Guardian

「第2章 自然法則はいかに創られたか?―法則の決まり」において、創造主としての神の存在は必然ではないという考えに至ったのは、自然の法則とは何かという次の3つの疑問を突き詰めていった結果であることが述べらています。

  1. 法則の起源はなにか?
  2. その法則に例外(奇跡)は存在するのか?
  3. 可能な法則は1組だけしか存在しないのか?

(本書 p.42)

まず第1番目の問題です。

神は旧約聖書の神であるといった特徴を付け加えない限り、最初の疑問に関する答えとして神を用いることは、単に1つの謎を別の謎に置き換えているに過ぎません。したがって、もし最初の疑問に対する答えとして神を含めてしまうのであれば、真の問題は法則に奇跡や例外はあるのか、という2つ目の疑問に帰着します。

(本書 p.42)

そして、2番目の疑問に対しては、ナポレオンから神の存在について尋ねられたとき、「陛下、私はそのような仮説を必要としたことはありません」と答えたと言われるラプラスと立場を踏襲しています。

科学的な決定論を最初に明確に仮定したのはラプラスである、と一般に考えられています。それは、ある時刻の宇宙の状態を与えれば、法則の完全な組が未来と過去の両方を完全に決定するというものです。ラプラスが定式化した科学的決定論は、先の2つ目の疑問に対する現代の科学者の答えと言えるでしょう。実際、これはすべての現代科学の基礎であり、この本の中で終始重要なことです。超自然的な存在が干渉しないとするときにだけ成り立つような法則は自然法則とは言えません。

(本書 p.44)

この神に関する問題の影に隠れた感じですが、科学的決定論に関しては、自由意志論や量子論の解釈問題という別な論点もあります。その論点については、3番目の疑問に対して有効理論という考え方につながってきます。

基礎となる物理法則を用いて人間の行動を予言するのはあまり実践的ではないので、私たちはいわゆる有効理論を用います。物理学において有効理論とは、基礎的過程を詳細にすべてを記述することなく、特定の観測される現象をモデル化するために用いられる枠組みです。たとえば私たちは、人間の体内にあるあらゆる原子と、地球上のあらゆる原子の重力相互作用を支配する方程式を厳密に解くことはできません。しかし実際上はどんな目的であっても、人間と地球の間の重力は、その人の全質量といったほんの数個の要素から導き出せます。同様に、複雑な原子や分子のふるまいを支配している方程式を解くことは私たちにはできませんが、個々の相互作用の詳細を記述することなく、原子や分子が化学反応の際にどうふるまうかをうまく説明してくれる化学という有効理論を私たちは発展させてきました。

(本書 p.48-49)

有効理論が有効理論と言われるのは、観測の限界に応じていわば便宜的に作られた法則であるからです。そしてこのことは、観測の限界を打破する努力を続けていけば、いつの日にかある現象を説明する唯一の理論(=真理)になりうるのかという問題へと向かいます。まさに著者は次のように述べています。

ほとんどの科学者は、それは観測者とは独立して存在する外界を数学的に記述することである、と言うことでしょう。しかし、身の回りを観察して概念を形作る手法について考えているうちに、私たちは以下の疑問にぶつかります。「客観的な真理が存在すると信じる根拠はほんとうにあるのだろうか」

(本書 p.51)

上記のような考察を経て、「第3章 実在とはなにか?―モデル依存実在論」において、ホーキングは「モデル依存実在論」という科学哲学の学説を打ち出しています。その内容は科学哲学で言うところの科学的実在論と反実在論の境界領域にあるといえるものです。

