2011/07/20

長谷川 英祐『働かないアリに意義がある』

進化論で利他的行動をどのように説明するか、未だに論争が続いている問題です。長谷川英祐(著)『働かないアリに意義がある』は、真社会性生物の研究者として有名な著者によって、最新の研究成果をわかりやすく解説されています。

本書の表題に関連した、「第2章 働かないアリはなぜ存在するのか?」が、効率性と継続可能性の間のジレンマと絡めて読むと興味深いテーマとなっています。

つまり誰もが必ず疲れる以上、働かないものを常に含む非効率的なシステムでこそ、長期的な存続が可能になり、長い時間を通してみたらそういうシステムが選ばれていた、ということになります。働かないアリは、怠けてコロニーの効率をさげる存在ではなく、それがいないとコロニーが存続できない、きわめて重要な存在だと言えるのです。

重要なのは、ここでいう働かないアリとは、第4章で紹介するような社会の利益にただ乗りし、自分の利益だけを追求する裏切り者ではなく、「働きたいのに働けない」存在であるということです。

(本書 p.75)

アリのコロニーを取り巻く環境は常に変動していますから、必要とされる労働力も当然変わってきます。環境の変化には、生殖活動で個体数を変動させることでは間に合わないものも当然あります。特に必要とされる労働力が急激に増加したときに、既存の労働力を最大限働かせる対応では、個体の疲弊によって最低限必要とされる労働力さえ確保できない事態に陥り、それがコロニーの壊滅につながるリスクが存在します。そのため、環境の変化に反応する閾値の違う個体が集団に存在し、一定数の個体が働かない状態の集団が生き残ったと考えるのが妥当だということです。

もちろん、このことは効率性を軽視していいということを意味するものではありません。個体が生きて行くためには当然ながら資源を消費しますから、余裕がありすぎても競争的な環境のかなで生き残ることは出来ません。この「効率性」と「生存可能性」のバランスが絶妙なものが結果として生き残ってきたということです。この微妙なバランスは人間の集団にも当てはまることでしょう。単一の評価基準で判断するのは分かりやすく、また一時的に繁栄するかもしれませんが、結果として生き残ることはできないんですよね。生存可能性を高めることは、非効率に見えるのが難しいところです。

実際効率性の基準から見れば非効率と判定されるでしょうし、軍拡競争のように本来生存可能性を高める努力が裏目にでることもあります。我々は環境を完全に統制することができない以上、生存を保証する絶対的な基準を創り上げることは不可能です。「効率性」と「生存可能性」のトレードオフに最適解が見出されるか、私は否定的です。

終章に著者の科学哲学的信念が表明されていますが、この記述を読む限り「科学的とは何か」について私は著者と価値観を同じくしています。

多くの研究者(プロを含む)は、教科書を読むときに「何が書いてあるかを理解すること」ばかりに熱心で、「そこには何が書かれていないか」を読み取ろうとはしません。学者の仕事は「まだ誰も知らない現象やその説明理論を見つけること」なのです。優等生とは困ったものだと「変人」である私は思います。

(本書 pp.183-184)

私も、著者の主張と同様の趣旨のことを叩きこまれましたが。やはり「変人」なのか…。ま、否定はできませんが。

科学において新たな知見が得られるということは、既存の教科書に新たな記述が加えられるか、既存の記述が書き換えられるということを意味しますから、教科書とは正しいことが書かれている本ではありません。その記述が示す研究成果の確からしさには濃淡があるので、教科書の記述では観察される現象がうまく説明できない、というところから新たな理論が打ち立てられ、そして教科書もその新たな理論に合わせて改定されていきます。つまり教科書はある時点の研究成果のスナップショットであって、真理が記述された正典ではありません。

未解明問題は、問題が存在することが解明されただけでも理解が進んでいると言えます。

生物の進化や生態の研究には、まだまだ何が出てくるかわからない驚きが残っていると私は思いますし、驚きがないのなら、そんな研究はもうやめたほうがましだと思います。

(本書 p.184)

生物の研究は、未解明問題が解明されれると同時に、今までその存在が知られていなかった問題も明らかになるということがよくあります。驚きが尽きることがないという楽しさがある反面、確固たる基盤であると信じていたものがいつ崩されるかわからないという不安を抱かされます。それ故、本質という確固たるものに縋りたくもなる時があります。でも本質とは結局のところ研究対象に存在している性質ではなく、研究者が対象に対して抱いている信念にすぎない、私はそのように考えています。

