2011/03/29

北村 行孝、三島 勇『日本の原子力施設全データ』

現在まだ収束しているとは言いがたい福島第一原子力発電所の事故に関して、発表されたデータが意味するところについてよく理解できずに、不安をいだいている方も多いかと思います。そのような状況に対して、現在品切れ状態にある、北村 行孝、三島 勇 (著)『日本の原子力施設全データ』を急遽復刊することが流れてはきていたのですが、著者、及び出版社の英断によって、急遽講談社のサイトで一部、とはいっても現在進行中の事態を理解するには十分な部分が公開されました。製紙工場が被災したり、物流に問題が生じている状況下ですので、思い切って公開する決断を下したものと推察されますが、その決断には拍手を贈りたいと思います。

福島第一原発における未曾有の大事故に際し、ブルーバックス出版部(講談社)でも何かできることはないかと考え、著者の御厚意のもと『日本の原子力施設全データ』の一部をPDFファイルにて公開させていただくことにいたしました。放射性物質への不安が広まっておりますが、正しい知識を持つことが沈着な対応につながります。本書の情報が皆様の不安を取り除き、冷静な行動の一助となることを願っております。

『日本の原子力施設全データ』(北村行孝・三島勇著 講談社ブルーバックス2001年刊)一部公開のお知らせ

復刊するに当たって、著者から以下のメッセージが寄せられています。

二〇一一年三月一一日。東北地方太平洋沖を震源とする巨大地震が発生し、大きな揺れと津波が原発も襲った。東京電力福島第一原発は、建屋で水素爆発を起こすなど深刻な事態となった。情報は混乱し、理由のない不安や誤解が広まっている。この状況が少しでも改善するために、この本で記した基礎知識が役に立つことを願っている。

『日本の原子力施設全データ』

今回公開されているのは、以下の目次の内、第1章から第5章までの部分ですが、基礎知識を理解するには十分だと思います。

  • はじめに
  • 第1部 原子力発電の基礎知識
    • 第1章 原子力発電とは何か
    • 第2章 原子力発電の実際
    • 第3章 原子炉の燃料と核燃料サイクル
  • 第2部 日本の原子力施設データ
    • 商用原子力発電所
    • 原子力開発機関・大学・企業の研究炉
    • 核燃料加工・再処理施設等
  • 第3部 原子力事故と安全対策
    • 第4章 放射線と原子力安全
    • 第5章 原子力のトラブルと事故
    • 第6章 原子力の課題――安全を守るために
    • 第7章 原子力開発の将来

公開されている各章はPDFファイルにて、以下のページからダウンロード可能になっています。

2011/03/22

MathJaxでの数式表示

(4/16追記)

Stack Exchange becomes MathJax Partner | MathJax」によると、MathJaxプロジェクトはStack Exchangeの支援を受ける事になったそうです。そのような支援があってのことでしょうが、現在MathJaxはAmazon CloudFront上でサービスを提供しているとのことです(「MathJax Launches CDN Service with 1.1 Release | MathJax」)。私のような弱小サイトだと特にクラウド利用でも差し支え無いだろうと判断して、再度設定を戻します。たぶん、それほど負担にならないくらいの利用頻度ですし。

(注記)

中澤氏の日記にてMathJaxのサーバに負荷がかかりすぎて、サーバが応答しないケースがあるという指摘があり、自前のサーバで運用していない本ブログにおいては、当面MathJaxの仕様を差し控えます。

10日ほど前に触れたMathJaxだが,懸念していた通りサーバ負荷が重くなって応答しないというケースに遭遇した。たぶん世界中のサイトから数式表示の度に呼び出されたら重くなるのは当然なので,使うなら基本的には自前のサーバにインストールするか,ミラーサーバを作って負荷分散することが必要だろう。