モデル依存実在論は、実在論者と反実在論者の間のこういった議論や論争のすべてを回避します。モデル依存実在論の下では、あるモデルが本当かどうかは重要ではありません。そのモデルが観測結果をよく説明するかどうかが重要なのです。先の金魚と私たちの視点の例のように、観測結果をうまく説明できる2つのモデルがあったとしたら、片方のモデルがもう片方のモデルより本当だとは言えないのです。状況に応じて、便利な方のモデルを使えばいいわけです。たとえば、もし金魚鉢の中にいるのであれば、金魚の視点が便利でしょう。しかし、金魚鉢の外にいるのであれば、金魚鉢の中からの視点で遠くの銀河の出来事を記述するのは非常に難しいでしょう。その金魚鉢は地球の好転や時点と共に動いてしまうでしょうから。

科学の世界において、私たちはモデルを作ります。しかし、私たちは日常生活においても同様にモデルを作っています。モデル依存実在論は、科学的なモデルだけでなく、日常の世界を解釈し理解するために、意識的にあるいは無意識的に作られるモデルに対しても適用することが出来るのです。私たちの知覚の世界から観測者―つまり、私たち―を取り除くことはできません。この知覚の世界というのは、私たちの感覚が働くことによって創られるもののことで、それによって私たちは考えたり判断したりします。私たちの知覚、すなわち理論の基礎となる観測は直接的なものではなく、脳が出来事を解釈する仕組みのような、ある種のレンズによって形作られています。

(本書 p.65)

この考え方、ハッキングが唱えた介入実在論(entity realism)と、ファン・フラーセンが唱えた構成的経験主義(constructive empiricism)とのさらに間のような考え方です。介入実在論とは次のような考え方です。

ハッキングは、これまでの科学哲学が、理論ばかりを偏重し、実験の役割を軽視してきたと批判している。むしろ、理論って、成熟した科学の最終産物だというのね。つまり最後にまとめられるもの。でも、科学の日常的な営みは、実はそうした教科書的な理論とはあまり関係がない。むしろ大多数の科学者にとって大事なのは実験で成果が上げられるかどうかでしょ。つまり、自分が探求している自然という「外にある」対象を実験的に操作する試みで成功を収めることが、とりあえずの目的であるってわけ。

(戸田山和久『科学哲学の冒険』 p.207)

そして、構成的経験主義とは次のような考え方です。

ファン・フラーセンは、世界のじかに観察できない部分について主張が当たっているかどうかは、科学の目的に照らすとどっちでもいいんだ、と考える。なぜなら、科学の目的は、世界の見えないところまで文字通り真な話をすることではないからだ。

(中略)

ファン・フラーセンの考える科学の目的は、「経験的に十全な(empirically adequate)」理論を作ることなんだよね。で、「理論が経験的に十全である」っていうのはどういうことかと言うとね、その理論から導くことが出来る、観察可能な領域についての主張がすべて正しいってこと。

(戸田山和久『科学哲学の冒険』 p.156)

介入実在論と構成的経験主義までくると、私のような科学哲学の素人には、その違いがよく分からなくなってきます。何らかの真理が存在しうるという1点を除いては、見分けがつかないのですが。

それにしても理論物理学者で科学的実在論の立場を取らない人は珍しいです。「訳者あとがき」でも分かるように、大方の理論物理学者は科学的実在論の立場を取っているようですから。

私は個人的には「モデル依存実在論」は正しいと考えているが、複数の理論や真理があってそれでよいなどと言い過ぎると、科学の進歩を妨げる恐れがあるのではないかとも考えてしまう。超ひも理論は難解な数学に基づいた理論であり、容易ではないことは承知しているが、M理論はこのセットで完全なものかもしれないと強調するのは、さらに理論的探求を通じてより深い理論、真理に至る努力を怠ることにつながりかねないのではないかと思う。

(本書 p.262)

上記の訳者の考え方に、科学的実在論が端的に現れています。それに対して、ある理論が真理であると知る手段はなく、真理の存在を仮定するのは危険でもあると考えるのが反実在論です。なぜ危険かというと、統計検定における偽陽性(第一種過誤)の問題などによって現象から法則が見出されてしまうと、今度は認知心理学の確証バイアスの問題によって見出された法則が真であることを確証する証拠ばかりを集めてしまい、真理に至る努力がかえって誤謬から抜け出す妨げになる恐れがあるからです。科学史を読むとそのようなことはよく起きていることが分かります。

