2011/08/18

通信?表現?

コンピュータにおける自然言語処理に関する論争を契機として、私は言語には通信の手段としての役割と、表現の手段としての役割の二面性があると考えるようになりました。そして、通信であるか、表現であるかは、権利と義務において大きな違いをうみます。特に民主主義国家ではそうです。

通信の手段であるならば、個人のプライバシーとしてその秘密は基本的な権利として認められています。会話内容を自らの意思で公開しない限り、どのような内容であってもあくまでも当事者間の問題であり、原則として通信したものだけでは責任を問われることはありません。もちろん、リークなどによって公になってしまうと、漏れた内容に関して不適切であると責任追及されることはありますが。ただし、通信は特別な取り決めがない限り基本的には非公開が原則ですので、通信内容を漏洩させたことにたいしては公益に絡まない限りにおいて責任を問うことが出来ます。規制の体系も基本的にプライバシーを守る方向に整備されています。そして通信に対する検閲に関しては、一般には快く思われていません。

これに対して、表現の手段であるならば、基本的には公の場で披露されることが前提です。ただし通信の自由と異なって、表現に関しては表現者の責任においてその内容を公開することが大きな違いになります。そのことを端的に表すのが「文責」という言葉です。公開した内容に異議申立てがあった場合、公開した人の責任において対応しなければいけません。つまり内容に関して常に責任を問われる可能性があるということが、通信の場合と大きく事情が異なるところです。そして、不特定多数が受け取りうるという性格上、民主主義国家においても最低限守らなければいけないルールが定められています。さらには民事訴訟が絡むと結構厄介で、表現の自由に関してはSLAPPによって発言を封じること問題視されています。何らかの支援が受けられず、また自前で対抗手段をとれる財力がなければ、必要とされる弁護士費用と、割かなければいけない時間を考慮すると、結局口をつぐむことになります。

このように通信と表現は、自由と責任に関しては、そのあり方に大きな差異が存在します。

それで、あきみち氏の次のエントリーを読んで、ソーシャルメディアによって通信の手段と表現の手段が融合してきたことについて色々考えさせられました。

結局、同じメディアを使うことによって、使っている本人にとっては通信の手段として使っているつもりであっても、その内容を公開してしまえば表現の手段として使っているとも取れるということです。

ブログ、mixi、Twitter、Facebook、その他ネット上のサービスで自分が行った行為を赤裸々に書いてしまったがために炎上してしまうという事例が増えつつあります。 日本では、飲酒運転等の告白が最近話題ですが、 海外での極端な事例としては、たとえば、イギリスの暴動で略奪した品物をTwitpicに投稿したことによって逮捕されたという事件がありました。

Geekなぺーじ : ネットにおけるオープンマインドとネット規制の話

本人にとっては、一般に公開されていて、その内容について責任を問われうるという意識は全くないのでしょう。いつのやり取りしているメンバーとメッセージのやり取り(=通信)をしているだけで。注意して使えばいいかというと、人間にはミスがつきものです。Twitterでわいせつ画像をDMで送ったつもりが、一般公開でTweetしてしまい辞職に追い込まれた米議員の例などもあります。結局、オープンにするには不適切なメッジージが本人の自覚が全くなしにオープンになっていくのなら、それは表現として規制されるべきだというのが、ネット規制推進派の根底にある考え方なのでしょう。技術は融合しても、制度は融合されていないという、過渡期にあります。そして、新たなメディアの出現に対して、自由と規制に関する制度をどのように変容させていくのか、いまだ社会的な合意は得られていません。

その様な過渡的な状況に対して、私は基本的にメディアを使い分けることで対応することにしています。メール、Twitter、ブログ、Tumblr、Facebook、そして最近ではGoogle+ですが、個人の中では一応使い分けを行なっています。ちょっとTumblrの使い方とGoogle+の使い方で重なる所が多くて、最近Tumblrのほうは更に更新頻度落ちていますが。まあ、器用な方は同じメディアを使っていても自然と使い分けできるのでしょうが、私には無理です(汗)。

でも、基本的には「情報は自由になりたがる」傾向がありますので、公の場所でやらないこと、できないことはネットでも同様です。リアルでも内緒話が噂として広まっていくのと同じで、ネットではより迅速にうわさ話が拡散していきます。こればかりはネットというメディアのせいではなく、人間の性のようなものでしょうから、致し方ないですね。