2011/07/08

ハロルド・ハーツォグ『ぼくらはそれでも肉を食う ― 人と動物の奇妙な関係』

「生物とは何か」について明確な境界線を引けるか何度か考えたことがあるですが、どうしても境界問題を解消することが出来ず、明確な境界線など引けないという結論に至ってしまいます。境界線上にいるものとして昔から議論されていたのはウイルスがありますが、SFの世界で昔から関心が寄せられてきたのがロボットの問題です。自律的に行動できるロボットには、アニマルライツと同じくロボットライツを認めるべきなのでしょうか?有機系素材で構成されて、さらには自己増殖機能もあれば?また、コンピュータネットワークという仮想空間で自律的に行動し、自己増殖まで行えるとしたら、それは「生物」と見なすべきなのでしょうか?ここで、有機系素材という言葉を使いましたが、疾病によって金属製の人工臓器に置き換えられたとしたら、境界線場に位置することになるのでしょうか。また自己複製能力という言葉を使いましたが、生殖能力が失われている場合はこれも境界線上に位置することになる?といった具合に、一貫性を持った定義をひねり出そうとするとどこかに無理が噴出してきて、毎回断念する結果に至ります。とはいえ、何らかの作業仮説を持っていないと判断に困ることもあるので、私個人としては「食物網の中で依存関係にあるもの」を基本的な要件とすることにしています。ここで問題になるのは「個体」という概念で、粘菌や真社会性動物は、どの単位を「個体」と捉えたらいいのでしょうか。粘菌にとって個とはひとつひとつ細胞でしょうか?真社会性動物にとっては、コロニーが個であって、我々が個体として認識しているのはいわばコロニーの臓器の一部と見たほうがよい?これも私にはよく分からない問題です。

人間がなぜ「生物とは何か」について関心をもつのか考えてみると、人間の宗教、文化には普通何らかの食のタブーや殺生戒が存在しているからではないでしょうか?生きとし生けるものを殺さないとする信条にとって、生物とは何かという問題は悩ましい問題を引き起こします。仏教など、殺生戒の対象が広い宗教では、ちょっとしたことでも戒律に引っかかってしまいます。自分でも気づかないうちに私たちの身体に備わった生体防御機構が、日夜大量虐殺を行っています。では生体防御機構を切ってしまうとどうなるかというと、食物網における分解者がいわばリサイクルされるべき物と認識して、日和見感染のように早速リサイクル作業に取りかかりはじめますので、生きて行くことは困難です。第一、生きて行くためには食物を取らなければいけなくて、動物に生まれついたからにはその食物は他の生物、ということになります。生きて行くからには食べなければならず、食べるためには結局誰かが生き物を殺さなければいけない、というのは生物にとっては性のようなものです。植物も他の生き物が死んで分解者が再利用出来るような形にしてくれないと、必要な栄養素が摂取できないので、間接的に他の生物の死に依存しています。もちろん、虫を捕らえる食虫植物とか、天然の焼畑農業を行うユーカリとか、積極的に死をもたらす植物もいますが。なぜ私が「生物は食物網の中で依存関係にあるもの」であるとしているかというと、このようなことをつらつらと考えていたからで。結局霞を食べて生きて行くことが出来ない以上、どこかで妥協を図る必要に迫られます。仏教で托鉢で食べ物を賄い糞掃衣をまとうということは、生き物としての性から逃れられない中で、現実的な解決策として考え出されたことなのでしょう。

そのような訳でして、ハロルド・ハーツォグ(著)『ぼくらはそれでも肉を食う ― 人と動物の奇妙な関係』の論旨には深く賛同します。現実問題として、動物をどのように扱うべきかについて、原理原則に忠実に行動するとか、主義主張に一貫性を持たせるのは解決できない境界問題に直面するだけです。論理でその問題が解決できるのなら、「常識」という人工知能研究の難題は解決できるのですが、いまだ解決の目処が立っていません。論理だけで解決しようとすると、結局のところ何も決められません。どんな些細な問題でもとにかく決めなければ生きていけませんから、そこに「感情」の出番があります。進化の過程で生き残る戦略として洗練されてきたものですから、大抵の場合はそれなりに妥当な決定を限られた時間のうちに下すことが出来ます。問題は多様な状況下で常に妥当な判断を下せることは出来ず、時に認知バイアスの罠にはまることがあります。結局、「論理」と「感情」という、強力ですが万能ではない能力がたまに矛盾した結論をだすことに悩みつつ、なんとか折り合いをつけて生きて行くしかありません。本書でも著者は次のように指摘しています。