統計的検定の過誤の話を持ち出しましたが、第1種過誤の危険性を重視するのが反実在論、第2種過誤の危険性を重視するのが科学的実在論と言う感じでしょうか。この2つの過誤の間にはトレードオフの関係があります。観測の限界によって、どちらの過誤を犯す恐れが高いと考えるかで、科学的実在論と反実在論を選びとればいいのではないでしょうか。

「第6章 この宇宙はどのように選ばれたのか?―相対論と量子論の描く宇宙像」の次の記述を読む限り、著者は基本的には「介入実在論」とほぼ同じ立場かとは思えます。

私たちは、科学の目的や何をもって物理理論を正しいと見なせるかという私たちの概念そのものを変えなければならないような、科学史の1つの転換点にいるように思われます。見かけ上の自然法則の基本定数やその形さえも、論理や物理的原理によって要請されるものではないことが明らかになっています。パラメータはたくさんの値から自由に選ぶことができ、法則は矛盾のない数学理論を導くならばどんな形でもとることができ、実際にそれらは異なる宇宙において異なる値、異なる形をとるのです。このことは、私たち人間の特殊な存在でありたいという希望に叶うものではないかもしれませんが、まさにそれこそが自然の姿であるように思われるのです。

(本書 p.233)

このような考え方に至ったのは、「第5章 万物の理論はあるのか?―無数の宇宙を予言するM理論」で説明されているM理論が、万物の理論であろうとしていることと関連性があります。M理論では、異なる見かけの法則を持った「異なる宇宙」が10500も存在する可能性が示唆されています。このことは「客観的な真理が存在すると信じる根拠はほんとうにあるのだろうか」という問に対して、いわば「真理は多数存在しうる」という回答となります。結局のところ、われわれの存在する宇宙が、そのような多数の宇宙の中の一つであるに過ぎないとすれば、唯一の真理というものを追求することにどんな意味があるのかということです。そして、法則は決定論か確率論かという問題に対しては、観測上の制約から、有効理論として確率論を用いているに過ぎないという考え方なのでしょうか。

そのような理解のもとで、「第7章 私たちは選ばれた存在なのか?―見かけ上の奇跡」では、創造主の問題について考察しています。物理法則や物理定数がなぜ現在観測されるようなものであるかについて、人間原理と呼ばれる議論があります。ようするに、少しでも物理法則や物理定数がことなっていれば、宇宙を観測できる我々人間という知的生命体が存在し得ない、という点に物理法則や物理定数の根拠を求める考え方です。私には自己言及的な議論に思えて、そこから何が有意義な議論が引き出せるのか今ひとつぴんと来ませんが。この人間原理という考え方は、人間が存在できるように法則や定数を定めたのだという、創造主の存在理由に転化することで、色々論議を巻き起こしています。この人間原理に対しては、異なる法則に支配される宇宙が、10500という非常に多数存在しうるのであれば、創造主の存在が無くても説明できるというのが著者の考えです。

私たちの太陽系で起こった数々の偶然が、何十億もの同様な系の存在によって平凡なものに成り下がったのと同じように、自然法則の微調整は宇宙がたくさんあることで説明することが出来ます。太古の昔から多くの人々は、当時、科学的な説明ができないように思えた自然の美と複雑さを神のおかげと思ってきました。しかし、一見すると奇跡的に見える生物のデザインが、崇高なる存在の介入なしにどのようにして可能になるのかをダーウィンやウォレスが説明したのと同じように、マルチバースの概念は、私たちのために宇宙を生み出した善意ある創造主の存在を必要とせずに、物理法則に微調整があることを説明できるのです。

(本書 p.233)

要するに膨大な可能性があれば、たまたま知的生命体が存在る宇宙もありうるということです。確かにクラスで誕生日が同じ日の同級生が存在しうる確率の問題のように、人間は偶然の一致というものを過小評価する傾向があるようですから。