よって、使用再開するまでは正常には表示されなくなりますのであしからず。


三中氏の日記でMathJaxが紹介されていたのを見て、早速このブログでも使えるようにテンプレートいじってみました。

MathJaxの使い方」の説明にしたがって、ヘッダ部に次の記述を追加します。

<script type="text/x-mathjax-config">
MathJax.Hub.Config({ tex2jax: { inlineMath: [['$','$'], ["\\(","\\)"]] } });
</script>
<script type="text/javascript"
src="http://cdn.mathjax.org/mathjax/latest/MathJax.js?config=TeX-AMS_HTML">
</script>
<meta http-equiv="X-UA-Compatible" CONTENT="IE=EmulateIE7" />

このブログのテンプレートだと、最後の1行は当初から記述があったので、実際に追加したのは、上6行です。IE8を無視すれば次の記述だけでも良いとのこと。

<script type="text/javascript"
src="http://cdn.mathjax.org/mathjax/latest/MathJax.js?config=TeX-AMS_HTML">
</script>

普通にLaTexで数式を記述しておくと、JavaScriptで動的にLaTexの数式を検出して、動的数式を記述した文を埋め込んでくれます。数式変換の為の特別なマークアップは不要です。

\(f(x)=\frac{1}{\sqrt{2\pi}\sigma} \exp\!\left(-\frac{(x-\mu)^2}{2\sigma^2} \right)\)
\(f(x)=\frac{1}{\sqrt{2\pi}\sigma} \exp\!\left(-\frac{(x-\mu)^2}{2\sigma^2} \right)\)

動的に生成するので、ちょっと重い環境だと、数式が表示されるまでにラグが見られます。LaTeXの数式がそのまま表示されているので、はじめは設定失敗かと思いました。

ただ、NoScript入れたり、JavaScriptを切っていたりすると表示されないのがネックかな。あと、吐き出されたソース見ると、古いブラウザだと表示に問題がありそうです。

2011/03/09

「見られること」の抑制効果

物理学者の田崎晴明氏が日記で京大入試不正問題に触れていて、内容に同感するものがあるので私もすこしばかり感じたことを。

この前の日記(2/27)にも書いたように、これほどに容易に入試問題を外に漏らすことができたということ、それをみんなが知ってしまったということは大きな意味をもっている。 もちろん、そんな不正をしようと思うような人はすごく少ないはずだが、それでも、可能性がはっきりした以上、大学側はなんらかの対応をしなくてはいけないだろう。 携帯電話を試験場で預かる方法をとった大学もあるそうだが、そもそも、その場の出来心で不正ができるわけではない。 やるとしたら、それなりの準備を重ねるわけだろうから、その程度の対策では意味は薄いだろう(携帯電話を二台もっていって、一台を預ければいい)。 素朴な方法だが、ずっと机の下に手を置かないよう指導し、巡回の際には、そういう細かいところも見て回るというのが最良の方法のような気がする。

どんなにがんばっても、プロが本気で計画をしたカンニング(前の日記に書いた、「小型カメラ+骨伝導イヤフォン方式」など)を阻止するのはきわめて困難に思える。 ただ、プロの「業者」に入試の不正を手伝ってもらった場合、業者側に不正の事実を知られてしまうという致命的な問題がある。 不正の手伝いは殺人みたいな大きな犯罪じゃないから、後になって暴露されたり、脅迫されたりする可能性はかなり高いと思われる。 すべての受験者が、発覚のリスクを背負い込むことまでしてプロに不正の手伝いを依頼するのは割が合わないという「まっとうな判断」をしてくれることを祈るしかない。 そして、(前回も書いたことだけど)不正をして大学に入っても決して充実した学生生活は送れないはずだということをすべての人に強く強く認識してもらいたい。

Hal Tasaki's logW 1103

確かに、不正が行われた事自体よりも、不正が考えられていたより容易に行われうるということが白日のもとに晒されたことが一番大きな影響を入試制度に与えるでしょうね。受験生も大学側も負担にはなりますが、公正さが確保されていると認識されるだけの措置をとることはやむを得ないでしょうね。だいたい受験生も、不正行為を働いて合格する人がいるということには我慢出来ないでしょう?