2011/08/17

Google+試用中

最近ちょっとGoogle+試用中です。いまのGoogle+は、提供されている機能とか利用者の使い方を見ていると、なんかTumblrと同じような雰囲気のサービスになっていますね。私がそのような使い方をしているというのも影響しているのかもしれませんが。

ソーシャル能力不足しているのにもかかわらず、ソーシャルサービス増やしているので、ちょっと限界超え気味。コメント欄とか管理しきれないので、一旦閉鎖します。ZenBackを貼りつけているので、ソーシャルでなんかコメントがあれば反応できるかもしれません。

2011/08/04

長沼毅『世界をやりなおしても生命は生まれるか?』

朝日出版社、中高生向けの特別講義をベースに、専門的な内容をわかり易く解説した本を次々と出版していますね。『単純な脳、複雑な「私」』とか、『とんでもなく役に立つ数学』とか。別に批判しているわけではなくて、なかなかうまいやり方ですね。「一般向け」という漠然とした対象像で語るよりも、「専門的な知識は持たないもののテーマに関心をいだいた中高生」というある程度具体化した対象読者層を念頭において語ったほうが、語り手の方も話を構成しやすいですから。長沼毅(著)『世界をやりなおしても生命は生まれるか?』も、極限環境微生物の研究をベースに、生命の起源とか地球外の生命の存在、そして「生命とは何か」という、生物学を学んだものなら誰でも一度は思い描くであろう問題にまで話を進めています。

生物の進化を考える上で早くからその問題が認識されながら、その研究にはかばかしい進捗が見られない問題の一つに「生命の起源」の問題があります。原始地球の環境で生命活動が成り立つ条件を探ろうとしても、常に解決困難な壁にあたってきました。基本的な素材が生成されることは分かっているのですが、そこからどのように組織化されていったのかを理解するのが難しい。そのような困難に直面している状況を打開してくれるかもしれないのが、本書の著者が専門とする深海熱水域の生物圏に棲息する微生物の研究です。深海熱水域の環境は原始地球に近いと考えられますから、そのような条件で棲息する生物の生命現象を進化発生生物学的アプローチで研究を進めれば、生物の起源に対する有力な手がかりが得られることが期待できます。

そのように生命の起源を探っていくと、「生命とは何か?」というより根本的な疑問に立ち至ります。著者も次のような問を発しています。

それでも「生命とは何なのか」という問題は相変わらず大きすぎて、普通の人の手にはおえません。だから僕は「『生命とは何か』とは何か」という、複雑な問にもう一段変形しました。つまり、「生命とは何か」という問題そのものは一体どいういうことを問うているのか。こういう二重構造の質問をすることが、科学者や哲学者の特質です。そして、こういう二重構造の問題のことを「メタな問い」と言います。メタな問いを考えることで、と割れてすぐに出る答えではなく、その問題の本質が見えてくるんです。

(本書p.23)

結局「生命とは何か」という問いに生物学が妥当な説明を与えることは出来ず、「『生命とは何か』とは何か」という生物学の哲学の問題としてまずは考えていくしかないということですね。そして生物学の研究成果によって、このメタな問題をどのように考えるのが一番妥当であるかということを探っていくということになるのでしょう。でも、そのように考える以上、生物学に出来るのは生命をどのように定義すれば「生命とは何か」という問いをうまく構成できるかであって、「生命とは何か」という問いそのものは形而上学的な問いとして、生物学の哲学にその問題を任せることになります。「生命の本質」という問題も、それは追求すべき答えなのではなく、追求する側が抱いている生命観の問題であると捉えています。真理という問題も、科学的方法論において真理であるとどのように証だてることが出来るのか、私にはさっぱりわかりません。真理というのは対立仮説の存在確率がゼロであると定義すると、そのようなことが科学的に立証することが出来るのでしょうか。凡人でしかない私にはさっぱりわかりません。

でも、どのように問題を組み立てたらいいのか考えるというのは、大変ですけど科学の一番の面白みのあるところですよね。本書の著者のように敢えて厄介な問題に突撃していく方を見ると、すごいなあ、面白いなあと感じます。