そしてこの主張が神の存在を否定するものであるとして、先の記事のような物議を醸したのです。これがドーキンスのようなガチガチの無神論者の主張なら、このような記事になるほど注目を集めなかったのでしょうが、ホーキングは科学と宗教、神の存在に関しては融和論者と見られていたので、この記述はかえって注目をあつめることになってしまいました。

著者は本書の最終章、「第8章 グランドデザイン―宇宙の偉大な設計図」次のように締めています。

M理論はアインシュタインが夢見ていた統一理論です。単なる素粒子の集まりである私たち人間が、私たちと宇宙を支配する法則の理解にここまで近づいていることは偉大なる勝利です。しかし本当に奇跡的なことは、論理の抽象的思考が驚くほどの多様性に満ちた宇宙を記述し、予言するただ1つの理論に到達したことです。もしこの理論が観測により検証されれば、3000年以上にも及ぶ探求の成功という結末と言えるでしょう。私たちはグランドデザイン―宇宙の偉大な設計図―を手に入れたことになるのです。

(本書 p.253)

この記述を見て、モデル依存実在論の主張はほどんど反実在論に見えても、やはりホーキングは実在論者なんだなと思った次第です。そして、「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインと同じ宇宙観の持ち主であることも。

2011/02/18

新井 紀子『コンピュータが仕事を奪う』

人工的に知的存在を創り上げるというアイディアは古くからありましたが、現在において人工知能と呼ばれている研究は、プログラミング可能なコンピュータが開発された1950年代前後に始まったと考えていいでしょう。その後の歴史は、人間の知的作業を置き換えようとする努力と、容易には置き換えられないことがあることが分かって、人間の知的作業を支援する方向へと技術開発の流れが切り替わる、その繰り返しです。そのへんの歴史は「Timeline of artificial intelligence」とか、「History of artificial intelligence」とか見ると面白いです。ところどころ人工知能分野の冬の時代の記述がありますから。

ちょっと80年代以降の流れを私なりに挙げてみると次のような感じです。

  1. 置換:Knowledge engineering (Expert System)
  2. 支援:Computer Supported Cooperative Work (Groupware)
  3. http://www.blogger.com/img/blank.gif
  4. 置換:Machine learning (Information Retrieval)
  5. 支援:Social Web (Social network service)

では現在はどのフェースにあると見るべきなのでしょうか。人間の知的作業をコンピュータで置き換えようとしたGoogleに対してやや頭打ち感が見られます。

このように、人間の知的活動を置き換える動きにやや行き詰まり感があるのに対して、ソーシャルウェブのような人間の知的活動を支えるサービスへと流れが変わりつつあるのが現状です。技術者がどんどんFacebookに代表されるソーシャルな世界に流れているのが、そのような変化を強調しています。そして、また新たなブレークスルーの種が芽生えて、それが現実に有用なものにすることに成功する人が現れれば、また置き換える方向での革新が始まるでしょう。そしてそのようなブレークスルーの芽は、問題に突き当たった時点での専門分野の研究をさらに推し進めることよりも、実現可能性とか様々な理由で注意を払わなかったところからやって来ます。

新井紀子(著)『コンピュータが仕事を奪う』を読んだ時、まず脳裏をよぎったのは冒頭で述べた知的活動を置き換えようとする研究の歴史です。

著者は、現時点ではコンピュータに置き換えられない仕事がまだ多いことは認めています。ただ、ソーシャルウェブの普及や、情報技術に進展により低価格化したクラウドソーシングによって、人間の知的活動の記録はどんどん蓄積しています。その結果次のようなことが起きると予測しています。

これらの仕事は未来永劫人間世界にアウトソースされるとは限りません。なぜなら、こうして作られた訓練集合を学習することによって、機械が同等の能力を得たなら、もうその作業を人間に頼む必要はなくなるからです。