クリスは哲学者だ。人間が信念と行動の論理的な一貫性を実現したがることに感銘をうけている。そしてわたしは心理学者だ。わたしはむしろ、動物に対する考え方や行いにおける道徳的な一貫性の無さを露骨にさらしつつ、しかもそれを全く無視できることのほうに感銘を受けてしまう。わたしの体験では、ほとんどの人は―闘鶏家も、動物研究者も、ペット所有者も―私たちの個人的、文化的な動物の扱いにパラドックスや一貫性の欠如が見られることを指摘されても、頑固なまでにそれを無視する(たまに居心地悪そうな笑いはあるけれど)。

そんなわけで、現実世界で道徳的な一貫性を実現するのは、不可能とは言わないまでもなかなかむずかしいし、以下に動物を扱いべきかを考えるにしても、頭も心も当てにならないというのが現実なのだ。

(本書 p.350)

論理にしろ感情にしろ、どちらか一方にだけ従って生きていければ幸せなんでしょうけどね。現実問題としてそれは無理な相談なので、一貫性の無さにたまには悩みつつ、とりあえず許容できる着地点でなんとか折り合いをつけていくしかないんでしょうね。残念ながらこの地上にはユートピアは存在しませんし、ユートピアを実現しようとする運動が、歴史上毎回奇怪な結末を迎えるのを見ていると、ですね。

本書は残念ながら参考文献、注、謝辞が割愛されています。訳者は山形浩生氏なので、割愛するに当たっては編集者とは相当なやりとりがあったかと思いますが、訳者サポートページに掲載という形で妥協せざるを得なかったようです。また、著者のブログもあって、関連したテーマについてのエントリーがあります。

訳者サポートベージ
ハーツォグ『ぼくらはそれでも肉を食う』サポートページ
著者ブログ
Animals and Us | Psychology Today

2011/07/06

Google+は既存サービス群を統合していく?

今、メインのブログサービスとしてBloggerを利用しているのですが、ReadWriteWebの記事によると写真共有サイトPicasaとともにブランド名を変えてGoogle+に統合されるようです。

It looks as though the efforts to bring together Google's services under the 'Plus' umbrella might involve rebranding two of Google's longstanding products: Blogger and Picasa. Mashable's Ben Parr reports that the Blogger and Picasa names - not the products - will go away, as early as the end of the month. That timing will coincide with, according to Parr, the opening of Google Plus to the public.

Google Rebrands Blogger and Picasa to Make Way for Google Plus

とすると、BloggerやPicasaにアカウントがあるユーザは、自動的にGoogle+へと移行することになるのでしょうか。ソーシャルなサービスだと立ち上げ時のユーザ拡大が最大の課題なので、既存サービスを移行する事にすれば、一気に解決できることになります。まあ、移行に失敗するとユーザが一気に離れてしまうリスクと隣り合わせですが、Picasaの場合は容量制限の撤廃という最大の餌が撒かれるようなので、大多数の人はよほどサービスとかが改悪されない限りすんなりと移行しそう。

となると気になるのは、利用者数と知名度ではより大きいGmailとかYouTubeがどうなるかです。機能強化に伴い利用者数が増大してきたGoogle Docsとかも。

Those products, however, already fall into the Google naming convention. The other outlier, of course, when it comes to branding is YouTube. Parr says that Google has no plans to rebrand YouTube to Google Video (a good thing considering the fate of the actual Google Video earlier this year).

Google Rebrands Blogger and Picasa to Make Way for Google Plus

YouTubeのブランドはさすがに大きすぎて、現時点ではブランド名を変更する計画はナイトのことですが、ブランド名そのままでGoogle+との連携強化とかはありえます。Googleがソーシャルな世界に打って出るなら、新規にサービスを立ち上げるよりは既存のサービス群をコアに統合していくというのは、いろんな識者が今まで言及してきたことなので、ようやくその方向に向かって動き出したという感じですが。ヘビーウェイトなTumblrという感じになるのかな。

Google+については否定的な意見のほうが多いですが、Facebookを意識しすぎることなく全体の情報アーキテクチャをうまく設計出来れば、独自の位置をソーシャルな世界で確立できるかもしれません。LinkedInが成功したのは、Facebookがフラットな空間である体と考えています。プライベートなつながりはFacebookで、仕事のつながりはLinkedInでと、ネットワークを使い分けしないと、いろいろ厄介なことがありますから。特に公私の区別がはっきりしている欧米では。

2011/07/05

専門的であり過ぎることの盲点

更新間隔があいてしまったので、最近感じていることについて少し雑文を書いておきます。震災、原発事故をうけていろいろな提言がなされていますが、「これは…」という提言が活動家のみならず、専門家からも出てくるのを見て、何とかならないものかと思ってしまったからで。