心理学の実験から、の存在、見られているということが不正行為の抑制に有効であることが示されています。実際、見られているかもしれないと無意識に感じるだけで、抑制効果があるようです。まめに巡回することも有効でしょう。今回の事件を発端として、他にも不正行為が発覚するようなことがあれば、監視カメラで記録するところまで突き進むかもしれません。このあたりは尋問の可視化で期待されている効果と同じかな。

不正をした事実は、学生生活だけではなくその後一生ついてまわります。今回の事件の報道で、その罪の軽重を語るときに、有名人のカンニングの逸話も持ち出されています。例えば文豪である夏目漱石も大学予備門の入試で数学の試験問題をカンニングしたことを『私の経過した学生時代』で告白しています。

これは、大学予備門の入学試験に応じた時のことであるが、確か数学だけは隣の人に見せて貰ったのか、それともこっそり見たのか、まアそんなことをして試験はっとすましたが、可笑おかしいのは此の時のことで、私は無事に入学を許されたにもかかわらず、その見せてれた方の男は、可哀想にも不首尾に終ってしまった。

夏目漱石『私の経過した学生時代

ここで疑問なのは書かなければ知られることのなかった逸話を書いたのかということです。漱石自身は合格したのに見せてくれた人は不合格だったと、ユーモラスな調子で書かれていて、一見すると武勇伝のようにも感じられます。でも、実際のところはこの随筆を書いた時点でもはっきりとその出来事を記憶しているくらい、罪悪感が残っていたのではないでしょうか。告白することで肩の荷を下ろしたいというようにも読めます。

不正入試に罪悪感を感じない人なら、そのうち道を踏み外してしまうでしょう。そして罪悪感を感じる人なら、学生生活だけではなくその後ずっと不正な手段で入学したという事実、そして誰かに見られて暴露されるかもしれないという恐れに付きまとわれますよ。

2011/03/04

玄侑宗久『荘子と遊ぶ ― 禅的思考の源流へ』

「自由」という概念は奥が深すぎて正直私の手に余る問題です。ある原理原則を突き詰めていくと、どうしても解消できない矛盾が発生します。政治哲学の論争は、結局「何を諦めるか」という点に尽きます。どの宗教・信仰でも、何らかの戒律を持つのも、この矛盾の存在をどのように解消するのかという観点からみると理解できます。そのようなことをつらつらと考えていく中で、「精神的な自由」と「物質的な自由」は実は両立しないのではないかという疑問が浮かびました。世界宗教と呼ばれる、民族の枠を超えて広がった宗教には、禁欲的な信条が美徳として掲げられています。これ、昔から疑問でした。なぜならとても不自然だからです。生物を学べば理解できますが、理想化された自然なんて現実には存在しません。結局理想を徹底的に追求しても、理想を実現できないばかりか、理想と正反対の現実を出現させることを認識して、「自由」についてかすかにですが理解できました。というわけで、プラグマティズムでいこうというのが今の私です。ただ、加減を自分で判断しなければいけないので、印象とは正反対にプラグマティズムはファンダメンタリズムより実践が困難であると思い知らされましたが。結局、「極」を理解出来ないと加減も分かりませんね。はまり込まない限り、理想を考えることは加減を知る上でも必要なプロセスです。

精神的な自由を追求する一つのあり方として日本人にも馴染みのあるものとしては、仏教であり老荘思想です。仏教に対抗して日本古来の神道を体系化する段階で老荘思想を利用したことも日本宗教史の研究で指摘されています。仏典を漢訳する段階で老荘思想の用語を使ったこともありますが、中国社会に根付く段階で、仏教の中に結構老荘思想の概念が入り込んでいます。そして、仏教の宗派の中でも、老荘思想を最も取り込んだ宗派の一つが禅宗です。玄侑宗久(著)『荘子と遊ぶ ― 禅的思考の源流へ』は、禅と荘子の思想の繋がりを寓話形式で語っています。私自身が荘子に興味をいだいたのは、高校時代の物理の教師に『菜根譚』を、会社の元上司に『荘子』を勧めらたりした影響もあるのですが。