(本書 p.112)

コンピュータは記憶力に優れているので、人間が行った知的活動を記録した膨大なデータから知識を抽出することで、知的活動はコンピュータに置き換えられるだろうということです。これに関して、私の考えは逆です。学習において膨大なデータを有益なものにするのは容易ではなく、場合によっては学習を阻害することもあります。私は学習というものを、

  1. まず、知覚されたデータがあって、
  2. そのデータから有効な情報を選び出し、
  3. その情報を抽象化して知識とし、
  4. さらに不確実性や矛盾のある中で決定できる知恵とする

という階梯で捉えています。この階梯を進む過程で重要な能力は「注意」です。ここで言う注意とは、叱られたという意味での注意ではなくて、心理学とか神経科学で使われる意味の「注意(attention)」です。で、人工知能研究における最も大きなな難問の一つが注意です。

注意とは何かというと、考えうる選択肢の中から選び出すことです。逆に言えば、重要ではない膨大な選択肢を捨て去ることです。で、どこに注意を払えばよいかということは状況に依存します。状況に応じて柔軟に注意を移さなければいけません。これがうまくいかない障害が、注意欠陥多動性障害(ADSD)です。実際に機械学習でモデルを構築することに携わってみると、コンピュータは、どこに「注意」を向けたら良いのかを学習するのは苦手であるということを痛感します。確かに、どこに注意を向けたら良いのか決め、そのための良質なデータを与えてやれば、たしかに人間には立ち打ち出来ないこともあります。でも、統計で2個の母集団のデータを混ぜると逆に有意なことが言えなくなることがあるように、適切なモデルと質量揃ったデータがなければ、しょぜんは「Garbage In, Garbage Out」です。もちろん、著者はそのようなことは十分承知しており、日本語の構文解析や、画像認識の例を取り上げて、困難さについても説明していますが、現在進行中の技術革新によってどこまで人間の知的活動を置き換えられるかという点については、著者の考えは私にはやや過大評価に思えます。多分、状況に合わせた注意の移動を学習させるにはまだ先が長そうです。

その上で、コンピュータが仕事を奪うかというと、一旦蓄えた情報や知識の切り売りしていく形態の仕事は奪われるでしょうね。個人的には、情報技術の発達と国際化で多数の知識労働者が参入している影響で、「情報そのもの」や「知識そのもの」のほとんどは価値が暴落したと捉えています。なので、知識労働者に関して言えば、技能、知識を身につけて、それで一生食べ抵抗とするなら、やめておけと言いたいです。著者も、その極端な例として、Amazon Mechanical Turkを取り上げて次のように主張しています。

つまり、「多くの人間が担える仕事」の賃金は、そのレベルまで下がりうることを意味します。クラウドソーシングが「小遣い稼ぎ」にとどまる間は、それでも構わないかもしれません。しかし、これが労働市場の一角を占めるようになれば、比較的賃金の高い日本人に深刻な影響を及ぼすことになるでしょう。なにしろ、こうした労働の単価は、理論上は世界の最低賃金まで下がっていくはずですから。

(本書 p.121)

基本的にはこの主張に同意します。ただ、目標を達成するためには何をすればよいか決める人、または矛盾した目標の中で何を目指すかを決める人の需要はさらに増大するでしょう。知識を価値のあるものにする能力は、不完全な情報、不確実な状況下における意思決定の連続ですから"art"の領域です。この仕事をコンピュータが奪う目処はまだ立っていません。もちろん、情報技術を用いた巧みな心理操作によって、事実上選好が決められているような「ユートピア」なら、コンピュータがそのような仕事も奪ってしまうでしょうが。

またソーシャルウェブにしろ、クラウドソーシングにしろ、コンピュータの下働きをしているというよりは、最近シャーキーが唱えているような、個々人のCognitive Surplusを提供し合う場を共有していて、その場を維持する仕掛けをコンピュータが実現していると見たほうがよいのではないでしょうか。まあ、コンピュータに使われていることから目を逸らすための「合目的化」であるといわれればそうかも知れませんか。