私が専門家が纏めた提言についてまずチェックするのが、「自分の庭先をきれいにする」というストーリーになっていないかということです。専門家には、前提となる環境の整備とか、副次的に発生する問題とかを小さく見て、自分の専門領域の仕事を最も効率的にしようとするインセンティブが常に働いています。特定分野の専門家が集まって纏めた場合、そのあたりの危険性を任してきいる方が仕切っていない場合は特に危険性が高いです。異なる専門領域の専門家が集まって対策を協議すると、なんとか自分の庭先を綺麗にしようとする麗しき言動を頻繁に目にすることができます。そのような言動をうまくしきれる人が入ればいいんですけどね。いない場合には、「ご高説ごもっとも」としか言いようがないことも。

「自分の庭先をきれいにする」という行動、自らの責任を回避するために意識的に行う場合もあれば、結果的にそのような行動をとってしまうという場合もあります。特に専門性の高い方だと、自分の専門領域に注意を集中させてしまうあまり、その提言が成り立つための前提条件とか、副次的に発生する新たな問題を軽視する傾向があります。専門家の話を聞いていて時々感じるのは、自らは素晴らしいアイデアを持っているのだから、それを実現するための前提条件を整えるとか、副次的な問題を解決るとかは、その別な問題領域の専門家が解決する問題であると考えているようだということです。特に自らのアイデアに惚れ込んでいる方では顕著です。専門家としてトレーニングを積んでいくと、前提条件は成り立つのか当たり前すぎて、非常時にも成り立っていると考えていいのかという点を失念しがちです。そして、どのような副次的な問題が発生するかについては、問題が発生するのは専門外の領域ですので自ら明確に把握できるものではありません。

前提条件の問題に関しては、特に学術方面の方の場合には、正確性に対するこだわりが強すぎて、実務的には非現実的な話になることも。学術的に問題の解明を進め、研究成果を論文にまとめて議論を尽くした上でないとダメだとか、手遅れになって死んでしまうんですが。だいたい科学的に解明されているのはごく一部で、実務的に使えるのは更に限られているので、現実には原因も対策もよくわからない中で何とかする、というのが現実にはありがちなパターン。たしかに科学的に見れば美しくはないですが、問題がどんどん進行している以上、解明を待ってはいられないこともあります。そのうち解明が進むことを期待しつつ、その場その場で何とかするという対応になってしまうのは避けようのない現実です。そのあたりが科学的思考と実務的思考の違いです。世の中では「科学的」という言葉が濫用気味なので、私の使い方は一般的な用法と比べるとかなり狭いと思います。科学では分からないことはあくまでも分からないとすべきものですが、実務では分からないことは分からないなりに何とかするものですから。

分からないなりに何とかすると、当然裏目にでることがあります。裏目に出たときに専門家に求められる責任の果たし方は、なぜうまくいかなかったかを究明し、それを教訓として再発防止につなげることであると、私は考えています。もちろん、裏目に出たことによって不利益を被った人自身はそれによって救われるわけではありません。そのあたりの納得のいかなさが法的責任と絡んできたりします。因果応報は善悪両面で社会を維持する感情ですから、専門家集団全体に対する大きな信頼なくしては、免責制度の導入は困難です。かといって責任追及が厳しすぎれば専門家が防衛的になりすぎて、誰も幸せにはなりません。免責というのは今まで蓄積してきた信頼の一部を一時的に取り崩すことでもありますから、はじめから信頼がなければ事態がこじれるだけですし、また乱発しても専門家に対する信頼が失われていきます。安心は取引できますが、信頼そのものは取引できません。関係性の中で徐々に築き上げるしかないものなので、取り崩すときには慎重に。再度積み上げるには時間がかかります。

出来ることを出来ないと思い込むところに停滞の原因があるのですが、出来ないことを出来ると思い込むのは停滞どころではない危険が待ち構えています。私は専門家の信頼性の基準を、分からないこと、出来ないことをはっきりと言えるかという点においています。専門分野への深い理解と、自らの技量への自信がなければ出来ませんから。でも、そのような人って案外一般には不評だったりするのが残念です。やっぱり頼りたいという気持ちが強いのでしょうね。

本ブログは過疎サイトではありますが、たまたまこの文章を目にしてカチンとくる方もいるかも知れません。でも、この文章は「なぜ理解されないのか」という自らの苦い体験から、その原因を私なりに整理したものです。私の場合、原因が自分なりに理解できたときには手遅れだったのですが。日本の場合、専門家を組織して使いこなせる人が決定的に不足しているんでしょうね。専門家とは求められる才能、スキルが異なるので、優れた専門家が優れた組織者になれるといは限りません。名選手必ずしも名監督ならずです。でも、専門家としても優れていないと、その下につくことを是としない方もいるのは頭の痛いところ。