まあ、本書読んで改めてその境地に至ることの難しさを思い知らされました。

つまり真人にとっては、生も死もひと連なりの受容すべき変化なのだから、あえて生まれたことを悦んだり死を憎んだりすることもない。ただ悠然として死に去り、悠然として生まれ来るだけだ。どうして生まれてきたのかも知らないし、死んだらどうなるのかも知らない。ただ命を受けてはその生を楽しみ、万事を忘れてその生を生き切ったらそれをお返しするだけだ。

(本書 p.44)

ここまで達観することは私にはいまだ出来ません。かと言って徹底的に抗うことも出来ず、自分は凡人だとつくづく思います。実践することが難しいからこそ、「すべての人が悟りへの道を目指したら人類衰亡するよね」という懸念が杞憂なんでしょうけど。

まあ、老荘思想にもとづく社会を現実のものにしようとすると、規模の制約があります。実際、その制約の存在は認識されていて、老子では小国寡民が説かれています。その社会は、相互に没交渉な小さな村々が広がる世界です。このあたりの制約は、ダンパー数に関係してそうです。実際文化人類学者からは、老荘思想の理想に近い狩猟採集民の集団の存在も報告されています。その集団では、村長がいても世話役みたいな役割を果たすだけで、いわゆる指導者的な役割の人は存在していません。現代的技術を拒否するアーミッシュの信条の根底にも、老荘思想に通じるものを感じます。結局、社会の規模がある程度大きくなると、社会インフラを維持するための制度的な仕掛けが必要とされます。そして、社会の規模が大きくなるにつれ、インフラを維持するための仕事をこなす人も必要とされます。それも望んでその職を選んだのではなく。結局、現代の市民社会もギリシア時代からどれだけ変わったのでしょうか。当時よりはより洗練されたものになっているのは確かですが。私が理想社会の実現を語る人に賛同できないのは、理想を支える仕掛けをどう構築し、維持していくのかが見えないからです。そういうわけで、理想を追求することもできない私のような凡人は、凡人らしくしか生きて行くしか無いです。夏目漱石の『草枕』の冒頭に、そのような考えにぴったりはまる一節があります。

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

夏目漱石『草枕』

仏教と老荘思想の混淆に関しては、なるべくしてなったというのが私の感想です。宗教史を見ると、世界的に広まった宗教は、拡大する過程で初期の形から変容しています。とくに仏教は仏尊自身が応病与薬という形で法を説いていますから、変容してきたことは必然と言っていいでしょう。そのように考えられるようになってから、宗教に関するこだわりはほとんど無くなりました。

『老子』の「知足」や「和光同塵」、『荘子』の「大覚」「衆生」「解脱」などの言葉は、すでに完全に仏教語になりきっている。翻訳語として採用された時点から、その思想ごと、仏教と混淆したというのが実情だろう。ことに禅は、三昧や禅定を裏打ちし、発展させるものとして荘子の「遊」の思想を積極的に取り入れた。菩提達磨の言葉とされる「無功徳」にも、すでに「無用の用」や「遊」は沁み入っている。功徳を積もうというインド仏教は、『荘子』によって大きく変質するのである。

(本書 p.260)

「遊」というと真面目な人は怒って説教されそうですけど、機械工学で「遊び」の重要さが知られているように、効率を徹底的に追求して遊びをなくせばシステムとしてとても脆くなります。かといって、遊びがあり過ぎても空転してうまく機能しません。この適度な加減が要求されるところに、「理学」と「工学」が目指すところの最大の違いが現れています。社会も適度な「遊び」がなければ、ショックを受けたときに壊れます。現在の日本が混乱している一因は、「遊び」の加減がうまくいかなくて壊れて始めているのでしょう。それでも、過去に蓄積した溜めがあるので、現状程度で済んでいるととも言えますが。

「遊」の境地に至るには程遠い私ですが、せめて以下の荘子の言葉は守りたい、そう思っています。

「名を行いて己を失うは、士に非ず。身を亡ぼして真ならざるは、人を役するに非ず」

(本書 p.146)