著者は、「第3章 数学が文明を築いた」、「第4章 数学で読み解く未来」、「第5章 私たちは何を学ぶべきか」で、コンピュータと差別化するためには論理的思考法を身につけることが必要で、数学はその有力な武器になると述べています。この論理的思考法ということを、抽象化・一般化と仮説演繹法・アブダクションと捉えれば概ね同意です。話が噛み合わないのは往々にして異なる前提で論理を展開しているからです。抽象化・一般化により論点、前提を明確にして、共通の土俵で議論をすることで、建設的な話し合いが出来ます。これには数学的な思考法がたしかに有効でしょうね。ただし、ただでさえものごとには必ず正解があるという信念が、色々頭の痛い問題を引き起こしているので、論理的思考法を身につければものごとは全て合理的に解決する、のでは無いことも同時に教える必要もありますが。答えのない問いを考える、立場を入れ替えて考える、などと併用しないと副作用が心配です。

あと、仮説演繹法を具体的な問題解決の場で用いる場合にはに落とし穴もあって、仮説を立ているときに何に注意を払って切り捨てたかという点を自覚していないと、現実の問題を解決するときに、往々にして思わぬ副作用に苦しめられることになります。専門家が想定外の結末に終わったことを責められたとき、一般の人には責任転嫁としか受け取られない言動が見受けられる場合もあります。まあ、本当に責任逃れをしている場合もあるかもしれませんが、実際あってみると案外誠実な方だったりします。なぜこうなるか推測するに、専門家として事物を捨象する訓練を受けた副作用として、一般人には当たり前のことが逆に見えなくなっている場合が多いのではないでしょうか。まさにそれを端的に表す言葉もありますが。

人間の行動は意識、無意識になされた意思決定の連続です。そして、学習においては抽象化する能力が重要であったように、意思決定では具体化する能力が重要になります。抽象化の過程が多くの事象から単純な法則を見出すことであることの裏返しとして、具体化はある条件を満たしうる多数の選択肢の中から最適であろうと思われるものを選び出す過程です。問題は、具体化の過程ですべての条件を洗い出せることも、具体的に目標値なりを定めることも、現実では出来ないということです。項目を洗い出せたとしてもジレンマとかトリレンマがある上に、抽象化の過程で瑣末なことであると切り捨てたことが、具体化する過程で重大な課題として表面化することもあるということです。だから、意思決定は"art"な訳で。このあたり、研究者と実務者とのあいだで最大のギャップが生じるところです。うまく協調している分野もあれば、いがみ合っている分野もありと。

注意を払わなくていいとみなされているものは、殆どの場合注意を払わなくてもいいことです。でも、イノベーションの種はそのような注意を払われないものの中に潜んでいます。著者は、イノベーションについて次のように述べています。

イノベーションが起こる原点となるのが、パスカルが行ったような「誰もが暗黙のうちに知っているけれどの言語化されていない何か」を言語化する作業です。

(本書 p.57)

確かに、ある意味そのとおりなんですけど、なぜ「観れども見えず」の状態のままであるかといえば、「見ないことにしたほうが効率的だった」からです。その潜在的な種を見出すには、状況の変化を察知して、注意の向け方を変えることの出来る柔軟性が要求されます。まあ、大抵の場合には無駄な努力に終わるでしょう。でも、そのような柔軟性こそが、人間にいつまでも残されるであろう知的活動でしょう。それが、著者の次の問い掛けに対する私なりの考えです。

では、いったい人間はどの能力において戦えばよいか、というと、コンピュータが苦手で、しかもその能力によって労働の価値に差異が生まれるようなタイプの能力で戦わざるを得ないのです。

(本書 p.190)

知識を獲得するということは固定観念にとらわれることと裏腹であり、注意を向けられる先が限られている以上、イノベーションには忘却が伴います。知識の獲得と忘却、そのバランスを取る能力こそが人間の学習の特徴であり、コンピュータが発達した時代で最も価値のある能力でしょう。ちょっとした違いで価値が全く変わるのが知識ですから。

このようなことをてきましたが、「そういうお前はどうなのよ」といいますと、このようなエントリーからも分かるように、「言うは易く行なうは難し」であります。まあ、なぜ出来ないか思い悩む中で考えてきたことなので、「注意を柔軟に」とかうまいはずがありません。まだまだ精進しなければと心には誓うのですが、実践は本当に難しいです…。

2011/02/09

規則と原則

日本だけではありませんが、言質をとってあとで書この言動との不一致を非難する言動は、日本に限らずどこの国でも見られる光景です。

でも、言動が首尾一貫していないと非難する人が、同時に硬直した対応を非難するというのはなんか矛盾しているように見えます。責務が重くなるにともなって、「規則」では処理しきれない事柄を「原則」に従っていわば場当たり的に処理しければいけなくなります。情報も限られますし、時間的な制限もありますから。そのような責務を負った人において、言動が一見首尾一貫して見えないこと自体はあまり問題とは思えません。むしろ状況を読んで適切な対応を取れる柔軟性があると見ることも出来きます。

問題は、場当たり的に見える決断が、原則に則ったものであることをきちんと納得出来る形で説明できるかということと、その原則が妥当であるかという点です。なにか問題があると、一律禁止とか硬直した極端な対応に流れがちなのは、「原則」に基づいた行動とはなにか、また原則に基づいた行動をとる訓練が不足しているのかな。それ故、納得出来る「原則」をうまく示すことが出来ないし、自らの行動が一見矛盾しているように見えて「原則」に則っていることを説明ができないのでしょう。また、そのような原則に基づいた行動規範にもとづく組織運営というものに人々が慣れていないので、つい揚げ足取りに走ってしまうのかもしれません。

まあ、メディアでよく見かけるのですが、言動の不一致をあげつらうだけでは、そのあげつらった人の人間としての小ささを示すだけで、あまり賢明ではないと思いますよ。

追記:

投稿してから読み返してみて、なんか自分自身もまだまだ小さいなあと思いました…。

もちろん、「原則」が納得いくものであることが前提です。あと、「原則」が本当に納得いくものであるかは、その後の言動によって判断されますので、何事でも正当化されるわけではありません。原則からの逸脱が著しいと判断されたとしても、官民どちらでも選挙等によって平和裏に交代できる制度が(一応)整えられていますので、重責につかれる方に置きましては、不安にかられることなく原則をお示し下さいませ。

2011/02/07

進化論→科学哲学→論理学、分析哲学

またまたブログ更新間隔空いてしまいました。その間の状況としましては…。

  1. 進化論の本を読んでいて、理論そのものは納得できたものの、その論理展開に引っ掛かりを覚えて全体としてはなんかうまく受け入れられない思いに駆られる。どうも、著者は科学哲学として科学的実在論の立場に立っていて、その「実在」概念に抵抗があるようだと。科学哲学についてはつまみ食いした程度だったので、もう少し深く学んでみようかと思い立つ。
  2. 科学哲学で読んだ本の中で、排中律が成り立つとした論理展開に違和感を感じる。論理学、数学の公理は恒真だけど、科学理論の前提は理論を構築するために「真であるとみなした」だけだから、その論理展開は妥当なのだろうかと疑問を抱く。でも、直観主義論理とか様相論理の基礎が弱くてどうもすっきりともやもや感を解消できない。論理学とかしっかり学び直さないと…。
  3. さらには分析哲学、さらには哲学一般についても知識的にかなり危ういし…。

ということで、納得できないと前に進めないという悪い癖が出ています…。哲学とかあまり興味を感じ無いというか、無意味な言葉の羅列にしか思えなくて、あまり深入りしなかったことが今になってひびいています。まあ、程々にしないときりがないんですけどね。